1998年ヨハネの福音書?部第21講

 

主の御名によって来られる方に

 

御言葉:ヨハネの福音書12:1ー19

要 節:ヨハネの福音書12:13

「しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。

「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」

 

 先週私たちは良い牧者イエス様について学びました。今日から学ぶ12章からはエルサレムで行われた出来事です。この12章から最後までの出来事は六日間行われた出来事ですが、ヨハネの福音書の半分を占めています。今日の本文には二つの出来事が出ています。一つは、イエス様がマリヤから香油を注がれる出来事です。この出来事は私たちの毎日の生活の中で、どれだけ本当に感謝しているかを考えさせます。もう一つは、イエス様が群衆の歓迎の中でエルサレムに入城される出来事です。この出来事はイエス様が人々から賛美されるにふさわしい方であることを教えてくれます。今日の御言葉を通してイエス様にどんな姿勢を持って仕えるべきかを学ぶことができるように祈ります。

 

?。香油を注がれたイエス様(1ー8)

 

 第一に、イエス様に香油を注いだマリヤ(1?3)

1節をご覧ください。イエス様は過越の祭りの六日前にベタニヤに来られました。過越の祭りはイスラエル人が神様の大いなる力によってエジプトの王パロの支配から解放されたことを記念する日です。毎年過越の祭りになると、人間の罪のために数多くの小羊が犠牲にされました。しかし、今度の過越の祭りにはイエス様が過越の小羊とならなければなりませんでした。イエス様はそのためにエルサレムに入城されました。すなわち、イエス様は人々の罪を取り除く神の小羊として入城されたのです。イエス様はエルサレムに上る途中ベタニヤに来られました。そこには、イエス様が死人の中からよみがえらせたラザロがいました。人々はイエス様のために、そこに晩餐を用意しました。そしてマルタは給仕していました。ラザロは、健康な姿でイエス様とともに食卓に着いている人々の中に混じっていました。この晩餐は人々がイエス様から受けた恵みを覚えて用意したもの宴会でした。ところが、マリヤは特別な方法でイエス様に対する感謝と愛を表現しました。3節をご覧ください。「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油3百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。」この香油は後で経済通のイスカリオテ・ユダが三百デナリと計算したように、大変高価なものでした。当時一デナリというのは、ひとりの労働者の一日の給料でしたし、彼らは安息日には仕事をしませんでしたから、三百デナリは、一年分の給料を意味します。つまり、一人の男の年俸です。香油は当時の女性達が結婚の持参金として非常に大切にするものでした。マリヤは食べたいものも食べず、買いたいブラウスも買わず、貯金して香油を貯めました。香油が少しずつ貯まって行くにつれてマリヤの夢も膨らんで行きました。ですから純粋なナルドの香油にはマリヤのすべての真心と愛情と夢が入っていました。マリヤは香油の入った壷を隠して置いて楽しんでいました。しかしマリヤがイエス様に出会ってからは彼女の夢や価値観が全く変わりました。今や彼女にとって香油よりも大切なのはイエス様でした。イエス様は世の何よりも大切な存在でした。なぜならイエス様は彼女の罪を赦し、新しく生まれさせてくださったからです。彼女はイエス様を通して新しい人生の意味と目的と希望を見つけました。また、彼女には弟のラザロを生き返らせていただいたことへの感謝の気持がありました。ユダヤ人の風習によると香油はお客の頭に一滴か二滴だけを落としました。ところがマリヤはそれほど高価な香油を、惜しみなくイエス様の体に全部注いでしまいました。しかも、自分の大事な髪の毛でイエス様の足をぬぐいました。髪の毛は女性にとって非常に大切です。?コリント11:15節を見ると、長い髪は女の光栄であると言いました。それで女性は髪の毛を大切にします。マリヤは自分の大切な髪の毛でイエス様の足をぬぐいました。それはマリヤの信仰告白でした。マリヤはイエス様は自分の主であり、自分はイエス様のはしためであることを告白しました。マリヤはこのようにしてイエス様に対する最高の尊敬と愛と感謝を現しました。香油はマリヤのイエス様に対する愛の表現であり、尊敬と従順の表現であり、献身の表現でした。

今日多くのクリスチャンはイエス様を愛しますが生ぬるく愛しています。また、イエス様に捧げるものに対して惜しむ心を持っています。それはイエス様より自分や世のものをもっと愛しているからです。人は自分のために惜しむ心がある時幸せになりそうですが、実はそうではありません。むしろ自分が大切に思っているものを失うのではないかと心配するので心の平安がありません。しかしマリヤのようにイエス様のために惜しみなく捧げ、情熱的にイエス様を愛する時、心の中には喜びと平安で満たされます。マリヤがこのようなことができたのはイエス様から受けた罪の赦しの恵みが大きかったからです。ルカ7:47には多くの罪が赦されている人は多く愛しますが、少ししか赦されない者は、少ししか愛しないと言っています。私たちがイエス様の救いの恵みを深く覚えれば覚えるほど主と福音のみわざのために犠牲的に捧げることができます。マリヤがイエス様から受けた恵みに比べれば香油は実に小さなものでした。マリヤは過去罪によって苦しみ、人生の虚しさで苦しみました。しかし、イエス様は彼女のすべての罪を赦し、彼女を罪とサタンの勢力から解放してくださいました。そして人生の意味と目的と希望を与えてくださいました。マリヤはこのイエス様の恵みを覚えて自分にとって一番大切な香油を惜しみなく捧げることができました。

マリヤはイエス様を心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛しました。私達は、霊的に死んでいた状態から主によって生まれ変わらせていただいたことに対して、一体どれだけ感謝の気持を主に表しているでしょうか。私達は、自分が主によって新しいいのちを与えられ、今こうして生かされているということについて、一体どのような形で感謝を表しているでしょうか。

第二に、悪い動機を持っていたイスカリオテ・ユダ(4?6)

 マリヤの行いに対してイスカリオテ・ユダはどのように考えていましたか。5節をご覧ください。「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼はりっぱなことを言いました。しかし、彼の動機は不純でした。著者は彼がそのように言った動機について言います。6節をご覧ください。「しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。」彼は動機が悪かったので彼女の純粋な動機を知りませんでした。彼の目には香油がただお金としてしか見えませんでした。彼はお金を愛しました。彼はイエス様の弟子としてイエス様から多くの愛と恵みを受けたにも関わらずイエス様を愛しませんでした。結局彼はお金を愛したためにいのちの主を裏切ってしまいました。?テモテ6:10節は次のように警告しています。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人達は、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」彼がイエス様よりお金を愛した時、すべてのものを得て幸せになりましたか。そうではありません。彼はすべてのものを失ってしまいました。甚だしくは自分のたましいまでも失ってしまいました。イスカリオテ・ユダは外見上イエス様の弟子としてよく信仰生活をしているように見えましたが、彼は仮面をかぶり、自分をごまかし、神様と人を欺いて生きていたのです。彼はその二重心を悔い改めなかった時、結局滅んでしまいました。

第三に、マリヤの真心を受け取られたイエス様(7,8)

 イエス様はマリヤの行ないをどのようにご覧になりましたか。7節をご覧ください。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。」イエス様はマリヤの精一杯の感謝の表現を受け入れてくださいました。彼女の行いがイエス様の葬りを象徴していたからです。当時、人が死ぬと香油を塗りました。この美しいマリヤの行いは、主が十字架に付けられる前の最後の出来事となりました。彼女は私たちのためにいのちを捨てられるイエス様に自分の最善のものを捧げました。主は、マリヤの感謝を喜んで受け入れてくださいました。さらにイエス様はマルコ14:9で次のように言われました。「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

人間的に見ると、マリヤの行いは非生産的であり、無駄なことのように見えます。しかしイエス様はそれを高く評価されました。それを見るとイエス様に捧げるものは何一つ無駄ではないことがわかります。私たちは時々目に見える実がない時、自分が無駄なことをしているのではないかと思う時があります。特に周りの人々から「あなたはいったい何をしているのか。」と言われたりすると、そのような考えが生じます。しかしイエス様は結果とは別に私たちの真心をすべて受け取ってくださる方です。それでパウロは次のように言いました。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(?コリント15:58)。イエス様は私達の最高のものを捧げるのにふさわしい方です。なぜならイエス様は私達の罪のためにご自分を犠牲にされたからです。イエス様は私たちが真心を持って捧げるものを何一つ無駄にしない方です。人々はそれを知ってくれなくても主は知っておられ、受け取られる方です。ですから、私たちがこのイエス様にマリヤのような真心を持って仕えることができるように祈ります。

8節をご覧ください。「あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」イエス様が十字架につけられ死なれる事件は人類歴史上一度しかない事件です。イエス様は間もなく十字架につけられ死なれるので彼らといつもいっしょにいるわけではありません。しかし、貧しい人々はいつも彼らといっしょにいるので助けようとすればいつでも助けることができます。ここで私たちは主と福音のみわざに仕える、時の重要性について学ぶことができます。ある人はいつかは献身的に主と福音のみわざに仕えたいですが、今はいろいろ忙しくて時間がないと言います。しかし私たちにいつも主と福音のみわざのために働く時間があるのではありません。「Time flies.」という諺のように時は矢が飛ぶように早く過ぎ去ります。時間は決して私たちを待ってくれません。私たちは今、特に若い時に主と福音のために働かなければなりません。

 

?。ろばの子に乗って来られるイエス様(9ー19)

9―11節をご覧ください。大勢のユダヤ人の群れが、イエス様がベタニヤにおられることを聞いて、やって来ました。それはただイエス様のためだけではなく、イエス様によって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもありました。ラザロのために多くのユダヤ人がイエス様を信じるようになりました。ラザロはイエス様がいのちの主であることを証する復活の証人でした。反面宗教指導者達にとってそれは頭痛いことでした。彼らはラザロの出来事を通してイエス様が神様が遣わされたメシヤである証拠をはっきり見ました。ところが彼らはイエス様を信じようとしませんでした。彼らはイエス様を信じないと堅く決心しているようです。彼等は信じないだけではなくラザロも殺そうと相談しました。

イエス様は今まで公にご自分を現すことを避けておられました。しかし、これからは公にご自分を現して大勢の群れの歓迎を受けながらエルサレムに入城されます。これを勝利の入城と言います。なぜならイエス様はエルサレムに入城されて私たちの罪のために死なれ、復活されることによって罪と死の勢力を打ち破られたからです。イエス様のエルサレム入城はメシヤとして宣布することであり、また、苦難の道を歩むことを決意したことです。

 12、13節をご覧ください。ベタニヤでの宴会の翌日でした。祭りに来ていた大勢の人の群れは、イエス様がエルサレムに来ようとしておられると聞いて、しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行きました。そして大声で叫びました。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」過越の祭りはユダヤ人の三大祭りの中でも最も大切なお祭りですから、盛大に祝われました。ユダヤ人歴史家であるヨセフォスによれば、過越の祭りには、海外にいたユダヤ人もエルサレムに巡礼に来て、270万人にも及んだと記しています。その中の大勢の人々が、しゅうろの木の枝を取って、エルサレムに入って来られるイエス様を出迎えました。「ホサナ」は「どうぞ救ってください。」という意味です。イエス様は私達を罪と死から救ってくださる王として入城されました。

一般的に王が入城する時には兵士達が保護しながら黄金の馬車に乗って入城します。それを通して王として威厳と権威を現し、民に恐れ敬う心を植え付けました。ところがイエス様はどのように入城されましたか。14節をご覧ください。イエス様は、ろばの子を見つけて、それに乗って入城されました。イエス様は馬にではなく、ろばの子に乗って入城されました。それにはどういう意味があるでしょうか。

第一に、それは旧約の預言が成就するためでした。イエス様はエルサレムへの入城を通してゼカリヤ9:9節にある御言葉を成就することを願われました。イエス様は神様の御子ですが、神様の御言葉に絶対的に従われました。

第二に、イエス様は聖書に預言された王であることを意味します。旧約聖書のゼカリヤ書9:9にはイエス様について次のように預言されています。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」ろばは平和の時に乗りました。ですからそれはイエス様が戦争をする王ではなく、平和の王であることを意味します。イエス様は平和の王です。

イエス様は私達の心の中にお入りになり、私たちの心を愛と平和によって治めることを願っておられます。人々の心に平安がなくいつも不安と恐れと心配に満ちている理由は何でしょうか。それはイエス様に治められるず、サタンに治められているからです。誰でもイエス様を王として心の中に迎え入れる人はすべての不安と恐れが消え去り、平安と喜びに満ちあふれるようになります。このイエス様を私の王として心の中に迎え入れることができるように祈ります。

初め、弟子達にはこれらのことがわかりませんでした。しかし、イエス様が栄光を受けられてから、これらのことがイエス様について書かれたことであって、人々がそのとおりにイエス様に対して行なったことを、彼らは思い出しました(16)。17?19節はイエス様の名声がどれだけ高くなったかを言っています。そこで、パリサイ人達は互いに言いました。「どうしたのだ。何一つうまくいってはいない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」

結論、イエス様は私達のすべての真心といのちを捧げて拝むのにふさわしい王です。また、私たちが賛美するにふさわしい方です。愛と平和の王であるイエス様が私たちの心を治めてくださるように祈ります。また、私たちにとって一番大切なものを主と福音のみわざのために惜しみなく捧げることによって神様の救いのみわざに尊く用いられるように祈ります。