2000年マルコの福音書第24講

福音がまずあらゆる民族に

御言葉:マルコの福音書13:1?37

要 節:マルコの福音書13:10

「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」

マルコの福音書13章は小黙示録と言われます。終末の前兆、歴史の終末、イエス様の再臨、最後のさばきに関する御言葉が記されています。この御言葉を通して私達は人類歴史の流れと方向を一目で見ることができます。また、災難が続く世の中で私達が果たすべき使命と真の希望は何かを学ぶことができます。この御言葉を通してキリスト教の歴史観を持つことができるように祈ります。また、主が私達にこの時代を見分ける力を与えてくださり、神様が私達に与えてくださった福音を宣べ伝えるために励むことができるように祈ります。

?.世界福音伝播(1-13)

1節をご覧ください。イエス様が、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエス様に言いました。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」当時の宮はヘロデ大王が政権を握った後、ユダヤ人の歓心を買うために建てたものです。ヘロデの建てた神殿は世界の不思議の一つでした。紀元前20-19年に始められ、イエス様の時代にはまだ完全には出来上がっていませんでした。それはモリヤの山頂に建てられ、建てるのに82年かかりました。ヨセフスは、巨大な台の石は長さ十三メートル、高さ4メートル、幅6メートルであったと告げています。それも白い大理石でした。これらの巨大な石のあるものが、ガリラヤ人の弟子達をそのように驚かせたのでしょう。弟子達の目には神殿は永久に立っているように見えました。ところが、イエス様は驚くべき宣告をされました。2節をご覧ください。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」宮を見るイエス様の目と弟子達の目は違いました。弟子達はすばらしい建物として見ていましたが、イエス様は祈りの家となるべき宮が強盗の巣になっているのをご覧になりました。イエス様は強盗の巣になっている宮が徹底に破壊されると予告をされたのです。そして、その予言は悲しくも50年もたたないうちに真実になりました。エルサレムは紀元70年にローマ軍によって陥落したのです。ヨセフスは、エルサレム陥落の時に9万7千人が捕虜になり、110万人が徐々に迫る飢餓と剣によって滅ぼされたと語っています。当時、ユダヤ人にとってエルサレム神殿の破壊は世の終末を意味するものでした。そこで、弟子たちは世の終末に対して深い関心を持ちました。

3、4節をご覧ください。イエス様がオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエス様に質問しました。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」イエス様はこのような弟子達に何を警告されましたか。5節からは終わりの日に関するイエス様の教えです。ここで、イエス様は終わりの日の前兆と信者達の使命、それに終わりの日を迎える弟子達が持つべき姿勢とイエス様の再臨について話されました。では終末の前兆は何でしょうか。第一に、にせキリストの出現です。5、6節をご覧ください。そこで、イエス様は彼らに話し始められました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」すでに新約聖書時代にも、それらしい偽キリストの芽のようなものが見られます。使徒の働き8:9,10節によると、「シモン」という人が自分は偉大な人だと話していましたが、サマリヤの人々は、もしかしたら彼が「救い主ではないか」と考えていました。また、紀元7世紀の初めには、マホメッドが自分をイエス様よりも偉大な預言者と称して、イスラム教を起こしました。1914年には、イエス様がエホバの右から来臨されたとする「エホバの証人」も現われました。現代では、世界統一協会、原理運動で知られている文鮮明が自分を再臨のメシヤだと言って、多くの人々を惑わしています。最近50年の間世界に現われた偽キリストは1,100人を越えています。日本でも新興宗教と呼ばされる宗教の中で活発に活動しているものだけでも二、三百は下らないと言われています。信者の数は人口の十数%にのぼると言われています。彼らの多くは聖書の中で自分達の考えに合う個所を引用しています。ですから彼らにとって聖書は教祖の考えを権威つけるものに過ぎません。また、聖書以外のものを天から啓示されたと言って教えています。たとえば、統一協会の原理講論、エホバ証人の「ものみの塔」や新世界訳聖書などがそれです。彼らの目的はイエス・キリストを宣べ伝えず、偽キリストを宣べ伝えることです。これは恐ろしいことです。彼らは自分達だけではなく、ついて行く信者たちも滅びに導くからです。ですから、私達はこのような偽キリストに惑わされないように気をつけなければなりません。

第二の前兆は、災難の連続です。7、8節をご覧ください。「また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉も起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。」終末には戦争が起こります。人類は第一次、第二次世界大戦を通して戦争の恐ろしさや悲惨さを経験したのにも関わらず、世界の国々では絶えず戦争や紛争が起こっています。方々に地震があり、飢饉も起こります。5年前の阪神大地震による死者は6,000人を超えました。今年にも三宅島の火山噴火があり、地震が続いています。昨日も地震がありました。また、去年も世界国々で大きな地震がありました。台湾であった地震では死者、行方不明者が4,800人を超えました。トルコの地震では死者が15,000人を超えました。21世紀を目の前にした今日でも、西アフリカ、インド、東南アジアでの飢饉は慢性化しています。世界の3分の2の人々が飢え苦しんでいると言われています。人類歴史は災難の連続です。神様は災難を通して人々が自分の罪を悟って悔い改め、神様に立ちかえることを願われます。私達はこのような災難の知らせを聞いた時に自分のことを顧み、目を覚ましていなければなりません。ところが、このような災難は聖書的に見ると、やがて新しい時代を産むための産みの苦しみです。妊婦が産みの苦しみを経験した後に新しい命が誕生するように、引き続く災難の後には、イエス様が、輝かしい栄光の中で雲に乗って来られます。将来神の国が訪れるためには必ずこの災難の苦しみを経験しなければなりません。災難の連続はノンクリスチャンたちにとっては恐ろしいものですが、クリスチャンにとっては新しい神の国を待ち望む期間です。ですから、災難の中でも神様がすべてのことを主管しておられることを信じて恐れる必要がありません。すべてのことを働かせて益としてくださる神様を信じてあわてる必要がありません。

第三の前兆は、クリスチャンが迫害を受けることです。9節をご覧ください。「だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。」議会に引き渡されるとか、会堂でむち打たれるとかは、ユダヤ人の迫害を意味しています。キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます(?テモテ3:12)。しかしここにはどんな神様の御旨がありますか。「それは彼らに対してあかしをするためです。」とあります。迫害は福音を宣べ伝えるよい機会となります。弟子たちが迫害を受ける時、なぜ何と言おうかなどと案じる必要がありませんか。11節をご覧ください。「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。」12,13a節をご覧ください。「また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。」自分の家族に裏切られることは耐え難いことです。しかし、どんな人が救われますか。13b節をご覧ください。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」信仰生活は短距離の競争ではありません。それはマラソン競走です。人生はその旅路の最後に到達するまで決して安心できません。救われる人は最後まで堪え忍び、信仰の競争を終えた人です。

10節をご覧ください。一緒に読んでみましょう。「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」イエス様は世の終わりの前兆について言われてから「福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」と言われました。私達はこの御言葉を通してキリスト教の歴史観を学ぶことができます。神様の天地創造によって始まった人類の歴史は、あらゆる民族に福音が宣べ伝えられてから終わりの日を迎えるようになります。このように聖書は歴史の始めがあり、終わりがあることをはっきりしています。世界の歴史は地球のようにぐるぐる回るのではなく、必ず終わりの日が来るのです。そして、その歴史は福音伝播を中心に流れています。世の人々は政治、経済を重要視し、すべてのマスコミもそれを中心に報道しています。人々は森総理やクリントン大統領によって世界の歴史が動いているかのように思います。しかし、神様が天地を創造され、世界を保ち、世界のすべての歴史を主管しておられます。

イエス様は「福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。」と言われました。ここで「まず」というのは、時間的に先という意味より一番価値あるもの、一番大切なものという意味です。すなわち、歴史の主管者である神様は多くのことの中で福音が宣べ伝えられることを一番大切に思われ、それを中心に人類の歴史を主管しておられるということです。神様はアダムが堕落した後、福音を啓示され、イスラエル人を通して福音を準備されました。そして、時になると、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされ、十字架の死と復活によって福音を完成されました。それから神様はあらゆる民族に福音が宣べ伝えられることによって人類の救いの御業を成し遂げておられます。福音は罪と死の奴隷になっている人々を救うことのできる唯一のものです。福音があらゆる民族に宣べ伝えられることは歴史の大切な流れであり、歴史の意味です。この福音が全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます(マタイの福音書24:14)。これがキリスト教の歴史観です。

それでは災難が絶えない世の中で私達が優先的にやるべきことは何でしょうか。私達にはやるべきことが多くあります。アルバイトや仕事をしながら物質自立をしなければなりません。学生はよい成績を取るために勉強をしなければならないし、学位を取るためには論文も書かなければなりません。しかし、これらすべてよりも優先的にしなければならないことがあります。それは福音伝播です。イエス様は何を食べようか、何を着ようかと心配している弟子達に言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)。私達は聖書勉強を通して福音を宣べ伝えています。聖書には福音が記録されています。この聖書は人類に与えてくださった神様の最大のプレゼントです。聖書は神様が御自分を歴史の中で啓示された本です。ですから、聖書を学ぶと、神様を知ることができます。また、神様に人格的に出会うことができます。人が創造主である神様、救い主である神様に人格的に出会う時に根本的に生まれ変わります。

また、聖書は罪と死の奴隷になっている人々を救いに導く本です。聖書は罪を犯して苦しんでいる人々、一生死の恐怖につながれて奴隷となっている人々を解放してくれる本です。聖書の主題はイエス・キリストです。聖書はイエス・キリストを信じることによって神様の子供となり、永遠のいのちが与えられ、永遠の神の国を相続できることを教えてくれます。パウロは福音の力について次のように言いました。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)。また、彼は霊的な息子であるテモテに次のように勧めました。「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(?テモテ3:15-17)。

聖書勉強を通して神様の御言葉が活発に宣べ伝えられているところにはいのちの御業が活発に起こります。牧者が熱心に聖書を研究して教える時にそれを学ぶ羊が生かされます。聖書を熱心に学ぶ時に御言葉が心を支配するので心には感謝と喜び、平安が満ち溢れるようになります。子供たちに聖書を熱心に教える時に子供たちが立派に育ちます。ですから、聖書勉強こそ個人や家庭や国を幸せに導くものなのです。私達がこの聖書を熱心に学び、確信したところにとどまり、それを熱心に教えることができるように祈ります。神様が二学期の1:1聖書勉強の御業を大きく祝福してくださるように祈ります。

?.栄光を帯びた人の子の再臨(14-37)

14-23節には終わりの時、私たちはどんな姿勢を持たなければならないかを言っています。

第一に、御言葉に聞き従うべきです。14節をご覧ください。「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように。)ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。」ここでイエス様は、エルサレムの包囲と、最後の陥落の恐ろしさについて予告しておられます。最後のしるしが現われたら、人々は遅れないように逃げなければなりません。イエス様は着物を取るために、また物を取り出そうとさえしてはならないと警告しています。当時ローマ軍がエルサレムを包囲した時に安全を求めて都に群がって入り込んだ人々は、数十万人も死にました。そして、イエス様の忠告に従って丘に逃れた者のみが助かりました。イスラエルの滅亡がイエス様の予言通りに成就したように、終わりの日に関する御言葉も必ず成就します。そして、御言葉に聞き従う人は救われますが、御言葉に聞き従わない人は救われません。ですから、主の御言葉に聞き従うことこそ救いの道であり、勝利の道です。マタイの福音書7:24節は言います。「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」

その患難の後、天にはどんな異変が起こりますか。24,25節をご覧ください。その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。その時、人類が築きあげた文化と文明は崩れ去ります。26、27節をご覧ください。「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」イエス様は人類を救うためにこの世に来られた時、人々の無関心の中で卑しい飼葉桶にお生まれになりました。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、イエス様は枕するところもない生活をされました。ついに人類の罪のために十字架につけられ死なれました。しかし、再び来られるイエス様の姿はその時とは全く違います。イエス様は偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られます。イエス様は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます(?テサ4:16)。イエス様は栄光の主、裁きの主として再び来られます。その日は信じない人には裁きの日ですが、信じる人には救いの日です。その時、聖徒達は栄光の姿に変わり、愛するイエス様とともに神の国で永遠に生きるようになります。主はこの世で主と福音のために流した涙を拭い取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら以前のものは過ぎ去るからです。主は私達のために新しい天と地を用意しておられます。そこで、イエス様は王座に座られ、愛と平和によって治められます。その日に対する望みがクリスチャンの究極的な望みです。この望みは朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない生ける望みです。私達はこの望みのゆえにますます福音伝播のために励むことができます。

28、29節をご覧ください。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」終末の前兆があるとイエス様が再び来られる日が近づいていると知り、準備しなければなりません。32節をご覧ください。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」異端は世の終わりの時を決めて人々を惑わします。エホバの証人は1914年、1918年、1925年、1941年、1975年、1995年に世の終わりが来ると繰り返して主張しましたが、みな失敗しました。イエス様ご自身が知ろうとされなかった時には、私達がそれに対して推測することは無用です。私達にとって確かな一つのことは、歴史は世の終わりの日に向かっているということです。イエス様は33-37節で「目をさましていなさい。」と四回も繰り返して言われました。それは夜も寝てはいけないという意味ではありません。安逸と罪によって心が鈍くなった霊的な眠りから目をさまし、使命に忠実しなさいという意味です。「目を覚ましていなさい。」これは私達に与えてくださる警告の御言葉です。私達が、イエス様がいつ来られてもよいように、目を覚まして生活することができるように祈ります。

結論、私達は先端技術が、扱い方を間違えば人類を危機に招き入れかねない時代に生きています。最近ロシアの原潜潜水艦の沈没がありました。人類は何十回も地球を滅びることのできる核兵器を保有しています。世界人口の増加は、食料危機を促しています。環境汚染による地球温暖化とオゾン層破壊などは人類滅亡の序曲と言われています。世界国々で災難は絶えず続いています。そんな中でクリスチャンでなくても、人類の滅亡が近づいていると不安な気持ちを持っている人々も多くいます。聖書に記されてあるように世の始めがあったように、世の終わりの日があります。そして、確かにこの世はその終わりの日に向かっています。このような世の中で私達は何をすればいいでしょうか。イエス様は私達に一番優先的に福音を宣べ伝えなければならないことを教えてくださいます。神様が私達をその福音伝播のために召してくださったことを感謝します。私達が聖書的な歴史観を持って目を覚まして福音伝播の使命を果たすことができるように祈ります。