2001年特別講義(1)
勇士よ
御言葉:士師記6:1?32
要 節:士師記6:12「主の使いが彼に現われて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』」
今日は士師記6章を学びます。士師記には12人のさばきつかさたちが登場していますが、今日と来週はその中で五番目に登場するギデオンの物語について学びたいと思います。ギデオンの物語は、士師記の中で一番長いです。ギデオンは勇士として知られていますが、元々彼はミデヤン人の目を避けて、酒ぶねの中でこっそりと麦を打っていた臆病者でした。しかし、神様は彼を勇士として召されました。彼は神様に召されることによってミデヤン人からイスラエル人を救う勇士となりました。この時間、私達を勇士として召される主の御声を聞くことができるように祈ります。
?.ギデオンを勇士として召された神様(1-24)
1節をご覧ください。イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行ないました。彼らはどんな悪を行なったでしょうか。2:11,12を見ると、彼らは主を捨てて、他の神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝みました。彼らはバアルとアシュタロテに仕えました。主はエジプトで奴隷になっていたイスラエル人を救い出し、乳と密が流れるカナンの地に導いてくださいました。それだけではなく彼らを祭司の王国、聖なる国民としてくださいました。それはイスラエル人に臨まれた、驚くべき神様の恵みであり、祝福でした。ですから、彼らは自分達を救い出し、祝福してくださった神様を愛し、神様にのみ仕えなければなりませんでした。彼らが約束の地に入る前にモーセは「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」と繰り返して教えました。しかし、彼らはカナンの地で祝福されると、祝福してくださった神様を忘れてしまいました。神様の恵みを覚えて感謝するより不平不満が増えました。そして、目に見えない神様を捨てて目に見える偶像を拝むようになりました。彼らは不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物に代えてしまいました。
それでは彼らが神様を捨てて偶像を拝んだ結果はどうですか。1b-7節をご覧ください。主は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡しました。こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押えたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにしました。イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲いました。そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガサに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残しませんでした。彼らはいなごの大群のように収穫期に襲って来て、刈入れの実を略奪しました。それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていました。このように神様を捨てた個人や民族は弱くなり、滅びるようになります。ルカの福音書15章に出ている放蕩息子は父の家にいる時は足りないものがありませんでした。しかし、父の家を出てから非常に惨めな存在になってしまいました。彼は豚が食べるえささえも楽に食べられない者になりました。人間は神様から離れる時、霊的な力を失い、神様がくださるすべての自由と幸せを失うようになります。尊い神様の民が罪とサタンの奴隷に転落してしまいます。
イスラエル人は七年間ミデヤン人によって苦しみを受けて後、主に叫び求めました。神様は彼らが悪を行なった時に懲らしめられましたが、叫び求めた時に彼らを顧みてくださいました。神様は愛の豊かな方です。愛の神様は彼らの叫び求めるのを聞いて彼らを救おうとされました。それでは主はどうやって彼らを救おうとされましたか。
第一に、神様はイスラエル人の罪を責めるためにひとりの預言者を遣わされました(8-10)。
預言者はイスラエル人をエジプトの奴隷生活から連れ出して約束の地に導いてくださった主の恵みを思い起こさせました。そして、イスラエルが苦しみを受ける原因が主の声に聞き従わなかったことにあることを悟らせてくれました。人は神様からいただいた恵みを忘れる時、高慢になり神様の御言葉に聞き従いません。その結果、偶像を拝む者となります。イスラエル人はミデヤン人から救われることを叫び求めていました。しかし、神様はまず彼らが苦しみを受ける原因が罪であることを悟り、悔い改めるように助けてくださいました。それは罪を悔い改めることなしには根本的な問題の解決にはならないからです。
第二に、ギデオンを勇士として召されました。11節をご覧ください。さて主の使いがギデオンのところに来ました。このとき、ギデオンは何をしていましたか。彼はミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていました。彼は他のイスラエル人と同じように、ミデヤン人の攻撃を避けていた時は、他のイスラエル人とそれほど違った存在ではありませんでした。ミデヤン人は、イスラエル人が種を蒔き、農作物の手入れをし、収穫期になってこれを取り入れようとする時に襲って来ました。ギデオンも、その攻撃を避けて、酒ぶねの中でこっそり麦を打つ臆病なイスラエル人でしかありませんでした。酒ぶねは普通、二平方メートル、深さ六十センチほどの自然の石に掘り込まれた穴です。ギデオンはこなんに狭いと所で食べて生きるために全身にほこりをかぶりながら小麦を打っていました。
そんなギデオンの心はどうだったのでしょうか。心ならミデヤン人を追い出したい心だったでしょう。しかし、強いミデヤン人の勢力の前で彼は何もできませんでした。ただ、食べて生きるために酒ぶねの中で小麦でも打たなければなりませんでした。彼はそんな自分が哀れな存在だと思い、ため息を吐いたでしょう。彼は夢も希望も失っていました。そのような彼には祭司の王国、聖なる国民らしさが見えません。
しかし、主はこのようなギデオンを何と呼びましたか。12節を一緒に読んでみましょう。「主の使いが彼に現われて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』」主はギデオンを「臆病者よ」「小心のギデオン」と呼びませんでした。主は彼を「勇士よ」と呼びました。韓国の聖書では「大勇士よ」と訳されています。英語では「mighty warrior」です。すなわち、力強い戦士です。勇士とはどんな人ですか。勇士は戦う者です。戦いを恐れない人です。戦いで勝利できる優れた力と知恵を持っている人です。それでどんな状況の中でも見事に勝利できる人です。神様はギデオンをこのような大勇士として呼びました。
しかし、実際のギデオンの姿はどうですか。彼は、自分が勇士であるとは決して考えていませんでした。それはモーセもイザヤも同じでした。モーセは、召しを受けた時、「私はいったい何者なのでしょう。」(出3:11)と答え、イザヤも「私はくちびるの汚れた者」と叫んでいます(イザヤ6:5)。ギデオンは自分はミデヤン人を逃れて、酒ぶねの中で小麦を打つ臆病者と考えていたでしょう。自分は勇士と呼ばれるような存在ではないと思っていたでしょう。イスラエル人の救いのために自分にできることは何もないと悲しんでいたでしょう。しかし、神様はそのように見ておられませんでした。神様はギデオンに大きな期待と望みを置いて彼を「勇士よ」と呼んでくださいました。神様はギデオンが今は小心な者で、臆病者に過ぎませんが、勇士になることを願われました。今は現実の問題に縛られて小市民になっていますが、これからは主のために戦う勇士になることを願われました。隠れて小麦を打つ者ではなく、強いミデヤン人からイスラエルを救い出す勇士、偶像を拝むイスラエル人を真の神様に立ち返らせる勇士になることを願われました。神様の願い通りにギデオンは300人の兵士達で強いミデヤン人を打ち破る大勇士になりました。人々は弱い者をいじめますが、神様は弱い者、臆病者が勇士になる願いを持って育ててくださいます。
それではギデオンはどうやって勇士になることができますか。12b節をご覧ください。「主があなたといっしょにおられる。」これは神様がギデオンとともにおられ、彼を勇士として育ててくださるという意味です。ギデオンは臆病者です。しかし、神様がともにおられる時、臆病者も勇士になることができます。神様は一言を持って天地万物を創造された全能なる方です。神様は恐れや敗北を知らない勇士です。神様は敵対する強いパロの軍隊を打ち滅ぼされました。カナンの高慢な王たちを滅ぼされました。だれがこの神様に勝つことができるでしょうか。それで旧約聖書では神様について「万軍の主」と言っています。これは神様が真に力強い勇士であることを言ってくれます。虎は虎を産み、勇士は勇士を産みます。勇士である主がともにおられる時に臆病者であるギデオンも勇士になることができます。
イスラエルの前に巨人ゴリヤテが現われた時、サウル王とイスラエル人はみな、意気消沈し、非常に恐れて逃げ隠れました。ところがその時少年ダビデは「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」と言って一人で彼に戦いをいどみました。そしてダビデはゴリヤテに「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」と言って、ついにこの巨人を倒しました(?サムエル17:45)。ダビデがゴリヤテに勝ったのは彼の力によるものではありません。彼が言ったように、万軍の主の御名によるものでした。万軍の主がともにおられた時、ダビデは大勇士になりました。臆病なギデオンに向かって「大勇士よ」呼びかけられた主は、今日私たちに向かって「大勇士よ」と呼びかけられます。
私は日本に来る前に何度も就職試験に落ちてしまい将来のことを非常に恐れていました。神経衰弱の状態になって勉強がよくできないほど弱くなっていました。私は一日も早く就職して結婚することを願っていました。回りの人々もそれを願って祈っていました。ところが、主の考えは違いました。主は私にもっと大きな望みを置かれ、この国に導いてくださいました。私は自分の弱さや足りなさを考える時に自分が勇士であるとは考えていませんでした。しかし、主は私に「勇士よ」と呼ばれ、私が勇士として生きることを願っておられました。そして、私とともにおられ、勇士として育ててくださいました。私の心が揺れ動くたびに御言葉をもって力と確信を与えてくださいました。今日のメッセージを準備する時に、主は再び私に「勇士よ」と呼びかけておられることに気づきました。
皆さんは主が自分を何と呼んでおられると思いますか。「小心な者よ」「臆病者よ」と呼んでいると思いますか。あるいは「アルバイト学生よ」「奥さんよ」と呼んでいると思いますか。私は主が私たちを「勇士よ」と呼んでおられと信じます。「寺崎アブラハム勇士よ」「小泉ダビデ勇士よ」「石原勇士よ」「鷹取勇士よ」「安藤マリヤ勇士よ」。主がともにおられる時、私達も勇士になることができます。主がともにおられる時、祈りの勇士になることができます。主がともにおられる時、御言葉の勇士になることができます。主がともにおられる時、罪と戦う勇士になることができます。主がともにおられる時にできないことはありません。それを信じて生きる人は勇士として生きるようになります。主は私たちが自分の信仰の中心をやっと守れるような弱いクリスチャンになることを願っておられません。この時間、私達を「勇士よ」呼んでおられる主の御声を聞くことができるように祈ります。
神様の召されに対するギデオンの反応はどうでしたか。「アーメン」と答えましたか。いいえ。13節を見ると、彼は神様の御言葉を単純に信じることができませんでした。彼は神様がイスラエルの民を捨て去ってしまわれたのではないか、と疑問を言いました。彼は「主が共にいて下さる」というメッセージは、現実のイスラエルのみじめな状態からは信じることができませんでした。イスラエル人が苦しみを受けていたのは、彼らが神様の御言葉に聞き従わず、偶像を拝んでいたからです。ギデオンはイスラエル人が受けている苦しみの霊的な意味を知りませんでした。
すると、主は彼に向かって何と仰せられましたか。「わかった。ギデオン。他の人を捜して見よう。」と仰せられませんでした。14節をご覧ください。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」ミデヤン人の圧迫の中で、主はいつまでご自分の民を捨てておられるのかというギデオンの疑問に対して、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。」と言われました。ギデオンは「私の力で何ができるか」と思っていたでしょう。しかし、神様は、「あなたが鍵なのだ」「あなたが救え」と言われます。実際にギデオンの力は小さなものですが、神様がそれを用いられると大きな力になります。アンデレがイエス様に持って来た五つのパンと二匹の魚は小さなものでした。しかし、主がそれを祝福すると、五千人が満腹してパン切れを十二のかごにいっぱいに取り集めました。インドで貧しい者や病人のために一生を捧げたマザー・テレサは次のように言いました。「私にできることは小さなことですが、私は今日ひとりに仕えることができます。」彼女は自分の小さな力を主に捧げることによって大きな働きができました。私達は「私の力で何ができるか」と思いながら無力になる時があります。しかし、神様は「あなたのその力で行きなさい」と言われます。私達の小さな力でも主に捧げる時に主は大きく用いてくださいます。私達がしている一チームの1:1聖書勉強、一人の弟子養成、祈り、献金が主に捧げられる時に主はそれを用いられ、多くのいのちを救ってくださいます。私達はマザー・テレサのように言ってみましょう。「私にできることは小さなことですが、私は今日ひとりに仕えます。」「私にできることは小さなことですが、私は今日主に祈ります。」主はギデオンに言われました。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」主は召された人に力を与えてくださいます。ですから、神様に召された人は信仰によって戦えばいいです。私たちが自分に任された小さなことに忠実することによって多くの人々が救われるように祈ります。
しかしギデオンは自分についてどのように考えましたか。15節をご覧ください。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」彼は自分は弱く、若くてイスラエルを救うことができないと言いました。彼は、神様が無に等しい者を選ばれるという真理を悟っていませんでした。すると主はギデオンに再び確信を与えてくださいました。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」すると、ギデオンは、それならばと、神様にしるしをもとめました。すると主の使いは、火が岩から燃え上がって、ギデオンが持って来た肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまう奇蹟を見せてくださいました。これで、ギデオンはこの方が主の使いであったことがわかりました。それで、ギデオンは言いました。「ああ、神、主よ。私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」神様は超越者であり、人間から全く離れておられる方であるから、神様を見た者は必ず死ぬと信じられていました。しかし、ここで神様はギデオンに「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない」と約束されました。ギデオンが神様を見て死なないという事実は、ささげた食物が火で焼き尽くされる以上に大きな奇蹟です。恵み深い神様はギデオンの罪を赦し、彼を生かしてくださいました。すべてのクリスチャンは、神の前で死に、神によって生かされています。ですから、もはやこの世の何ものも恐れることはありません。ただ神の御旨に従うのみです。
?.偶像を壊したギデオン(25-32)
神様は、ギデオンがミデヤンと戦う前に、まず何に挑戦するように言われましたか。25,26節をご覧ください。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」神様に召されたギデオンが第一にしなければならないことは、自分の家の宗教改革です。バアルとアシェラ信仰は、彼の家の中にまで入り込んでいました。ギデオンはバアルの祭壇を取り壊し、アシェラ像を切り倒して後に、主のためにもう一つの祭壇を築いていけにえをささげるように命じられました。しかし、ギデオンがそれを行なうことはやさしいことではありませんでした。命かけのことでした。それではギデオンはどのようにしましたか。27節をご覧ください。「そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、主が言われたとおりにした。彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行なった。」彼は町の人々を恐れましたが神様の御言葉に聞き従いました。
28節をご覧ください。町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられていました。町の人々は、夜中に起こった突然の宗教改革の結果を見ると、悔い改めるよりも、まず、自分達の宗教的習慣を破った裏切り者への憤りに燃え、処刑しようとしました。人々は苦難の中で主に叫び求め、預言者によって苦難の原因を示されながらも、偶像礼拝をやめようとしませんでした。逆に、宗教改革を始めた勇気ある青年を見つけて殺してしまおうとしました。町の人々はギデオンの父であるヨアシュに「あなたの息子を引張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」と言いました。すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言いました。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」神様の第三の奇蹟は、ギデオンの父ヨアシュの心の中で起こりました。彼は、自分の息子が夜中にした勇気ある行為を見て、本心に立ち返ったに違いありません。彼の弁論は、勇気と知恵に満ちていました。彼の弁証の仕方は、カルメル山のエリヤの弁証に似ています。エリヤはただ一人、バアルとアシェラの預言者たちに直面しつつ、民に訴えました。「もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え」(?列18:21)。またバアルの預言者たちに言いました。「もっと大きな声で叫んでみよ。彼は神なのだから。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」(18:27)。32節をご覧ください。「こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから『バアルは自分で争えばよい。』という意味である。」
神様は第四の奇蹟を起こされました。ギデオンの勇気ある行動と、それにもまさる父ヨアシュの堂々とした態度に心打たれたオフラの町の人々の心に聖霊が働き、悔い改めが起り、宗教改革が始まりました。人々は争って、偶像礼拝の祭壇を打ち壊したに違いありません。また、このうわさはたちまち広がって、全イスラエルの人々が、神様に立ち返るきっかけになりました。この奇蹟を通してギデオンは神様が自分とともにおられることを体験しました。
結論、神様は臆病者であるギデオンを勇士として召されました。ギデオンは私たちと同じ平凡な青年でした。彼は小心な者であり、臆病者でした。しかし、神様の一方的な恵みによって召され、イスラエル人を救い出す御業に用いられました。彼は偶像礼拝をしている人々を神様に立ち返らせる勇士として召されました。神様が召された人はだれでも勇士になります。神様は私たちがいつまでも臆病者として生きることを願っておられません。この時代、サタンの力を打ち破り、人々を神様に導く勇士として生きることを願っておられます。私達の力は弱くてそれができません。しかし、主がともにおられる時にできないことがありません。主は今日私たちに「勇士よ」と呼びかけられます。そして、「主があなたといっしょにおられる」と約束してくださいます。私達が主の呼びかけに答えて勇士として立ち上がり、私達の前にある霊的な戦いをすることができるように祈ります。主は言われます。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」