2006年マタイの福音書第11講
あなたの信じたとおりになるように
御言葉:マタイの福音書8:1?17
要 節:マタイの福音書8:13「それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」
先週まで、私たちはノンクリスチャンの間でも有名なイエス様の山上の垂訓を通して大きな恵みを受けました。2,000年前にイエス様から直接に聞いた人々はどんなに恵まれたでしょうか。先週の御言葉で学んだように、群衆はイエス様の教えに驚きました。というのは、イエス様が、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからです。人々は権威あるイエス様の教えに驚嘆したのです。
今日の御言葉は権威あるイエス様に対する人々の信仰に答えるイエス・キリストの愛といやしが記されています。ここで私たちにイエス様に対する人々の謙遜と信仰、それに答えてくださるイエス様の愛と癒しの力を学ぶことができます。イエス様は私たちの信仰のとおりに祝福してくださいます。どうか、イエス様の働きによって私たちもキリストの愛と癒しを経験することができるように祈ります。
?.らい病者への主の愛と癒し(1‐4)
1、2節をご覧ください。イエス様が山の上で『山上の垂訓・山の上の説教』を語ってから降りて来られると、多くの群衆がイエス様に従いました。人々はイエス様が教えてくださった八つの祝福、キリストの義を通して大きな恵みを受けていたことでしょう。彼らの心は潤され、たましいは癒されていたに違いありません。イエス様が山上垂訓の教えを語り終えられると、群衆はその教えに驚きました(7:28)。人々は平和で、美しい山で行なわれた夏修養会を通して驚くばかりの恵みを受けたのです。実際に多くの群衆がイエス様に従いました。すると、ひとりのらい病人がイエス様のみもとに来ました。当時のユダヤ人社会において、らい病は人々から最も嫌われている病気の一つでした。レビ13・14章には、この病気についての律法、当時のユダヤ法が記されています。これは汚れた病気とされ、この病気の者は、町の外に住まなければなりませんでした。しかも道を歩く時は、口に手を当てて、「汚れた者、汚れた者」と叫ばなければなりませんでした。バークレーの注解書によると、キリストの時代には、エルサレムを始め城壁のある町に入ることさえ禁じられていました。この病気の者に2メートル以上近づくことも禁じられていました。それゆえ、この病気の者は人々から最も忌み嫌われていました。神様の呪いの下にあると断罪されていました。愛する家族からも見離されて、孤独な生活をせざるを得ませんでした。こんなにひどい病気にかかっているらい病人の痛みはどんなに大きかったでしょうか。らい病は彼を孤独だけではなく、悲しみと絶望に陥れていたに違いありません。実際にほとんどのらい病人は自分の病が癒されることをあきらめていたでしょう。しかし、本文のらい病人は違いました。彼は悲しみと絶望の中であきらめてしまうようなことをしませんでした。特に、彼はイエス様の教えに驚いている人々を通して恵みを受けたようです。そして、その恵みがむだにならないようにイエス様に対する信仰を持ちました。彼は信仰によって人前に出てはいけないという律法をも破ってイエス様のみもとに出てきました。でも、彼はらい病のために神ののろいの下にあると断罪されていたので大胆に自分の病気の癒しを求めることはできませんでした。イエス様にさわれることもできないと思ったでしょう。らい病にかかってからはだれも自分にさわってくれませんでした。さわってくれるどころか、2メートル以内に近づいてくれることもなかったのです。そこで、彼はただ、ひれ伏して言いました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」とあります。私はこの言葉の中で、彼の知恵と深い信仰を発見しました。聖書を読んでみると、らい病人は自分がらい病人だと言っていません。イエス様も彼がらい病にかかっていることを言われませんでした。ただ、後でこの出来事を調べて書き記した著者マタイがひとりのらい病人がみもとに来たことを記しています。というのはイエス様がらい病人を癒された当時は、らい病人とイエス様以外にはだれもらい病人のことを知らなかったということです。らい病人はぶしつけに「僕の病を直してください」と言っていません。汚れている自分の病気の正体が表われると、周りの人々にも迷惑になることを考えたのではないでしょうか。彼はただひれ伏して「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と言っています。彼はイエス様なら、自分の病を言わなくてもそれを知っておられるはずだと信じました。すべてを知っておられるイエス様を信じたのです。
一般的に医者が病人を治療するためには患者がどのような病気を知らせなければなりません。また、医者自分が診察してみなければよく分かりません。だから患者は医者の前では何でも見せるし、医者もできる限りを尽くして診察します。しかし、らい病人はイエス様に見せなくても、自分の病を教えなくても、イエス様が全部知っておられると信じたのです。また、イエス様がご覧にならなくてもお心一つで、自分をきよめることがおできになると信じました。さわらなくても、言われなくても、ただ、お心一つで自分の病をきよめてくださるのです。何と素晴らしい信仰でしょうか。彼は汚れた者として誰にも言えない自分の病気であってもイエス様のお心一つできよめられると信じたのです。イエス様はお心一つでどんな病でも癒すことができます。人々に言い表したくない病気であり、イエス様にも告白することが恥ずかしい病気であってもイエス様のお心一つで癒されるのです。そして、イエス様は癒してあげることを願っておられます。
3節をご覧ください。イエス様は手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。イエス様はあなたのらい病は癒されたと言われませんでした。イエス様のお口からは「らい病」という言葉が出てきません。ただ、イエス様は手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われたのです。らい病に対するイエス様の深い愛と気配りがよく表われています。イエス様はわざと手を伸ばして彼にさわられました。らい病人は体がきよめられる前にイエス様のこの愛に包まれたことでしょう。今では自分の家族さえさわってくれない寂しさと悲しみの中にいました。ところが、聖なるイエス様が自分にさわってくださったのです。彼はイエス様の愛の御手にふれられて、その愛に包まれて心が熱くなっていたでしょう。すると「わたしの心だ、きよくなれ」と言ってくださるイエス様の御声が聞えました。すると、すぐに彼のらい病はきよめられました。イエス様は汚れている彼をきよくしてくださったのです。イエス様は罪のために汚れている私たちをきよくしてくださる方です。私たちがイエス様の癒しを信じるなら、イエス様のみことに出てきたことだけでもきよめていただけます。イエス様は私たちが汚れた罪のために、自意識のために人々に言い表せない病気であっても、私たちの病を癒し、罪を赦してきよめてくださいます。それだけではありません。罪が赦され、きよめられた者たちの社会生活も助けてくださいます。
4節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」とあります。イエス様はその場でひとりのらい病人が癒されたと言われませんでした。むしろ、彼に「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。」と言われました。もし、その場で話をしてしまうなら、彼がきよめられる前に彼の近くにいた人々は罪意識にさいなまれるようになったでしょう。そこで、イエス様は「だれにも話さないようにしなさい。」と言われたのです。ただ、人々へのあかしのために自分を祭司に見せ、供え物をささげることを教えてくださいました。イエス様は彼が正常な社会生活を営むことができるように助けてくださったのです。何と深い配慮でしょうか。イエス様は病気を癒すことだけではなく、彼の社会生活も助けてくださったし、周りの人々のことも配慮してくださいました。
イエス様は私ひとりが信仰によってみもとに出て行くと、私の病を癒してくださることだけではなく、私の生活も助けてくださいます。それだけではなく、周りの人々のことも考えてくださいます。私たちは自分の弱さのために、自分の罪のために自分の病を人々の前で言いたくないときがあります。繰り返される失敗と罪のために絶望し、人々と付き合うことさえ恐れてしまう場合もあるでしょう。しかし、信仰によってイエス様のところに出て行くなら、イエス様は私たちをきよめてくださいます。私がイエス様に告白しなくても私のことをよく知っておられるイエス様はイエス様のみもとに出てきたその信仰を祝福してくださるのです。それがイエス様のお心です。汚れた罪に対して何でそんな罪を犯してしまったのかと責めるようなことをしません。ただイエス様に対するその信仰のとおりに祝福してくださいます。
?.百人隊長の信仰といやし(5?13)
5,6節をご覧ください。「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」」とあります。
らい病人に続いては、ひとりの百人隊長がみもとに来ました。百人隊長とは、100人の部隊を統率する者です。ローマの一個軍団は6,000人でしたが、それを60部隊に分け、隊長が任命されました。でから、百人隊長はエリート軍人です。ところが、この百人隊長は、自分のことのためにイエス様にお願いに来たのではありません。自分がもうかるためであるとか、そういうことのためにイエス様にお願いしたいのではないのです。彼は、自分の「しもべ」のためにイエス様にお願いに来たのです。自分の僕が病気で苦しんでいる、それを癒してもらうために来ました。当時、僕、すなわち奴隷というのは、人間扱いをされませでした。物と同じでした。物は壊れたら捨てます。だからいくら僕が病気で苦しもうが、そんなのはほっとけ、というような扱いを受けるのです。
ところがこの百人隊長は、その僕の苦しみを見ておれず、ほうっておけませんでした。その苦しみを何とかしたいと思いました。そして、奴隷のためにイエス様の所に来て懇願したのです。ここに愛を見ることができます。口先や言葉だけの愛ではなく、真実と行ないが伴われる愛です。この愛の行動に対してイエス様は何と言われましたか。
7節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」」とあります。イエス様は百人隊長の愛の行動に感動されたでしょう。イエス様ご自身も行って、直して上げようとされました。私たちが愛に基づいて行動するなら、イエス様も感動して、一緒に協力してくださることが分かります。イエス様は愛を実践する者を助けてくださいます。ところが、百人隊長はイエス様に何と言いましたか。
8?9節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」ここで、私たちは百人隊長の謙遜とイエス様の御言葉の権威に対する信仰を発見することができます。百人隊長は、イエス様に向かって、「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」と言いました。自分には、イエス様を自分の家にお迎えするような資格がない。そんな値打ちのある者ではない。ということを言っています。自分は神様の御前に、決して正しい人間ではない‥‥。そういう、自己発見、罪の自覚があったのです。多くの人々は正しくなくても正しいと主張しようとします。そして、権力を持つ側の人はその権力を利用しようとします。彼は当時世界を支配しているローマのエリート軍人としてイエス様に人を送ることもできたでしょう。イエス様を呼びたいと思ったら、来るように命令すればいいはずです。ところがこの百人隊長は、そのようなこの世の地位や立場など眼中にありません。信仰の目、霊的な目でイエス様を見たのです。すると、イエス様は自分の軍団長よりも、ローマ皇帝よりも権威ある方でした。神であられる方でした。そこで、彼はへりくだっています。神様の御前にへりくだっているのです。 また、彼は「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」と言っています。彼は軍人生活を通して権威の属性を理解していましたが、イエス様の御言葉に権威と力があると信じたのです。ヘブル4:12節を見ると「神のことばは生きていて、力がある。」とあります。このことを百人隊長は信じていました。彼はイエス様の御言葉には絶対的な力があることを信じたのです。ですから、彼はイエス様が命令すれば、自分の僕の病気が癒されると言い切ることができました。本当にりっぱな信仰です。イエス様も驚かれました。そこで、イエス様はついて来た人たちにこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」百人隊長は異邦人でしたが、ユダヤ人の中にも見出せないような、まれに見る信仰の持ち主でした。イエス様は彼の信仰を賞賛しながら、悔い改めないユダヤ人の不信仰を指摘されました。彼らは不信仰のゆえに外に追放されてくやしがり、「泣いて歯ぎしりする」と言っておられます。ではイエス様から賞賛された百人隊長の信仰の結果はどうですか。
13節をご一緒に読んでみましょう。「それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。」イエス様は百人隊長に「あなたの信じたとおりになるように」と祝福してくださいました。イエス様がそのように言われたその瞬間、ちょうどその時、そのしもべはいやされました。」ここで、私たちは私たちの信仰のとおりに祝福してくださるイエス様を学ぶことができます。もし、百人隊長が中風やみで、家に寝ていて、苦しんでいるしもべに対してしようがないと思ったらなら、どうなったでしょうか。しもべは病からいやされることができなかったでしょう。百人隊長自身もイエス様を学ぶことができなかったはずです。しかし、百人隊長がしもべを愛し、イエス様の御言葉の権威と力を信じて信仰によってイエス様にお願いしたとき、しもべが癒されました。しもべは自分の牧者の信仰のおかげで癒されたのです。イエス様の弟子たちはガリラヤの漁師出身です。漁師の中でもりっぱな博士とか、世界的なリーダーシップを持っている方がいるかも知りません。でも、ペテロたちも見ると、魚の匂いがする田舎者の漁師でした。しかし、イエス様は彼らがやがて偉大な使徒になることを望み、そのとおりになることを信じました。すると、その信仰のとおりに彼らは世界の歴史をBCからADに変える歴史の主役となりました。?列王記4:1-7節を見ると、預言者のともがらの妻の一人がエリシャのところに来て自分の貧しさを訴えました。夫が死んで自分には負債だけが残り、家には油つぼ一つしかないことを訴えたのです。その時、エリシャは隣の人みなから器を借りて来るように、からの器を。それも一つ二つではいけませんと言いました。すると、彼女は主のしもべの言葉に従ってからの器を借りてきましたが、それに油を注ぐように言われました。そこで、彼女に器に油を注ぎましたが借りてきたすべての器がいっぱいになりました。神様は彼女の信仰のとおりに器を満たし、祝福してくださったのです。私たちは先週から夏修養会の準備を本格的に始めましたが、何をしても信仰を持って準備することができるように祈ります。
?.ペテロの姑のいやし(14-17)
14、15節をご覧ください。イエス様は、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になりました。ペテロは結婚していて奥さんも福音のみわざに励み、姑が子どものたちの面倒を見ていたようです。昨日、センターに来られたテリ・ロペス宣教師も姑が子どもたちの面倒を見てくださったのですがペテロもそうだったでしょう。?コリント9:5節を見ると、ペテロ巡回宣教旅行に妻を連れて歩くこともあったことが分かります。とりあえず、イエス様はペテロの家族を大切にしてくださいました。イエス様が手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエス様をもてなしました。姑も素晴らしい信仰の持ち主であることが分かります。主の恵みの救いをいただいて主に仕える姿を見ることができます。このように仕える方たちによって2000年の教会歴史が支えられて来ました。
16節をご覧ください。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来ました。そこで、イエス様はみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになりました。イエス様は御言葉だけで百人隊長のしもべを癒してくださいましたが、御言葉をもって悪霊どもを追い出すこともなさったことが分かります。イエス様は御言葉によって働いておられるのです。
結論的に17をご一緒に読んでみましょう。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
イザヤ書53:4a節を見ると「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」とあります。イエス様は実に私たちの病を負ってくださいました。らい病のために、町から隔離されて悲しく、さびしい人生を生きていたらい病人の病を負い、彼の痛みを担って十字架にかかってくださいました。汚れた罪をきよめるために十字架の上で御血を流されました。イエス様は十字架の苦しみを通して中風やみで家に寝ていて、ひどく苦しんでいる百人隊長のしもべの病も負ってくださいました。愛するしもべがひどく苦しんでいる姿を見て心を痛めていた百人隊長の痛みも担ってくださいました。ペテロの姑のやまいも背負ってくださいました。イエス様は姑の病のために心を痛めているペテロの痛みも担ってくださいました。イエス様はメシヤとして、私たちの病気をも「身に引き受け」、取り去ってくださいました。罪のために汚れている私たちをきよめるためにイエス様は十字架につけられて貴い御血を流してくださいました。ですから、イエス様は信じる者はだれもすべての悲しみと病から救われて健やかに生きることができます。らい病人のように人々に言えない病気であっても、イエス様のお心を信じるなら、イエス様は私たちをきよめてくださいます。百人隊長のように自分の病でなくても、自分のしもべ、自分の上司、自分の羊、自分の家族に対してもイエス様が御言葉を持って働いてくださると信じるなら、その信仰のとおりになります。もし、家族が離れていても百人隊長のように御言葉の権威を信じるなら、神様はその信仰を祝福してくださいます。主のために働いている主のしもべたちのために、イエス様ご自身が訪ねてくださり、家族を癒してくださいます。イエス様は私たちのすべての病を負い、私たちの痛みを担って十字架の道を歩まれました。重い、重い十字架を背負って険しいゴルコだの丘を上られ、十字架にかかって死んでくださいます。私たちの病と痛みを引き受けて十字架にかかって死んでくださったイエス様の愛を心から賛美します。そして、私たち一人ひとりがイエス様の愛の心、御言葉の権威と力を信じてその信仰を体験し、さまざまな病が癒されていつも健やかに生きることができるように祈ります。