1997年年越し礼拝
イエスから目を離さないでいなさい
御言葉:へブル人への手紙12:1?13
要 節:へブル人への手紙12:2a
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」
今年を顧みると事件が多くて、世の人々を騒がした年でした。神戸の小学6年生が殺害された事件の犯人として14歳の少年が逮捕された事件は人々を驚かせました。金融機関の経営破たんが相次ぐ知らせは人々を不安に陥れました。マザー・テレサさんとダイアナさんの死は世界の人々を悲しみに包ませました。東京UBFにも様々なことがありました。先週のクリスマスイブパーティーの時、発表した今年重大ニュースによると寺崎アブラハム牧者が結婚したこと、クリスマス礼拝を祝福してくださったことなどがありました。個人的にもいろいろな出来事がありました。ある方は結婚し、ある方は出産し、ある方は宣教師として派遣され、ある方は進学し、ある方は就職し、ある方は聖書勉強を始めるなど本当にいろいろなことがありました。このような波瀾万丈の1997年ももうわずかです。
本文で著者は信仰生活を競走にたとえています。私たちは今年様々な困難を乗り越えて信仰の競走をして来ました。この競走は今年が終わると同時に終わるのではありません。来年も続けなければならない競走です。この時間は私たちがどんな姿勢をもって信仰の競走をするべきであるかについて学びたいと思います。また、私たちが受ける訓練の意味は何であり、それをどんな姿勢をもって受けるべきかを学びたいと思います。
一。信仰の競走(1ー3)
1節をご覧下さい。「こういうわけで、このように多くの証人達が、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」著者は私たちの信仰生活を競走にたとえています。ここで言っている競走は一世紀に一番代表的な競走であったマラソンを意味します。私たちクリスチャンは今までこの競走をして来たし、これからも続けなければなりません。人は誰でも競走しています。ところが多くの人々が目的と方向を知らないまま熱心に走っています。しかし、彼らの到達するところは滅びです。私たちクリスチャンはイエス・キリストを救い主として信じたその瞬間から永遠の滅びの道から離れて天の御国に向かって走る信仰の競走をするようになりました。ですからこの競走ははっきりとした方向と目的地があります。
1a節をご覧下さい。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、」著者は多くの証人達が、雲のように私たちを取り巻いていると言っています。多くの証人たちとは信仰によって神様に喜ばれる人生を送った人々です。彼らは世の価値観に従わず、神様の御言葉に従った人々です。また、どんな損害と苦しみと迫害があっても途中諦めず、最後まで信仰の競走をした人々です。彼らは忍耐を持って最後まで信仰の競走をし、勝利の冠を得た人々です。このような証人たちが雲のように多くいます。アベル、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、エリヤ、ペテロ、ヨハネ、ステパノ、パウロなど多くの信仰の先輩達がいます。彼らだけではありません。二千年のキリスト教の歴史の中には数多くの信仰の証人達がいました。彼らはすでに信仰の競走を終えてちょうど国立競技場の観覧席で私たちが走るのを見て「頑張れ、頑張れ。」と応援しているのです。私たちにこのような多くの証人達がいることは大きな力と励ましになります。もし競走した人々が少なく、現在競走している人が少ないと寂しくなるでしょう。それだけではなく自分が走っているこの道が正しい道であるかどうか確信を持つことができないでしょう。しかし私たちには雲のような信仰の証人たちがいるので決して寂しくありません。確信を持って最後まで走り続けることができます。
それでは私たちが信仰の先祖達のように立派な信仰の競走者となるためには、どんな姿勢をもって競走しなければなりませんか。
第一に、いっさいの重荷を捨てなければなりません(1b)。マラソン選手が私みたいにせびろを着てネクタイを締めてそれに靴をはいってカバンを持って走ることを見たことがありますか。マラソン選手はできるだけすべてのものを捨ててただパンツとランニングだけを着て走ります。最近は運動パンツもだんだん短くなりました。髪の毛も短くする選手もいます。また、マラソン選手は食べ物を節制しなければなりません。食べ過ぎて太った人は走りにくくなるからです。このように信仰の競走をする時、いっさいの重荷を捨てなければなりません。それではいっさいの重荷を捨てることは信仰生活においてどんな意味があるでしょうか。「いっさいの重荷」を現代訳聖書では「すべて邪魔になるもの」と訳しています。ですから信仰生活に邪魔になるものを捨てることを意味します。ユダヤ人にとって律法と律法的な考え方が重荷になりました。このような生活は何か熱心にして良い結果が得られたら自己義が生じて高慢になり、思うとおりにならない場合には劣等感が生じます。私たちもこのような重荷を負って信仰生活をしやすいです。ですからこのような律法的な考え方を捨てて恵みの世界に入らなければなりません。また、私たちの信仰生活に邪魔になるものは何があるでしょうか。ある方はテレビを見るのが好きです。それで一度見たら夜遅くまで何時間も見てしまいます。それで朝寝坊して夜明けの祈りができません。このような方にとってテレビは邪魔になるものです。ニューヨークのやくざの親分だったダビデウィルカスンは一日2時間テレビを見る代わりに祈ることを決心して偉大な愛の使徒となりました。私たちも一日二時間テレビを見ていた人は新年には代わりに祈ることを決心しましょう。
第二に、まつわりつく罪を捨てなければなりません。罪は信仰の競走をするのになかなか離れないでしつこく邪魔するものです。特に私たちにはまつわりつく罪があります。モーセは偉大な人でした。しかし彼にも弱点がありました。彼は少し気が短い人でした。荒野で民が水がないからといってつぶやいた時、神様はモーセに岩を杖で打つように言われました。その時、モーセは一度だけ打ってもいいのに怒っていて二度も打ちました。もう一回打ったのは民の頭を打つことができないから代わりに打ったようです。結局彼はその出来事のゆえにカナンの地に入ることができませんでした。偉大な主のしもべダビデにも情欲という弱点がありました。このように人々にはまつわりつく罪の問題があります。このような罪は私たちの考えと生活を縛るので私たちを無気力にします。神様の愛に対する不信、兄弟に対するねたみや憎しみ、情欲、貪欲などの罪に縛られているとよく走ることができません。罪の重荷は一番重荷です。ですから信仰の競走をよくするためにはこのような罪を捨てなければなりません。捨てるとは悔い改めて決断してその罪から離れることです。私たちが信仰生活に邪魔になるいっさいの重荷と罪をイエス・キリストの十字架の前に降ろして真実に悔い改める時、重荷が消え去り、罪が赦されます。その時には喜びと感謝の心で満たされ、力強く走り続けることができます。
第三に、忍耐が必要です。「私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」信仰の競走は短距離ではなく一生走り続ける長距離競走です。マラソンには忍耐が必要です。いくら最初はよく走っても途中諦めると賞をもらうことができません。私も学校の運動会の時、短距離マラソンに出た時がありました。途中とてもつらくて諦めたい時がありました。しかし、応援する人々がいること、一緒に走る人々がいることを見て最後まで走り終え、四番目に入って商品をもらいました。一般的にマラソンの競走では30ー35キロのところが一番難しいところだそうです。その時はそれ以上走ると心臓が破裂して死んでしまうのではないかと思われるそうです。その時には賞も諦めてすぐ座りたくなるそうです。しかし、その時をよく克服するとそれからは走りやすくなるそうです。
同じく信仰の競走の時にも上り坂があります。私たちがクリスチャンだということで友達や家族から反対されたり、疎外される時があります。また、自分の負うべき十字架が重く感じられる時もあります。愛する1:1兄弟が離れていく時はとてもつらくてそれ以上走る力がなくなってしまう時もあります。世の誘惑に負けてしまい、自分はもうだめだと思い、座り込んでいるときもあります。しかし難しいからといって途中諦めると何もなりません。上り坂を越えると下り坂があるのです。ですからその時こそ忍耐して走り続けるともっと深い信仰の世界に入ることができます。忍耐は私たちの魂の救いに関連する大切ことです。イエス様もルカ21:19で「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」と言われました。
第四に、イエス様を仰ぎ見なければなりません。2a節をご覧下さい。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」競走の時に目標を目指して走ることは大切なことです。目標を失ってしまうと迷うようになります。信仰の競走において目標はイエス様です。イエス様は私たちの信仰生活の目標であり、目的です。使徒パウロはこのイエス様を得るために自分にとって得であったものをちりあくたと思い、ひたすらイエス様だけを目指して走り続けました(ピリピ3:7、8)。そして、次のように言いました。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(テモテ第二4:7、8)。
私たちは時々イエス様から目を離してこの世を見る時があります。私たちがこの世をあるがまま見ると恐れるようになります。険しいこの世でどうやって信仰生活を続けることができるだろうか、信仰によって生きると仲間外れになるのではないか、などの心配と恐れが生じます。また、周りの友達や家族から厳しく言われると力がなくなります。しかしイエス様を仰ぎ見るとき私たちはすべての問題から解放されて恵みと感謝と喜びに満たされます。ですから私たちはイエス様から目を離してはなりません。イエス様から目を離さないことがすべての問題を解決する鍵であり、勝利の人生を過ごせる秘訣です。
それではイエス様から目を離さないでいることはどのようにすることでしょうか。それはイエス様を心の中心に迎え入れ、すべてのことをイエス様中心に考えることです。喜ぶ時にもイエス様のことを考え、悲しむ時にもイエス様を考えることです。祝福の時にも苦難の時にもイエス様を考えることです。成功した時にも失敗した時にもイエス様を考えることです。何をするにもイエス様を考え、イエス様を見習うことです。
それでは私たちが目を離さないでいるべきイエス様はどんな方ですか。イエス様は信仰の創始者であり、完成者です。私たちの信仰はイエス様から出発し、イエス様によって完成されます。イエス様を離れては私たちの信仰は存在できません。イエス様は私たちより先に信仰の競走をなさったので私たちはイエス様の足跡に従えばいいです。
イエス様は苦難を受けることにおいても私たちの模範となられました。2b節をご覧下さい。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」イエス様は十字架を忍ばれました。十字架は羞恥と蔑視と苦しみと呪いの象徴です。私たちは人々から無視されたり、自尊心が傷ついたりすると耐え難くなります。しかし、イエス様は私たちの罪のためにはずかしめをものともせずに十字架を忍ばれました。イエス様は肉体の苦しみだけではなくすべての人々、甚だしくは神様からも見捨てられる苦しみを受けられました。イエス様はその苦しみがあまりにも大きくて十字架の上で叫ばれました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)。イエス様は十字架の苦しみとはずかしめと蔑視をすべて耐え忍ばれました。また、イエス様はご自分を十字架につける人々を忍ばれ、彼らのために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)。このイエス様を仰ぎ見るとき、私たちはすべての問題が解決されます。このイエス様を仰ぎ見る時、すべての苦しみが消え去ります。
イエス様が十字架を忍ばれたのはご自分の前に置かれた喜びのゆえです。イエス様は十字架の後に来る復活の栄光をご覧になりました。イエス様は復活の信仰によって十字架の苦しみを耐え忍ばれました。イエス様は十字架につけられ死なれ、よみがえられました。そして、神の御座の右に着座され、この世を治める王の王、主の主となられました。私たちも復活の信仰がある時、十字架を忍ぶことができます。
3節をご覧下さい。私たちは信仰生活をする間、元気を失い、疲れ果ててしまう時があります。1:1兄弟姉妹達が言うことを聞かず、自分勝手な道を歩む時にいつまで我慢しなければならないかと思うと、元気がなくなります。疲れ果てて何もしたくありません。牧者の辞表を出したくなります。私たちがこのように元気を失い、疲れ果ててしまわないためには、どんなイエス様を考えなければならないのですか。3節をご覧下さい。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」イエス様が私のような罪人をどんなに忍ばれたかを考えなければなりません。イエス様がどれほど私の高慢、情欲、不従順、反抗を忍ばれたかを考える時に私たちは新しい力を受けます。私たちは今年一年間も熱心に走って来ました。その中には記録がいい人も、記録があまりよくない人もいるでしょう。私たちが新年には後ろのことを忘れてイエス・キリストを目指して走ることができるように祈ります。私たちが走り終えた時に、主は私たちにいのちの冠、義の冠をかぶらせてくださいます。
二、神様の訓練(4ー13)
著者は続けてクリスチャンが受ける苦しみの意味は何であり、また苦しみを受ける時、どんな姿勢を持たなければならないのかを教えています。4節をご覧下さい。「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」彼らは罪と戦っていましたが、疲れ果てて落胆している状態でした。それで彼らは現実と妥協して生活したい心が生じました。このような彼らには慰めと同情する言葉が必要だと思われます。しかし、著者は血を流すまで戦うように勧めています。私たちの戦いはイエス・キリストによって勝利が保証された戦いです。
5節から出てくる懲らしめは、訓練あるいは教育の意味が強いです。この懲らしめは神様が子供たちの霊的な成長のために与える訓練です。私たちが信仰によって生きるのになぜ苦難がありますか。なぜ迫害や病気や失敗がありますか。それは神様がその愛する子供に与える訓練なのです。5、6節をご覧下さい。「そして、あなたがたに向かって子供に対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」」
過去私たちはサタンの奴隷でしたがイエス・キリストの十字架の贖いによってサタンから解放され神様の子供となりました。ところが、身分は変わりましたが、内面は神様の子供らしくありません。奴隷の根性が残っているのです。それで私たちには神様の訓練が必要です。まるでイスラエル人がエジプトの奴隷から解放され自由人になりましたが、内面は以前とあまり変わらない奴隷の状態であったことと同じです。彼らは肉的で、感情的で、何の役にも立たない人々でした。神様はこのような彼らを荒野に導き、40年間訓練されました。荒野には食べ物も飲み水も家も畑もありませんでした。ですから彼らはひたすら神様に頼らなければ飢え死にするしかありませんでした。神様はこの荒野で毎朝早く日毎の糧を集める訓練、安息日を絶対的に守ることによって神様を恐れ敬う訓練、感情と肉欲に従わず、神様の御言葉に従う訓練をさせました。このような訓練はイスラエル人に対する神様の大きな愛の表現でした。もし訓練がなけらば私生児です。私生児は本当の自分の子供ではないので自分勝手にするようにします。しかしほんとうの子供は愛するから心を痛めながらも訓練します。ですから私たちは訓練を受ける時、神様につぶやいたり、神様の愛を疑ったりしてはなりません。むしろ訓練を受ける時、神様の深い愛に感謝しなければなりません。
それでは神様の訓練の目的は何でしょうか。10節をご覧下さい。「なぜなら、肉の父親は、短い時間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」著者は肉の父親と霊の父親とを対照して説明しています。当時ローマは父親が家族に対して絶対的な力を持っていました。父親は子供を懲らしめるだけではなく奴隷として売ったり、死刑させる権利も持っていました。肉の父親は子供の訓練官でした。ところが肉の父親はいくら子供のためだとしても自分の心が介入されています。肉の父親は不完全で、子供の人生の全体を見ることができません。肉の父は子供のことを考えますが、自分が良いと思うままに懲らしめます。また、いくらよい訓練をする父親だとしても肉体と精神の訓練はできますが、罪によって病んでいる内面を訓練することができません。しかし、霊の父親は私たちの人生全体をご覧になって完璧な計画の中で私たちの益のため、訓練されます。霊の父である神様は罪によって病んでいる内面を癒し、神様の聖さにあずからせうとして、私たちを懲らしめるのです。使徒ペテロは神様の品性を信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛に表現しました(ペテロ第二1:5ー7)。神様は私たちが神様の子供らしくこのような品性を持つことを願っておられます。しかし、私たちの内面はそうではありません。自己中心的で、利己的で、肉的で、一人も愛せない狭い心を持っているので神様はそのまま用いることができません。それで神様は訓練を通して私たちに神様の品性を持つようにしてくださるのです。
それでは私たちが神様の訓練を受ける時、どんな姿勢を持たなければなりませんか。
第一に、懲らしめを軽んじたり、弱り果ててはなりません(5)。訓練を受ける時、私たちが警戒しなければならない二つのことは訓練を軽んじたり、弱り果てることです。ある人は訓練を受ける時、それを真剣に受け入れようとしません。そのような人はいくら訓練させてもその内面は少しの変化も成長もありません。箴言12:1には叱責を憎む者はまぬけ者だと言っています。また、ある人は訓練を受けると、絶望して弱り果ててしまいます。
私たちは訓練を受けるときに、神様から与えられるものとして受け入れるべきです。人々は大抵懲らしめを受ける時、それは神様からの訓練として受け入れず、偶然の出来事として思います。私たちがどんな訓練でも神様が人を通して、あるいは事件を通して与える神様の訓練として受け入れなければなりません。その時、私たちは神様の御前で訓練を受けることができます。サムエル記第二16:8ー12節を見るとダビデが愛する息子アブシャロムの背信によって逃げていたとき、シムイが呪いました。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。」すると、アビシャイがダビデに言いました。「この死に犬めが、王様をのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」その時、ダビデは言いました。「彼がのろうのは、主が彼に、「ダビデをのろえ。」と言われたからだ。だれが彼に「おまえはどうしてこういうことをするのだ。」と言えようか。」ダビデはシムイののろいを神様の訓練として受け入れました。その時、彼は神様の御心にかなった人として成長することができました。
第二に、神様の愛を確信しなければなりません(6)。神様は私たちを憎んで訓練するのではありません。私たちを愛しておられるから訓練するのです。その神様の愛を確信する時、私たちは訓練を心から受け入れることができます。そしてその訓練の意味を悟り、成長することができます。
第三に、神様に服従する姿勢を持つべきです。9節をご覧下さい。「さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。」訓練を受ける時、反発したり、不従順したりする人は成長しません。人々は訓練を受ける時、素直に従う人はどこか少し足りない人のように思い、反発する人は賢い人のように思います。それでわざと反発する人もいます。しかし、従う人が謙遜に訓練を受け、成長することができます。
11節をご覧下さい。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」どんな懲らしめでも受けるその時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものです。他の人が懲らしめを受けていることを見るとおもしろく見えても自分が懲らしめを受けると悲しくなります。しかし、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実が結ばれます。
結論的に、訓練なしに立派な兵士になることはできません。訓練なしに神様に用いられる人として成長することができません。私たちが神様が与える訓練を信仰によって受けて平安な義の実を結ぶことができるように祈ります。来年も信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さないで信仰の競走をすることができるように祈ります。