2001年ヨシュア記第6講
霊的な戦いで勝利できる秘訣
御言葉:ヨシュア記6:1?21
要 節:ヨシュア記6:5「祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」
人は神様のかたちに似せて造られたのでパンだけで生きる存在ではありません。イエス様は言われました。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)。生存のための戦いも大切ですが、それよりさらに大切な戦いがあります。それは霊的ないのちのための戦いです。戦いで負けると奴隷になったり、死んだりします。同じく霊的な戦いで負けるとサタンの奴隷になったり、霊的に死んだりします。ですから、私たちは生存のために勝利しなければならないように、魂のために霊的な戦いで勝利しなければなりません。それでは私たちはどうすれば霊的な戦いで勝利できるでしょうか。この時間は、霊的な戦いで勝利できる秘訣について学びたいと思います。
?.勝利に対する確信(1-2)
イスラエル人はヨルダン川を渡り、ギルガルで割礼を受け、過越の祝いを行なってからエリコの前に到着しました。イスラエル人がカナンの地を占領するためにはまずこのエリコの町を占領しなければなりませんでした。ところが、エリコは難攻不落の町でした。町の城壁は二重になっていましたが、外側の城壁はその厚さが約2メートル、高さが約7?9メートルであり、そこから5メートルほど離れたところにもう一つの城壁がありました。その城壁は厚さが約4メートル、高さ9メートルくらいでした。エリコの町は必ず占領しなければなりませんが、占領するのが不可能に見える町でした。皆さんにとってエリコの町のように占領しなければなりませんが、不可能に見えるものがありますか。自分の力ではどうしても直せない悪い習慣、根深い否定的な考え方、曲がった性格などがエリコの町のように思われる人もいるでしょう。進学しなければならない方にはそれがエリコの町のように思われるかも知れません。
1節をご覧ください。エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がありませんでした。エリコの住民は、イスラエル軍の攻撃の前におののき震えていました。主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いたからです。彼らの心はしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまいました(5:1)。今日の人々が福音を聞いて、心を閉ざすのは恐れのためです。人々は福音を信じると自分のものを失うのではないかと恐れます。それではどうすれば堅く閉ざしている人の心を開けることができるでしょうか。それは人の力によっては不可能です。預言者ゼカリヤは次のように言いました。「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)。堅く閉ざしている人の心を開けるのは、ただ聖霊の力によって可能です。
エリコの城の前に立ったヨシュアとイスラエル人の心はどうだったのでしょうか。城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がないエリコの前でため息を吐くしかなかったでしょう。何回も作戦会議を開いてもこれといった占領できる方法は見つからなくて重苦しい雰囲気だったでしょう。彼らはカナンの最初の町から難関にぶつかりました。このような彼らに神様はどんな確信をくださいましたか。2節をご覧ください。「主はヨシュアに仰せられた。『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。』」ここで「渡した」は完了形です。神様の側ではすでにエリコをヨシュアの手に渡してしまっておられるのです。この神様の言葉を聞いた人間の側では、信仰をもって「アーメン」と受け取り、目の前の城壁がどれほど難攻不落のように見えても、みことばに従って前進するのみです。このようにして主はヨシュアに勝利に対する確信を与えてくださいました。勝利に対する確信を持つことは大切なことです。その確信を持っている人はどんな絶望的な状況の中でも落胆したり、否定的な考えをしたりしません。むしろ確信を持って前進することができます。
士師記6章を見ると、ギデオンは神様から勇士として召され、自分の民をミデヤン人の勢力から救い出す使命を受けました。彼は勇士として召されましたが、勝利に対する確信がありませんでした。その時、彼は主が自分とともにおられるしるしを求めました。彼は一頭分の羊の毛を置いて、その毛の上にだけ露が降りていて、土全体はかわくしるしを求めました。次には羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるしるしを求めました。彼はそのしるしを通して主がともにおられ勝利を与えてくださることを確信しました。そして300人だけの勇士とともにいなごのように多いミデヤン軍を打ち破ることができました。
イスラエル人がカナンの地を占領することは単純に土地を得るための戦いではありませんでした。それはカナン人の偶像崇拝の罪を裁かれる霊的な戦いでした。戦いは神様に属しているのでその勝敗はイスラエルの軍事力にかかっているのではなく、神様にかかっています。神様が勝利を与えてくだされば勝利しますが、神様が勝利を与えてくださらなければ負けてしまいます。ですから、私達は自分の無力さを深く認めて神様だけに頼らなければなりません。私たちはゲツセマネで祈られたイエス様と祈らなくて眠ってしまったゆえに三度もイエス様を知らないと否認したペテロのことを覚えています。イエス様のように主に頼り祈る時に勝利に対する確信を持つことができます。そして、勝利に対する確信を持って主に頼る時、何をしても勝利することができます。
?.神様の作戦命令(3-21)
神様はヨシュアに勝利の確信を与えてからどんな作戦を指示されましたか。3-5節をご覧ください。「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」これはいくら考えても理解しにくい作戦命令でした。町を占領するのにその町を一日一回ずつ回り、七日目には七回回る作戦でした。ただこれだけで、はなして難攻不落のように見えるあのエリコの町が崩れ落ちるのだろうか。それはあまりにも問題解決にほど遠いように思われます。しかし、この作戦命令をよく考えてみると、ここにイスラエル人が勝利できる秘訣があります。また、私達が霊的な戦いで勝利できる秘訣について学ぶことができます。それではその秘訣とはは何でしょうか。
第一に、すべてのことを神様中心に行なうことです。エリコ作戦の特徴はすべてのことが契約の箱を中心に動くことです。武装した戦士達が前に進み、次に七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を吹き鳴らしながら進み、主の契約の箱はそのうしろを進みます。そして、しんがりは箱のうしろを進みます。作戦の中心に契約の箱があります。契約の箱は主の御臨在を象徴します。イスラエル人はこの契約の箱を見るたびにともにおられる神様を考えたでしょう。彼らは契約の箱を中心に進みました。すなわち、神様から目を離さないでいました。
人は本能的に自己中心になりがちです。信仰生活も神様の栄光より自分の栄光のためにしやすいです。私たちが信仰によって生きることは自己中心から神様中心に生活が変わることです。神様から目を離さないで神様に導かれることです。そうすると、必ず勝利の人生を送ることができます。
1620年、信仰の自由を求めてアメリカに渡って行ったピューリタンたちは厳しい寒さと飢えと伝染病によって多くの人々が犠牲になりました。また、生き残った人々は厳しい環境と戦わなければなりませんでした。そんな中でも彼らの生活の中心は神様でした。彼らは町を建設する時、最初に教会を建てました。次に霊的な指導者を養うために大学を建てました。そして最後に自分の家を建てました。神様はこのような彼らを大きく祝福し、アメリカを祭司の国として用いてくださいました。
第二に、霊的な戦いで勝利できる秘訣は、神様に対する完全な従順と心を合わせて祈ることです。エリコ作戦には「七人の祭司、七つの雄羊の角笛、七日目、七度」など「七」という数字が4節だけでも四回、六章には14回も出ています。聖書で「七」という数字は完全数として「完成、完全、聖なる」の意味を持っています。天地創造も七日目に完成して安息の日を迎えました。ですから、これはイスラエル人に完全な信仰と完全な従順を要求したことです。完全な従順と完全な信仰があるところに完全な勝利があります。一度の従順は状況を変えない時もあるかも知れません。しかし、完全な従順は必ず状況を変えます。人々は一度二度くらい神様の御言葉に従ってみても状況が変わらなければ諦めてしまいます。そして、「御言葉に従って見たけと何も変わりがありませんでした。」と言います。神様は私たちが最後まで従うかどうかを試しておられます。イエス様はルカの福音書18章でいつでも祈るべきであり、失望してはならないことをやめものたとえを通して教えてくださいました。そして言われました。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(ルカ18:7,8)。
イスラエル人はエリコの町を占領して一日も早く約束の地に入りたがっていたでしょう。作戦上町の周囲を回る必要があるなら、一日一度だけではなく七度も回りたがっていたでしょう。しかし、神様は彼らに毎日一度だけ回り、六日間そのようにするように言われました。それも一言もしゃべらないで回るように言われました。血気旺盛な戦士たちにとってそれは耐え難いことだったでしょう。彼らは神様が命じられた作戦に従うために焦る心と血気と感情を捨てなければなりませんでした。ただ信仰と忍耐を持って神様に頼り、神様に従わなければなりませんでした。彼らは黙って町の周囲を回りながら何をしていたでしょうか。それは神様がなさることを確信を持って祈ることです。彼らは朝早く起きて祈りながら回り、次の日も次の日もひたすら祈りながら回りました。一言で彼らは六日間心を合わせてしつこく祈りました。エリコの城壁はいきなりに崩れ落ちたのではありません。毎日主に捧げられる祈りが重ねられてその祈りの力によって崩れ落ちたのです。
ある日、放蕩息子アウグスチヌスはローマ人の手紙13:11-14節の御言葉を読んで新しい人として生まれ変わりました。彼一人の変化はキリスト教の歴史に大きな影響を与えました。しかし、彼が変わったのはいきなりに変わったのではありません。彼が変わるまでは母モニカの30年間のしつこい祈りと涙の祈りがありました。先週宣教師達はウォンゾンスという方の証をビデオを通して見ました。彼は韓国のソウル大学の医学部に入りましたが、建物のベランダから飛び降り自殺をしようとしました。ところが、飛び降りようとした時、ふっと祈っている母が思い出されたそうです。彼の母は毎日夜明けに彼の頭に手を置いて祈ってくれたそうです。彼は母の祈りによって生まれ変わり、大学を首席で卒業しました。そして、今は多くの人々に自分を救ってくださった神様、自分のために祈ってくださった母親のことを証しています。「涙の祈りによって育てた子供は決して滅びない。」とい言葉があります。私たちは自分と聖書を学んでいる兄弟姉妹たちが早く生まれ変わることを望んでいます。子供たちが生まれ変わることを望んでいます。そのために私たちはしつこく祈る必要があります。
これから11年前私たちは東京センターを早稲田大学の近くに求めて祈っていました。私たちは祈りながら早稲田大学周辺の不動屋さんを回りました。しかし、当時はバブル経済の時だったのでまず空いている事務所がほとんどありませんでした。そして、教会用としてそれも外国人に貸してくれるというところは一個所もありませんでした。吉橋兄弟は一緒に一日不動屋さんを回りましたが、できないと言って両手を挙げてしまいました。宣教師達も段々疲れるようになりました。その時、神様は日ごとの糧の御言葉としてヨシュア記の御言葉を与えてくださいました。私たちは難攻不落の要塞のように見えるセンター購入のためにエリコ作戦を立てました。そして、すべての宣教師達は毎日早稲田大学に集まって心を合わせて祈りました。雨が降る時にも一時間かかるところから祈るために集まって来ました。しかし、何も変化がありませんでしたが、祈り始めてからちょうど七日目に李ロイヤル宣教師のお宅に賃貸事務室のちらしが届きました。そして、大家さんは快く教会用として貸してくれました。吉橋兄弟は宣教師達の信仰が神様の試験に合格したと告白しました。私たちはこのセンター購入を通して私たちが心を合わせて祈る時にエリコの城が崩れ落ちることを学びました。
第三に、霊的な戦いで勝利できる秘訣は主を賛美し、主に感謝する生活をすることです。神様は七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を吹き鳴らしながら契約の箱の前を進むように言われました。ユダヤ人は二種類のラッパを使いました。銀のラッパと雄羊の角笛がそれです。銀のラッパは会衆を招集したり、出発したり、戦いに出る時に使いました。雄羊の角笛は喜びの日、例祭と新月の日に使いました。ですから、雄羊の角笛を吹き鳴らすことは神様が施してくださった恵みを覚えて喜びながら主に賛美し、感謝することを意味します。
幸いな時には神様に感謝したり、賛美したりすることが難しくありません。しかし、困難な時に神様を賛美し、感謝することはやさしくありません。賛美の代わりに不平不満が出るのが普通です。しかし、私たちはすべてのことについて主に感謝しなければなりません。アメリカのヘレン・ケラーは幼時の時から視力を失い、耳も聞こえなく、話すこともできなかった神様を賛美する何の理由も持っていませんでした。しかし、彼女は次のように言いました。「私は身体的な障害のゆえに自分自身と私の義務と私の神様を見つけることができました。私は身体が不自由なので主を賛美します。」
モーリン・ケロドスは脱走兵として刑務所生活をしました。また、博打や闇の取り引きをした不良青年でした。そんな彼を彼の御祖父さんは無理矢理に教会の礼拝に連れて行きました。その御祖父さんは40年間タバコを止められない人でした。ところが、その御祖父さんはケロドスのそばで神様に誓願の祈りを捧げました。「神様。もし、我が孫モーリン・ケロドスを新しく生まれさせてくださるなら、私はタバコをやめます。」神様は彼の切なる誓願祈りを聞かれ、ケロドスを奇跡的に変えてくださいました。ケロドスは後に軍人たちの牧師となり、多くの人々を主に導きました。彼は「監獄生活から賛美生活へ」という本で次のように言いました。「賛美の祈りは神様と交わる一番良い道であり、私たちの生活に大きな変化をもたらします。神様を賛美することは喜びがあるからするのではなく、神様に従ってすることです。賛美の祈りを忍耐を持って続ければ神様の力が徐々に現われ、後には川のように私のうちから溢れ出て過去のすべての傷痕を奇麗に流してくれます。」
ある兵士の妻は数年間酔っ払いの夫のために苦しんでいました。ついに彼女は離婚することを決心しました。そして、最後にモーリン・ケロドス牧師と相談しました。彼女は「先生。彼と再び暮らしてほしいとは絶対に言わないでください。私は再び彼と暮らすことはできません。」その時、モーリン牧師は言いました。「それは構いません。しかし、そんな夫のことでも主に感謝してみてください。」そして聖書の御言葉に基づいてすべてのことについて感謝することが神様の御旨であり、そのようにすると神様が一番良い方法によって問題を解決してくださると言いました。彼女は最初は信じられないと思いましたが、最後だと思って主の御前にひれ伏して感謝の祈りを捧げました。すると二週間後に彼の夫はお酒を一滴も飲めなくなりました。
モーリン牧師は「賛美生活と力」という本で次のように言いました。「神様は私たちの生活に完全な計画を持っておられます。私たちが経験する災いや病や困難は私たちに置かれた完全な計画を成就するための過程に過ぎません。ですから、私達は災いを与えてくださった神様につぶやいたり、災いがなくなるように祈ったりする代わりに現在自分が処せられている困難な状況は主が私に一番よいものを与えてくださるための計画の一部分であると喜んで認めてそれを与えてくださった主に感謝と賛美を捧げなければなりません。そうすると、神様の力が働かれ、人生の転換点が現われるようになります。」賛美は神秘的な力を持っています。賛美する時に心の中に働いているすべての不信、恐れが消え去り、心に平安と確信と勇気が与えられます。18世紀のイギリスの有名な牧師であったウィリアム・ロウは次のように言いました。「誰かがあなたに幸せになる一番早くて確実な方法を教えてくれることができるというなら、それはあなたの周りで起こっているすべてのことについて神様に感謝と賛美を捧げなさいという言葉でしょう。その理由はあなたが災いのように思っていることも主を賛美する間に祝福に変わるからです。」
パウロとシラスはピリピを開拓する時にむちで打たれて牢に入れられました。看守は、二人を奥の牢に入れ、足に足かせを掛けました。パウロとシラスは主に感謝することがとても難しい状況でした。しかし、彼らは真夜中ごろ、神様に祈りつつ賛美の歌を歌いました。すると、突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまいました。この事件によって看守と彼の家族は悔い改めてイエス様を信じるようになりました(使徒16:19-34)。神様は賛美を住まいとしておられます(詩篇22:3)。ヘブル人へての手紙13:15は次のように言っています。「ですから、私達はキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」私たちはどんな困難や試練の中でも主に感謝と賛美を捧げる時、霊的な戦いで勝利することができます。
第四に、沈黙することです。ヨシュアは民に命じて言いました。10節をご覧ください。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」ヨシュアはなぜ民に沈黙を命じたのでしょうか。もしそのように指示しなかったなら、人々は不信のことば、不平不満を言い始めたでしょう。そして、そのような言葉はすぐすべての民に伝染病のように広がり、戦士達の士気を下げることになります。それでヨシュアは民に命じて黙って神様の御声を聞くことに励むようにしました。A.Wトーザは次のように言いました。「クリスチャンの敬虔訓練のために一番大切なのは、沈黙の訓練です。なぜなら、沈黙を学ばなければ神様の御声を聞くことができないからです。」私たちは無駄話をしたり、否定的な言葉を話したりして聞く相手に疑いを与え、人々との関係性が悪くなる時があります。私たちは多くの言葉を話すより神様の御声を聞くことに励まなければなりません。ダビデは次のように告白しました。「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。」(詩篇37:7)。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」(詩編62:1)。主の戦いに人間のときの声は不必要です。イスラエルの民も、敵軍も、これが主の戦いであることを徹底的に知らされなければなりません。
イスラエル人は神様の作戦命令に従って主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせてから宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごしました。二日目、三日目、四日目、五日目、六日目もイスラエル人は同じく行ないました。しかし、エリコの城壁には何の変化も起こりませんでした。城壁のどこかが少しずつ崩れ落ちることもありませんでした。その時、彼らの心には疑いと不信が迫って来たかも知れません。しかし、彼らは一つの心になって黙って神様の御言葉に従って毎日エリコの町の周囲を回りました。七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回りました。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言いました。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。」すると、民は長い沈黙をやぶってときの声をあげました。「わー!」その叫び声は信仰による叫び声であり、叫び祈りであり、賛美の声でした。その時、エリコの町はどうなりましたか。20節をご覧ください。「そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。」エリコの城壁はイスラエル人の叫び声によって崩れ落ちたのではありません。それは彼らが神様の御言葉に聞き従って信仰によって行なったからです。ヘブル人への手紙11:30節は言います。「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。」
私たちの戦いは血肉の戦いではなく、サタンとの霊的な戦いです。霊的な戦いで勝利できる秘訣は、勝利に対する確信を持つこと、すべてのことを神様中心に行なうこと、主に対する従順と心を合わせて祈ること、すべてのことについて主を賛美し、感謝すること、つぶやかず、黙って主の御言葉に耳を傾けることです。そのようにする時、主は私たちに必ず勝利を与えてくださいます。