1999年のイースター修養会復活シンポジウム?
復活の栄光
御言葉:コリント人への手紙第一15:35ー49
要 節:コリント人への手紙第一15:42ー44
「死者の復活はこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、
御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。」
私達は今までキリストの復活は確かなことであり、キリストが復活されたように私達も復活することが出来ることを学びました。ことろが復活の奥義を知らない人々は、死者はどのようにしてよみがえるのか、どのような体で来るのかと聞く者がいます。この質問は私達の質問でもあります。私達の体は死ぬと土に戻ります。また火葬されると一握りの灰となってしまいます。このような人々がどのようにして再びよみがえるのでしょうか。また交通事故や戦争など予想もしなっかた事故によって手足をなくした人もいます。またある人は太り過ぎや背が低いことで自分を責めたりします。もしよみがえる時にはそのような体でよみがえりたくありません。それでは私達はどんな体でよみがえり、どのように生きることができるのでしょうか。使徒パウロは種粒の例を通して説明しています。
?.どのように生きるか
36ー38節をご覧ください。「愚かな人だ。あなたの蒔くものは、死ななければ生かされません。あなたの蒔くものは、後にできる体ではなく、麦やその他の穀物の種粒です。しかし神は、御心に従ってそれに体を与え、おのおのの種にそれぞれの体をお与えになります。」使徒パウロはキリストの復活を疑う人達に向かって「愚かな人だ」と責めています。そして自然法則の種粒を例にあげて説明しています。それでは地に蒔かれた種粒はどのようになりますか。第一に、種粒が地に蒔かれて死ぬ時、新しいいのちが生まれます。種粒が地に落ちて死ねばそこから目が出、やがて美しい花が咲きます。同じように私達の体も死ぬと新しい体でよみがえります。第二に、種を蒔く時は種だけ蒔きますが、神様は御心の通りに種粒に新しい体を下さいます。私達は種粒を蒔くのは将来の形を蒔くことではありません。ただ、麦や穀物の種粒、あるいは花の種だけを蒔きます。そうすれば、神様は御心の通りにそれぞれの種粒にそれぞれの体を与えて下さいます。このように暖かい春になれば、ヒマワリの種を蒔いて土で埋めて適当に水をあげると時間が経つにつれて蒔かれた種が腐って青い芽を出し、段々成長して行きます。そして時が来れば好ましく美しいヒマワリの花が咲きます。バラの種を蒔くとバラの花が咲き、ヒマワリの種を蒔くとヒマワリの花が咲きます。このように種が地に落ちて死ぬ時神様は種よりもっと美しい形を与えて下さいます。同じように私達の肉体が死ぬとそれぞれの個性はそのまま持ちながら、神様はその御旨に従って美しく新しい体をそれえぞれにお与えになります。第三に、復活された体の形は天の御国で生きるように変化します。これはまるで、地でははうことしかできないがその皮をむくやいなや一匹のちょうのようになり、大空を飛び回ることのようです。では復活された姿は具体的にどのようなものでしょう。
?.どんな姿で来るか(42ー49)
42ー44節を一緒に読んで見ましょう。「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉の体で蒔かれ、御霊に属する体によみがえらされるのです。血肉の体があるのですから、御霊の体もあるのです。」私達の肉は結局土に戻って行きます。女性達は白く美しい肌を持った姿を求めます。また美しくなるため口紅を塗り、マスカラをし、整形手術もします。しかし時が来れば目の下にはしわができ、髪の毛は白くなり、歯がぬけ、体は老いて土に戻って行きます。このように私達はいつかは腐って亡くなる人生です。だから人々は意味のある素晴らしい人生を生きたいと思いながらも罪と間違いだらけの人生、情欲に従う人生を生きることになります。絶えず聖なる生活をしたいと思いながらも罪深い生活をします。それは私達が土で出来た卑しい体を持っているからです。しかし将来私達の体は朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえるのです。卑しい体で蒔かれ、栄光なるものによみがえるのです。弱いもので蒔かれ、強いものによみがえり、血肉の体で蒔かれ、御霊に属する体によみがえるのです。私達の体は神の国で生きる事が出来るように変えられます。その時には自分の思う通りに動かない体を起こして早天祈り会に参加する必要がありません。罪に落ちて悔しい思いをしながら負担感を持って所感を書く必要もありません。勉強する必要もアルバイトする必要も職場を通う必要もなくなります。右の手首の痛みのため苦しんでいる金テモテ、金カレブ宣教師は丈夫な手首を持つことができます。その時私達は自然に神様を愛し、聖なる生活、義なる生活をするようになります。すべての思いと行いが神様を喜ばせるものとなります。それだけではありません。私達がよみがえりの栄光で生きる聖なる都エルサレムは黙詩録21章によく現れています。城壁は壁玉で造られ、都は混じり気のないガラスに似た純金で出来ています。都の城壁の土台はサファイヤ、真珠など私達が聞いたことも見たこともないあらゆる宝石で飾られています。その都には太陽も月も要りません。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明りになります。また復活の栄光に参加した聖徒達はお互いに慰められ、主とともに喜びます。神様は聖徒達が福音のみわざに仕えながら流した目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。使徒パウロは復活の栄光を考える時この世で主のために受ける苦しみをむしろ喜びながら誇りました。私達がキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともに受けなければなりません。今の時のいろいろの苦しみは、将来私達に啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものです(ローマ8:17、18)。世の栄光はしばらく草の花のようですが天の御国の栄光は朽ちることもなく汚れることも、消えて行くこともない永遠な栄光となります。
どのようにしてこんな驚くみわざが起こり、栄光ある生活ができるのでしょうか。45節をご覧ください。「最初の人アダムは生きた者となったと書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」アダムは生ける者で被造物に過ぎないが、キリストは創造主としていのちを与えて下さる御霊だからです。私達は主を信じることによって神の国に属する者となり、神様の形に似た新しい者になったからです。私達は安みたい心を否認し、良い忠実なしもべにならなければなりません。私達は主に賞賛される喜びと望みを持ってキャンパス開拓のみわざに仕えなければなりません。私達が担う様々な十字架は主が来られ神の国で主とともにする復活の栄光に比べれば取るに足りない大きな祝福と栄光になります。私は最近復活の栄光を見上げることができず現実の問題に縛られていました。職場で給料の計算の日になると手作業のために本来の生活のパタンが崩れ、多くのストレスを受けました。先月も何日間やり続ける仕事のため喉や舌がはれて何も食べることが出来ず倒れる直前でした。私は神様に復活の信仰を下さり、様々な十字架を担うことが出来るように祈りました。でも少し無理すると口の中が破れてしまうことで主のみわざに消極的な者でした。しかし神様は本文の御言葉を準備しながら私の卑しい体が栄光ある体、強い体にによみがえる強い復活の望みを与えて下さいました。私がよみがえりの栄光なる姿を見上げることができず状況に縛られたことを哀れんで下さい。これからは神の国に対する生ける望みと復活の栄光を見上げます。私が世で休もうとする心よりよみがえて天の御国で永遠に休む望みのゆえ喜びながら積極的に主のざに励むことができるように祈ります。神様、万物が躍動する復活の春の季節復活の信仰によって勝利することが出来るように祈ります。Fellowshipの宣教師達と早稲田大学の開拓みわざに心を尽くすことが出来るように祈ります。
以上で私達の卑しい体は死ぬと土に戻りますが復活する日には朽ちない体、栄光ある体でよみがえることを学びました。この時間復活の栄光を見上げながら使徒パウロのように喜びながら十字架を担うことが出来るように祈ります。復活の証人として任せられたキャンパスの開拓のみわざを忠実に仕え、勝利する人生を過ごすことが出来るように祈ります。
一言:「復活の栄光の望み」
1999年のイースター修養会復活シンポジウム?(洪ペテロ)
復活の勝利
御言葉:コリント人への手紙第一15:50?58
要 節:コリント人への手紙第一15:58
「ですから私の愛する兄弟たちよ、固く立って動かされることなくいつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が主にあってむだでないことを知っているのですから。」
パウロはクリスチャンの復活の素晴らしさをつたえました。50―58節まではイエスキリストにあって、クリスチャンの真の勝利に関することです。真の勝利は神の国に入ることです。パウロはイエスキリストによる勝利の歌を力強く歌っています。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか、私の愛する兄弟たちよ、堅くたって動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」私たちクリスチャンはイエス様にあって真の勝利者となりました。勝利者である私たちはどのような生活をすべきでしょうか。
1.終わりのラッパと共に神の国に入るようになります.(50?57)
50節をご覧ください。「兄弟たちよ、わたしはこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは朽ちないものを相続できません。」私たちが神の国を相続するためには何をすべきでしょうか。必ず血肉のものを脱ぎ捨てなければなりません。なぜでしょうか。朽ち行く肉体を持ったまま朽ちない神の国に入ることはできないからです。イエス様は言われました。「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができません。人は水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることができません。肉によって生まれた者はみな肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハ3:3,6)。私たちみなは 神様が着せてくださる新しい体を着てから神の国に入るようになります。それでは、私たちがはいる神の国はどのようなところでしょうか。父なる神様の家です。イエス様は弟子たちに言われました。「わたしの父の家には住まいがたくさんあります。 。。。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハ14:2,3)。神様はイエスキリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて,いける望みを持つようにしてくださいました(Iぺテロ1:3)。私たちの生ける望みは父の家、神の国です。51節をご覧ください。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。わたしたちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです」パウロが私たちに教える神様の隠された真理はなんでしょうか。私たちクリスチャンは,みな 死んでそれでおしまいではありません。やがて栄光の体に変えられることです。それでは、いつこの望みが適えられるのでしょうか。52節をご覧ください。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、わたしたちは変えられるのです。」 キリストが再び来られるその日です。世の終わりのラッパが鳴ると、たちまち、既に死んクリスチャンが復活し、生き残っているクリスチャンたちも変えられろのです。どのようなからだに変えられるのでしょうか。52節をご覧ください。「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」朽ち行く体は、朽ちることのない新しい体に変えられます。その日、神様は私たち一人一人に不死のからだを着せてくださいます。その時、イエス様は私たちの名前を一人一人お呼びになります。ご自分の側に引き寄せ、優しく抱いてくださいます。その日、私たちは主イエスキリストに出会えるようになります。その時の感激はどうでしょうか。私たちは ハレルヤ!ハレルヤ!Oh!Happy Day!Oh!Happy Day!を歌いつつけるでしょう。その日に何度も会いたかったイエス様と顔と顔を合わせて見ることになることはなんと素晴らしいことでしょう。私の心はそのことですでに高鳴っています。イエス様が再び来られるその日、私たちは真の勝利者となります。そして、イエス様は私たちを神の国に導き入れます。そこで、私たちは神の国を父なる神様と兄上なるイエス様と永遠に治めるようになります。主、イエス様、今すぐ来て下さい。ハレルヤ!アーメン。
54節をご覧ください。「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、‘‘死は勝利にのまれた’’としるされている、みことばが実現します。」(イサヤ25:8)その時、死は完全に敗北させられます。55節をご覧ください。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」というホセァの預言も実現されます。私たちは死を踏みにじりって言います。‘‘死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の力はどこへ行ったのか’’56節をご覧ください。「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」今まで死と罪は悪君のように君臨してきました。人を獣よりも惨めに虐げました。でも、誰一人として罪から逃れるこよができませんでした。しかし、57節をご覧ください。「しかし、神に感謝すべきです。神は私たちの主イエス キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」キリストは私たちの罪のために死なれ、聖書に従ってよみがえりました。主イエスキリストによって、私たちに勝利を与えてくださった神様にどんなに感謝をしたらよいのでしょうか。イエス様は言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じるものは、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ョハ11:25,26)イエス様は私たちに勝利を与えてくださいました。私たちに真の勝利をくださった神様を褒め称えます。
2.いつも主の働きに全力を尽くしなさい(58)
それでは、勝利者である私たちは今の時代にどのような生活を送るべきでしょうか。58節をご覧ください。「ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。堅くたって、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」パウロが言っている復活の信仰は堅くたって、動かされることのないことといつも主のわざに励むことです。
第一に、堅くたって、動かされることなく: 動かされることないことはしみも傷もない者として平安をもって主の御前に出られるように励むことです。一言では、神様を恐れ敬い、清い生活に励むことです。このために、御言葉をしっかりつかみましょう。復活の主、イエスキリストを毎日新たに着ましょう。
第二に、いつも主のわざに励みなさい。主の働きに全力を尽くすことです。今持っているものを主に投資することです。パウロは産みの苦しみをしながらコリント教会を開拓しました。彼は鎖に繋がれた体でしたが、借りた家に住みたずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、神の国を宣べ伝え、主イエス キリストのことを教えました。神の福音を伝えるための苦しみに預かることは神様が授けられる勲章なのだと思いました。彼は昼も夜も涙とともに訓戒しつつけました。復活信仰でローマを福音化しました。パウロはこのように証ししました。「神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終わることができるなら私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」(行20:24)新入生の募集のとき、パイオニアとヨハネチームの牧者たちが全力を尽くしました。40人以上の人が集まりました。よくやった。忠実であったと主が賞賛してくださるでしょう。忠実な人がいることを感謝します。私たちは今年キャンパスを早稲田と東大の福音化を祈っています。それで、宣教師キャンパスで 1:1聖書勉強ができるように挑戦しています。ある人は大雨のときにもキャンパスに行って福音を明かしました。1:1聖書勉強にいつも励み皆が兄弟に仕える勝利を収められるように祈ります。そして、主のわざに励んだ人は、大牧者が現われるときにしぼむとことのない栄光の冠を受けるのです。イエス様から「よくやった。あなたは忠実であった。」と誉められるその日が近くなりました。結論:私たちはイエスキリストによって勝利者となりました。勝利者としての生活は神様を恐れ敬い、清い生活に励むことです。またいつも主のわざに励むことです。58節を読んでから終わります。