2013年マルコの福音書 第1講-張パウロー
悔い改めて福音を信じなさい
御言葉:マルコの福音書1:1-15
要 節:マルコの福音書1:15「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさ
い。」
私たちは、先週までローマ人への手紙を最後の16章までフルコースで学び、信仰の原理とパウロの伝道者としての姿勢に深くふれることができました。主の恵に感謝します。私はローマ人への手紙の中で、1章16節の御ことばが一番心に響いています。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」今週からはマルコの福音書に移ります。マルコの福音書は他の福音書に比べ、16章と短いです。しかし、罪によって苦しみ、やんでいる人々に仕える僕としてのイエス様の姿がよく描かれています。それでは、著者のマルコは、最初にイエス様についてどのように書いていますか。1節をご覧ください。「神の子、イエスキリストの福音のはじめ」。福音は、神の子イエス・キリストから始まします。福音というのは、イエス様のことを示しています。福音のちからは謙遜に自分の弱さを認め、罪を悔い改めて神の子イエス・キリストを受けいれる人々にのみ、確実にあらわされます。
今日の御ことばによって、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われるイエス様の御ことばを謙遜に受け入れ、悔い改めて福音を信じることができるように祈ります。
?。悔い改めのバプテスマを宣べ伝えたヨハネ
2、3節をご覧ください。「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、」 この箇所は、イザヤ書40章のメシヤに対する予言を引用しています。イザヤ書40章1・2節を見ると、我が主神様は、不従順の罪のため、長い捕虜生活で荒れ果てたイスラエルの人々に優しく語りかけておられます。
“「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」”
その預言とおりに、神様は罪と死の恐れで苦しみ、生きる希望を失っていた人々をあわれまれ、イエス様をお与えになりました。その方によって、咎は償われたと約束されました。また、すべての罪を贖ってくださると慰ませてくださいました。そして、神様は民の罪の赦しのために、イエス様の前に使いを遣わしました。その人はバプテスマのヨハネです。
それでは、彼は何をしましたか。4節をご覧ください。「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」ヨハネは、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。救われるために、悔い改めをもって備えなさいというメッセージをひたすら伝えたのです。
すると、ユダヤの全国の人々やイスラエルの全住民は、自分の罪を告白しました。そして、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けました。彼らは、神様の教えに逆らった不従順の罪や高ぶっていた傲慢の罪を悔い改めました。情欲や貪欲、偶像崇拝、妬み、無慈悲な罪を真実に悔い改めました。年寄りから若い人まで徹底的に罪を告白し、自分の誤った生き方を改めることを誓いました。
ここにおられる皆さんも神様の前で真実に悔い改めた経験をもっていると思います。ローマ帝国の傭兵として3年間働き、除隊したばかりの金ヨハネ宣教師(当時は金鐘均兄弟)は、ヨルダン川修養会に参加してバプテスマヨハネの説教に心が打たれ、傲慢で虚しい生き方の罪を涙ながら悔い改めました。xx姉妹は、学校の先生に食事に誘われましたが、そこでバプテスマのヨハネの説教を聞いて感動して罪を告白しました。金ユンヒ姉妹は、たまたま犬を連れて近所にあるヨルダン川に散歩に出かけた際にバプテスマのヨハネの力あるメッセージを耳にして悔い改めてバプテスマを受けました。
冷たくて綺麗なヨルダン川が大勢の人々の悔い改の涙によって温くて塩っぱい水に変わりました。
ルカの福音書に出ている取税人ザアカイの場合が本当の悔い改めの見本になると思います。彼は同族からローマ帝国の代わりに税金を集める仕事をしていました。日本の税関の人々の印象とは違い、決められた税の何倍を取り、自分の財産を増やしました。力のある富豪からは、多額の賄賂をもらって税金を減免してやりました。イスラエルの人々から見ると、彼は罪人のかしらでした。でも、このような人がイエス様に出会ったとき、驚くべき変化が起こりました。彼はイエス様を自分の家に招いた席で、みんなの前で ‘主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。’ 彼は自分の罪を真実に悔い改め、自分の誤った生き方のために苦しんだ人々へ謝罪し、正しい生き方に軌道修正しました。これを見てイエス様は、彼の悔い改めに感動し、次のように言われます。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムのこなのですから。」
7節を見ると、ヨハネは謙ってあとからおいでになるイエス様を紹介しています。その方は、自分よりもさらに力のある方で、彼にはかがんで靴のひもを解く値うちもないと言ったのです。当時のユダヤでは、家にしもべがいて主人が仕事から帰って来ると、家のしもべが靴のひもを解いてやりました。バプテスマヨハネはあとから来られるイエス様に比べると、家のしもべにもならないほど価値のない存在だとの認識を持っていました。つまり、彼は、イエス様の道を用意し、その道を備える使いにすぎないと告白したのです。
なぜ、彼がこれほどに自分を低くし、あとから来られるイエス様を崇めるのでしょうか。8節をご一書に読んでみましょう。 “私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります”
ヨハネのバプテスマは、人々を悔い改めさせ、神の子であるイエス・キリストに導く道具にあたります。悔い改めてイエスキリストを受け入れると、聖霊が望まれます。この聖霊の働きは私たちのために十字架で死なれることにより一回でささげられたいけにえとしてのイエス様のことです。ヨハネの福音書1:29節では、イエス様のことを次のように証しています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
小羊イエス様の血潮がわたしたちを覆い、罪を聖よめてくださるのです。その聖霊の力は、創造主である神の力です。これがイエスキリストの福音です。また、この福音はユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力になるのです。
?。悔い改めて福音を信じなさい
9節をご覧ください。イエス様がガリラヤのナザレから来られ、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。イエス様は、神の子であり、罪のない方なので、バプテスマをお受けになる必要がありません。それにも関わらず、イエス様がバプテスマをお受けになったのはなぜでしょうか。
それは、イエス様が自ら神様の御心に従おうと決められたからです。また、これからイエス様が民たちの罪や病を背負われ、仕えるとの意思の表現です。さらに、人々に捨てられ、十字架につけられて死なれる覚悟のあらわれです。
イエス様が水の中から上がられると、どんな出来事が起こりましたか? 10節後半部をご一緒に読んでみましょう。 “天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった” 天が裂けて御霊が鳩のようにイエス様の上に下られました。英語の聖書をみると、天が引き裂かれるようにオープンになったと書いています。(he saw heaven being torn open)これは、上から聖霊による救いの恵の道が開かれたとの意味でしょう。使徒の働き2章で、五旬節の日になって聖徒たちが祈っていると、天から激しい風のような響きが起こりました。聖霊が炎のような分かれた舌の形であらわれて一人ひとりの上にとどまり、聖霊に満たされたと記しています。私たちが悔い改めてバプテスマを受けると、同じように天が開けて私たちの上にも聖霊が臨まれます。
聖霊は、自分の罪に心を痛めて自分の我執や考えを捨て、イエス様の憐れみを求める人の上に望まれます。神様は神の御子としての栄光を捨て、謙遜に神様の御旨に従い、バプテスマをお受けになったイエス様に、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」といわれました。
私の次男のヒョンス君は、一歳になったばかりです。この子を見ると可愛くてたまりません。この子は4人家族の中で一番遅くまで起きています。消灯した暗い部屋を走り回って疲れたら、いつの間にかうつ伏せで寝てしまいます。とにかくこの子が私の指を噛もうが何をしようが可愛いすぎて何でもしてあげたいくらいです。ところが、この間この子が軽い火傷を負いました。大事はいたらなかったのですが、私は胸をなで下ろしました。それで、わたしは想像してみたのです。この子が多くの苦難と苦しみを受けることを前から知っていたなら、それでも私は喜ぶだろうかと考えました。しかし、天の神様はイエス様が後に受ける苦しみを知っておられながら、惜しまず私たちの罪の赦しのためにお与えになりました。しかも、十字架の上で引き裂かれ、死なれることをご存知でした。でも、その御心を受け入れて最後まで従おうとするイエス様を喜ばれました。 イエス様のこの従順が神様にとっては素晴らしい喜びでした。
それで、神様は、天の窓を開いて聖霊を鳩のように注いてくださったのです。人間の親も自分の子供が言うことによく聞き従うと、喜びます。それで、欲しいものは何でもしてあげたくなります。
私たちが神様にすべてを委ねて主に従うものとなるように祈ります。そうすれば、天が裂けて聖霊が鳩のように臨まれる恵を体験できると信じます。
14、15節を一緒に読んでみましょう。“ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」”
イエス様は、ヨハネが捕らえられると、福音を宣べ伝える宣教を始められました。 “時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。” イエス様の宣べつたえるメッセージは、単純ですが、重要な内容を含んでいます。時が満ちたというのは、神様の救いの計画を成就する時がきたとのことです。
時が満ちたので、多くの預言者によって語り告げられたメシヤが来られました。ダビデの子孫として来られたイエス様が、自ら時が満ち、神の国が近くなったと宣べ伝えておられます。
救いの時は、人によって違います。高校生の時、イエス様に出会って救われる人もいます。UBF教会は、大学の時代に、聖書勉強を通して救われた人が多いと言えます。中村○○さんのようにある程度年をとってから福音を信じる方もおられます。両親がクリスチャンなので、子供の時から聖書に触れたからと言ってすぐ救われるとは限りません。個人的に主に向かい合う時がきます。イエス様がすくいの手を差し伸べる時がきます。その時を見逃してはいけません。今が悔い改めて福音を信じる時です。
コリントへの手紙?6:2では、 “確かに、今は恵みの時、今は救いの日です”書いています。すでに救われたからと言って、祈りと聖書勉強に怠けていると、心が頑なになり苦しみを味合うことになるでしょう。お金を愛し、この世の快楽に心を奪われ、イエス様から遠ざかっていた罪を悔い改めて福音を信じなければなりません。聖書の教えに逆らい、世の調子に合わせて生きていた罪を告白しなければなりません。
私たちが自分たちの隠れた罪を悔い改め、福音を信じる時に神様が天を開いて満ち溢れるほどのめぐみと祝福を与えてくださると信じます。2013年の夏修養会が1ヶ月半しか残っていません。この修養会で多くの兄弟姉妹たちがイエス様の前で、涙で悔い改めて福音を信じる御業がありますように心からお祈り申し上げます。