2001年ヨシュア記第7講
敗北による教訓
御言葉:ヨシュア記7:1?26
要 節:ヨシュア記7:13「立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。』」
今日の御言葉は大きな勝利の直後にあった敗北について言っています。エリコの攻略を通して、神様はヨシュアと共におられ、奇跡的な勝利を与えてくださいました。ところが、ユダ部族の一人アカンは、エリコの聖絶のものに手をかけることにより、彼と彼の家族だけでなく、イスラエルの民全体に神様の怒りとわざわいをもたらすことになりました。この事件は神の民も敗北する時があることを示してくれます。ところが問題は敗北自体ではなく、敗北によって敗北感に陥り、続けて敗北の人生を送ることです。クリスチャンが敗北感に陥り、敗北の人生を送ることは神様を悲しませることです。クリスチャンはたとえ敗北したとしても敗北感に陥ってはならず、敗北から立ち上がらなければなりません。なぜなら、クリスチャンは霊的な戦いで勝利することが神様の御心だからです。敗北を勝利に変えるためにはまず敗北の原因を知らなければなりません。そして、敗北の原因になったものを取り除かなければなりません。今日の御言葉を通してイスラエルの敗北の原因は何かを知り、その敗北が今の私たちに教えてくれる教訓について学びたいと思います。
?.イスラエルが敗北した理由(1-15)
今までイスラエルの民は信仰によってヨルダン川を渡り、ギルガルでは神の民として割礼を受け、過越の祝いを行いました。そして、6章では神様の作戦指示に従って難攻不落の要塞エリコを見事に占領しました。イスラエルは順調にカナンの地を占領していました。彼らの先にはただ勝利だけが待っているかのように見えました。ところが、そんな彼らに思いがけなかった敗北が訪れました。難攻不落の町エリコを占領した彼らが小さな町アイを攻略できず、敗北したのです。それでは彼らが敗北した理由は何でしょうか。
第一に、アカンが罪を犯したからです。1節をご覧ください。「しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。」6:18,19節を見ると、神様はヨシュアにエリコを占領してから聖絶のものに手を出さないことと主のために聖別されたものを主の宝物倉に持ち込むことを言われました。もし、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにすると、わざわいをもたらすことになると警告されました。エリコには珍しくて美しい戦利品がたくさんあったでしょう。長い間荒野生活をしたイスラエル人にはそれらは大きな誘惑になりかねません。神様は彼らの心を知っておられたので、物質の誘惑に陥らないように厳しく警告されたのです。
このような神様の警告にもかかわらずアカンは聖絶のもののいくらかを取ったので、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がりました。アカンひとりの罪はすべてのイスラエル人に災いをもたらすようになりました。神様の怒りはアカンひとりだけに向かって燃え上がったのではなく、イスラエル人に向かって燃え上がりました。一人の罪が信仰の共同体全体に影響を及ぼしました。1節で神様は「イスラエルの子らは罪を犯した」と言われました。11節では「イスラエルは罪を犯した。」と言われました。これを見ると、ひとりの罪が共同体にどれほど悪い影響を及ぼすかがわかります。アカンひとりの罪によってイスラエル人は敗北し、36名が打ち殺されました。すべてのイスラエル人にわざわいがもたらされました。私達は自分ひとりが罪を犯したことは大したことではないと思うかも知れません。しかし、私ひとりは共同体の祝福の源にもなれるし、わざわいをもたらす源にもなれます。私ひとりは全体を生かすことも、破滅させることもできるのです。ですから、私達は共同体意識を持たなければなりません。アカンは共同体を考えず、自分の有益だけを考えました。「アカン」は「わざわいをもたらす」の意味ですが、まさに彼は名前通りにイスラエルにわざわいをもたらしました。
アカンの罪はただものを盗むことだけではなく、神様の御言葉に聞き従わなかった霊的な罪でした。11節を見ると、神様との契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえしたと罪を指摘しています。すなわち、彼は神様を侮りました。彼は神様を騙し、イスラエル人を騙し、自分の良心を騙しました。しかし、神様は人々から侮られるような方ではありません。ガラテヤ6:7,8節は次のように言っています。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」
今までイスラエルが勝利できたのは彼らが指導者ヨシュアを中心に心を合わせて右にも左にもそれることなく神様の御言葉に聞き従ったからです。また、神様はこのような彼らと共におられ、彼らの先に行って戦ってくださったからです。しかし、アカンが罪を犯した時に神様との契約は破られ、神様は彼らと共にすることができませんでした。神様が共におられない時、彼らは負けるしかありませんでした。
第二に、彼らは勝利した後に高慢になりました。2、3節をご覧下さい。ヨシュアはエリコから人々をアイに偵察して来るように遣わしました。アイを偵察した人々はヨシュアのもとに帰って来て言いました。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」アイのすべての人が一万二千人と言われているから、戦うことのできる者は三千人もいなかったでしょう。その上、エリコほど堅固な町でなかったし、エリコ攻略によりイスラエル軍の士気は大いにあがっていたから、二、三千人ぐらいで十分に占領することができると彼らは考えました。しかし、それは高慢な考えでした。アイはエリコより975メートル上りになっており、北側は谷、西側には裂け目の多い岩石の丘でした。アイはエリコより千メートルほど高い所にあったのでそこを占領するためにはかなりの準備が必要でした。しかし高慢になっていたイスラエル人はアイを過小評価しました。彼らは大きな勝利の後、心が高ぶっていました。皆さんは緊張して働く時には病気にかからなかったが、緊張がなくなった時に病気にかかった経験があると思います。同じくイスラエル人は高慢になり、続けて引き締めるべき心の帯をゆるめて安逸に陥りました。そのためにアイを攻略することに最善を尽くしませんでした。成功した人々の共通点は小さなことでもいつも最善を尽くすことです。ある人はいろいろな商売をしてみましたが、すべて失敗してしまいました。ある時に彼は囲碁をしていましたが、相手が弱そうに見えたし、最初は勝っていたので十分勝てると思いました。ところが、結果は彼の負けでした。相手は彼にアドバイスをしました。「あなたは最初は勢いよくやりますが、最後をきちんとしない癖がありますね。」彼はその言葉を聞いて自分は商売も最初は良くやりますが、最後の部分をきちんとしない癖があることに気づきました。それで、彼は再び商売を始めてからはお客さんが店に入って来て帰る時まで最善を尽くして仕えました。すると彼の商売は繁盛するようになりました。小さなことでも大きなことでも神様に祈りながら最善を尽くすことが成功の道です。1チームの1:1聖書勉強に最善を尽くす人が多くの人々に仕えることができます。
ヨシュアとイスラエル人はエリコを占領する時には神様の力と知恵に頼る心を持っていました。そのために朝早く起きて祈りました。彼らは神様を信頼し、神様が与える作戦指示に聞き従いました。しかし、アイに攻め上る時には朝早く起きたという記録も神様の作戦指示に聞き従ったという記録もありません。彼らはエリコを攻略する時には自分たちの力によってはどうしようもないと思っていたので神様に助けを求めました。しかし、神様の助けによって不可能なことが可能になった時には考えが変わりました。「私たちはエリコのような難攻不落の要塞も占領した。だから、こんなアイを占領する事は朝飯だ。」彼らはそのような高慢な心を持っていたので敗北してしまいました。聖書は「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」と言っています(?コリント10:12)。ですから、私達は勝利した後、気をつけなければなりません。祝福を受けた後、気をつけなければなりません。聖霊の御業がある時に、サタンのしわざに気をつけなければなりません。霊的な戦いでは私たちの力と知恵によっては勝利することができません。私たちは弱く、サタンは狡猾で強いのでどんなことでも謙遜に神様に頼らなければなりません。イエス様は主の祈りの中で「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈ることを教えてくださいました。私たちは自分の弱さを認めて主にこのように祈らなければなりません。
私たちは試験を前にした時や病気にかかっている時や家庭の問題がある時など自分の力ではどうしようもない時には神様に切に祈ります。ところが、問題が解決されると考えが変わります。神様が助けてくださったこともあるが、自分の努力があって問題がうまく解決できたと思います。すなわち、高慢な心になります。すると、それからは切に主に祈ることもしなくなります。このような高慢な心を持った人は必ず敗北するようになります。
4,5節をご覧ください。そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げました。アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになりました。攻め上って来るイスラエル人を高い所から攻め下ろす感じになり、イスラエルの軍隊は思いがけない敗北によって逃げ出しました。実際の損害は大したことではありませんでしたが、必ず勝利すると高慢になっていたイスラエル人の心理的動揺は大きかったことでしょう。敗北の知らせは、実際の損害以上の恐怖と絶望感をイスラエルの民すべての上にもたらしました。ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶりました(6)。「着物を裂き」「自分たちの頭にちりをかぶった」は、絶望と悲嘆の表現です。ヨシュアは「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。」と祈りました。これは、出エジプトのイスラエル人のつぶやきによく似ています。一章において神様の励ましを受け、奇跡的にヨルダン川を渡り、難攻不落の町エリコを占領したヨシュアとイスラエル人は、ちょっと敗北すると、もう絶望のどん底に陥ってしまいました。ここに、人間の信仰とか勇気がいかに頼りないものであるかを知らされます。特に高慢になっている時は危険です。8、9節をご覧ください。「ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」イスラエル軍の侵攻と勝利におののいていた周囲の民が、今度はアイでの敗北を聞いて、イスラエルを攻め囲み、イスラエルの名を地から絶ってしまうことになれば、イスラエルの名だけでなく、神の御名が汚されることになります。
その時、神様はヨシュアに、敗北の原因を明らかにされます。それは、敵が強いのでもなく、地形が不利なのでもなく、神様がそうされたのでもありません。イスラエル自体の中に罪を犯す者があったからです。彼らは、6:17,18に示された聖絶に関する契約を破って聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえしました(11)。それゆえ、これらの罪を犯した者たちが聖絶のものとなり、滅ぼされて、神の民から取り除かれるまでは、敵に勝利することはできません。神様は敗北の原因を明らかにされてからその解決策も提示してくださいました。13節をご覧ください。「立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。』」神様はヨシュアに民のうちから罪を除き去るように命じられました。そのようにする前までは敵の前に立つことができないと言われました。神様は敗北の原因を取り除くことを願われます。イスラエルの本当の敵は外部にあるのではなく、内部にありました。私たちは敗北の原因になった聖絶のものを、私達のうちから除き去らなければなりません。私たちのうちに神様が共におられることができない原因を除き去らなければなりません。私たちは失敗の原因を他人から探そうとします。しかし、敗北した時にまず自分のうちにある罪を悔い改めることをしなければなりません。兄弟の目の中のちりに目をつけますが、自分の目の中の梁には気がつかないのです。
去年12月末にあった日本支部長修養会の時に恵みを受けた私は順調に新年を迎えると思いました。しかし、修養会から帰って来た私は思いがけなかったサタンの攻撃を受けました。私はその攻撃によって大きなダメージを受けて深い敗北感に陥りました。そして、なかなかその敗北感から立ち上がることができませんでした。私は大きな絶望の中で主の御業に仕える力を失ってしまいました。私は主の御前に出て行き、ヨシュアのように嘆息しました。「ああ、神、主よ。あなたはどうして私をこの国に導いて、私を敵の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。」「ああ、主よ。私が敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。」私は長くて苦しい一月と二月を過ごして来ました。そんな私に主は言われます。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」主は一月の事件を通して高慢になって祈りを休んだ罪を犯したことを悟らせてくださいました。祈りを休んだので霊的な権威を失っていたことを悟らせてくださいました。礼拝のメッセージを伝えることも切に主に祈って準備できず、マンネリ化していることを悟らせてくださいました。今まで切に祈って来た日本の牧者達も立てられたので、私は切に祈ることを休んでいました。そして、自分の経験や同労者たちの力に頼っていました。神様はこのような私を打ち砕かれました。私は敵の前に背を見せてしまったことが悔しくてたまりませんでした。そんな私に主は言われます。「立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。」私が自分のうちにある高慢を悔い改めます。毎日主の御前に出て行き、謙遜に祈ることを決断します。
?.アカンを取り分けたイスラエル(16-26)
16-26節は罪を犯した人を取り分けて除き去る場面です。ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させました。するとユダの部族がくじで取り分けられました。ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られました。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られました。ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られました。アカンは自分が取られるまで自分から進んで罪を告白しようとしませんでした。もし彼が神様を恐れて悔い改める心があったならイスラエルが敗北した時に自分の罪を悟り、悔い改めたことでしょう。しかし、彼は最後まで悔い改めず、すべての罪が明らかになるまで黙っていました。
ヨシュアはアカンが犯した罪を告白させました。それではアカンが罪を犯した動機は何ですか。21節をご覧ください。「私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。」「見て、欲しくなり、それらを取りました。」は、人間が罪の誘惑に負けて行く様子が描かれています。貪欲はアカンの霊的な目を眩ませました。それによって彼は自分がしていることがどれほど恐ろしい罪であるか、どれほど恐ろしい災いをもたらすかを知りませんでした。貪欲は彼の良心を麻痺させたのですべてが明らかになるまで自分の罪を隠していました。結局、貪欲によって彼は自分だけではなく、家族も滅び、すべてのイスラエル人にわざわいをもたらしました。
貪欲は私たちの心を神様から遠ざける力を持っています。貪欲に陥ると心が神様から離れるようになります。それで使徒パウロは貪欲を偶像礼拝だと言いました(コロサイ3:5)。貪欲は目に見えないので人々はそれほど深刻に思っていません。しかし、貪欲は自分を破滅するだけではなく、共同体を破滅させるものです。貪欲は十戒の最後の戒めとして人の心のうちにある罪を治めるために神様が与えてくださいました。貪欲はすべての罪の源となります。アダムとエバが最初に罪を犯すようになったのも善悪の知識の木を見て貪欲が生じたからでした(創世記3:6)。遺産相続の問題で兄弟と争っている人にイエス様は言われました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)。貪欲は物質に対してだけではなく、情欲、権力欲、名誉欲など世のすべてのものに対して生じます。このような貪欲は誰にもあります。つまり、誰でもアカンのようになる可能性を持っています。しかし、それを心の中で育ててはならず、悔い改めることによってそれを取り除かなければなりません。
貪欲は自分の力で取り除くことができません。使徒パウロは自分にうちに働いている貪欲を発見して嘆息しました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)。しかし、彼はイエス・キリストによってその貪欲から解放されることを体験して次のように告白しました。「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7:25a)。ですから、貪欲が生じるたびにイエス・キリストの十字架の前に出て行き、自分の罪を告白して罪の赦しを受けなければなりません。
22、23節をご覧ください。ヨシュアは使いたちを遣わしてアカンが天幕に隠したものを持って来させて、それらを主の前に置きました。そして、アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに、彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行きました。そこで全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけました。こうして彼らは、アカンの上に、大きな、石くれの山を積み上げました(24-26)。アカンが裁かれることにより、二つの結果が伴いました。第一に、主は燃える怒りをやめられました。癌を発見した医師は、癌に冒された部分を徹底的に取り除かなければなりません。そうでなければ、癌細胞はたちまち全身に広がります。ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませます。ですから、新しい粉のかたまりのままでいるためには、古いパン種を取り除かなければなりません(?コリント5:6-8)。
私たちには先祖から伝わったむなしい生き方があります。妻や子供たちに暴力をふるう父親を見て育った人は、自分はそんな生き方をしないと決心しますが、自分の妻や子供たちに暴力をふるう人が多くいます。浮気や不倫をする親を見て育った人は大人になって同じことを行なう場合が多くあります。アルコール中毒者の家庭を調べてみると、先祖の中に同じアルコール中毒者がいることがわかります。このような先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されるためにはその家計に流れている呪いの流れを止めなければなりません。ところが、人間の努力や意志によっては不可能なことです。それはただ傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によって可能です(?ペテロ1:18、19)。ガラテヤ3:13は言います。「キリストは、私達のためにのろわれたものとなって、私達を律法ののろいから贖い出してくださいました。」私は昼間にもよく横になっている父を見ながら育ちました。私は仕事を母に任せて横になっている父が気に入らなくて自分は父のようにはならないと思いました。ところが、自分も父のようによく横になる者となっていました。この昼間にもよく横になる流れを止めたのはイエス・キリストの、尊い血によってです。私はイエス・キリストを信じることによって新しく生まれ、今は身体を動かすことが好きになり、時間があればよく運動をするようになりました。
第二に、アカンのさばかれた地点に石が積み上げられ、その谷がアコルの谷と名付けられて後世へのあかしとなりました。アコルはアカンと同じ意味の「わざわいをもたらす」という意味です。アコルの谷の目に見える石くれの山とアカンの物語は、人々に罪の恐ろしさと、聖さを保つことの大切さを教えてくれます。私たちはアカンのことを通して自分を省みなければなりません。そして、自分のうちにある貪欲を悔い改めなければなりません。
アカンの事件を通して罪は必ず明らかになり、裁かれるようになることを学ぶことができます。アカンは誰も知らないうちに罪を犯しました。彼が盗み、隠すのを見た人は家族の以外にはいなかったでしょう。アカンの犯罪は完全犯罪のように見えます。ところが、アカンの罪は明らかになり、結局彼は裁かれるようになりました。誰も見ていないようですが、神様は見ておられます。人は騙すことができますが、神様は騙すことができません。?コリント5:10は次のように言っています。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」
誰でもアカンのような罪を犯す可能性は持っています。そのような罪を悔い改めないと神様の祝福を受けることができません。神様はアカンのように罪を犯して神様から呪われるしかなかった私たちのためにイエス・キリストを遣わしてくださいました。イエス様は私たちの代わりに呪われ、十字架につけられ死なれました。神様はイエス・キリストを信じる者が呪いから贖い出され、祝福の人生を送るようにしてくださいました。私たちがイエス・キリストの尊い血によってアカン的な要素を取り除き、子孫たちに神様の祝福を受け継がせる者となるように祈ります。