2012年ルカの福音書第5講
あなたは人間をとるようになる
御言葉:ルカの福音書5:1-11
要 節:ルカの福音書5:10bイエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
先週、私たちはイエス様がイザヤの預言の通りに「貧しい人々に福音を伝え、主の恵みの年」を告げ知らせるメシヤであられることを学びました。実際に4章の後半部を見ると、イエス様はメシヤとして悪霊を追い出し、病人を癒されました。そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられました。
今日の御言葉はイエス様が漁師であるシモン・ペテロを人間をとる漁師として召された出来事です。シモンにとってみれば、イエス様に出会い、その後の人生が決定的に変わる人生の節目、再出発点となりました。ここで、私たちはイエス・キリストに出会う、御言葉に従うという人に起こることを学ぶことができます。そして、このような出来事は今日の私たちも起こることです。ではペテロにどのようなことが起こったでしょうか。
1,2節をご覧ください。群衆がイエス様に押し迫るようにして神のことばを聞いていました人々は御言葉を聞くためにできるだけ前に座ろうとしてイエス様に押し迫るようにしていたのです。すばらしい光景です。彼らにとって一番前は金の席、次は銀の席でした。一番前に座ろうとする人々が押し迫るのでイエス様は舟に乗り陸から少し離れようとされました。それほど熱心に御言葉を聞こうとしていたのです。ところが、この群衆とは違って自分の仕事の手を止めない人たちもいました。彼らは舟から降りて網を洗っていました。イエス様は彼らのうち、シモンに頼んでおられます。
3節をご覧ください。「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。」とあります。そしてイエス様はすわって、舟から群衆を教えられました。シモンは誰よりもイエス様の近くにいてイエス様のお話を聞くことができました。金銀の席ではなくダイアモンドの席で御言葉を聞くことができたのです。話し終わったイエス様はシモンに驚くべきことを命じられます。
4節をご一緒に読んでみましょう。「話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。」これは、常識に反することでした。私は漁師ではありませんが、漁師の子どもとして育ちました。父を見ると昼は農業、夜は魚を取る漁師の仕事をしていました。だから言えることですが、漁をするのに最も適しているのは夜なんです。そこで、シモンは口を開きます。
5aをご覧ください。「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」とあります。何もとれませんでした。これは、得られる手応えが何もなかったということです。せめて、一匹でもとれたならば、網にほんの少しでも手応えがあったでしょう。しかし、この夜は何度も網を降ろして引き揚げ、降ろしては引き揚げ、繰り返しても何もとれませんでした。自分の漁師としての経験や、知識を尽くしても報われませんでした。その時の気持ちはどうだったでしょうか。
皆さんも経験しているでしょう。夜通し働くと、それだけでも大変です。働いた成果があっても疲れるでしょう。私もたまに徹夜する時がありますが、夜通し書き込んだメッセージが何かの問題でコンピュータから消えた時は本当に疲れてしまいました。このように力がなくなると、何もかもめんどくさくなります。ところが、そのような時にシモンはどうしましたか。
もう一度5節をご覧ください。「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網を降ろしてみましょう。」とあります。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」と言っています。彼は従うことができない現実を知っていました。事実、夜通し働きましたから体も疲れていました。それでもイエス様のおことばどおり、従いました。魚がたくさん見えたから主の御言葉に従ったのではありません。何か兆しが見えたから御言葉に頼ったことでもありません。彼自身が考えても再び網を降ろしてみる必要がありませんでした。でも、おことばどおりに従いました。自分の常識では理解できませんでした。でも御言葉通り、網を降ろしてみることにしました。すると、どうなりましたか。
6,7節をご覧ください。「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。」とあります。ペテロが御言葉通りにして網を降ろすと、瞬間的に網の中に魚がいっぱいになりました。網は破れそうになりました。おびただしい魚のために、網を引き上げることができないほどでした。ペテロは急いで友達を呼びました。「オイ。ヤコブさん!ここに来てよ。ヨハネさん!助けてください・・・」。彼らはやって来て助けてくれました。一緒に協力して漁をすると、あっという間に魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになりました。大漁になったのです。これは今まで経験したことがない奇跡です。一隻の舟だけでもいっぱいになると、それは奇跡でしょう。今まで私の人生の中で聖書のこの箇所以外にたくさんの魚のために舟が沈みそうになったことは聞いたことも読んだこともありません。ところが二そうとも沈みそうになったのです。
おそらくシモンにとって忘れることはできなかったでしょう。それは、主イエス様に本当に出会った手応えでもありました。ここで、初めてシモン・ペテロは本質的にイエス・キリストに出会います。
8節をご覧ください。「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言った。」とあります。ペテロはここでイエス様を「主よ」と呼んでいます。これまでシモンは、主イエスを「先生」と呼んでいました。しかし、今や呼び方が変わっています。これまで考えていたのは、素晴らしいお話をしていた宗教の先生でした。しかし、「先生!」ということでは済まされなくなったのです。確かに、今までのイエス様は良い話をし、悪霊を追い出し、病人を癒されるお方でした。しかし、それだけでありませんでした。イエス様は海の中の魚も動かす創造主でした。自分が御言葉通りに従った時、奇跡を体験しました。そこでイエス様こそ私の主ですと告白せざるを得なくなりました。従わなければならない主人となったのです。それと同時に、その主に従うことができない自分の姿をも知りました。なぜなら、自分の本当の姿が、この主にふさわしくなかったからです。自分の本当の姿、それは、聖なる主イエス様の前に罪深く汚れた姿でした。そこで、彼は「私は罪深い人間です]と言っています。この言葉は、自分に罪が少しあるとか、多くあるとか、ということではありません。これ、これの罪があるとか、ないということでもありません。自分が罪の人間、罪ある存在、ということです。自分もいい部分があるけれども悪い部分もあるということでもありません。自分の存在そのものが罪なのです。彼は聖なる存在の前に、自分の存在の根源にある罪がはっきりと示されました。すると、罪深い者が、聖なる方に近づくということは耐えられなくなりました。そこで彼は恐れを抱いて、ひれ伏しつつ、自分から離れてくださいと頼んだのです。このようなペテロの状態をご存知のイエス様はご自分の足もとにひれ伏すシモンに自ら近づかれるように語られます。
10節をご一緒に読んでみましょう。「シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」イエス様はまず「こわがらなくてもよい。」と語ってくださいました。それをペテロへの罪の赦しを宣言されたことです。シモンは、創造主であられるイエス様を体験し、イエス様に出会うことによって、自分の罪ある存在が明らかにされました。しかし、その罪は取り除かれたのです。
考えてみますと、私たちの抱く不安や恐れ、そして空しさというのは結局この罪に基づいております。だから、私たちは死を迎える時に、結局空しく終わるのではないかと不安に陥ります。そこから、生きることにも不安を覚えます。このさき生きていても、意味が見出せなくなる。それは、罪に基づく根本的な恐れです。このように死ぬことにも、そして生きることにもこわがっている人に対して、主イエスは「こわがらなくてもよい」と語りかけておられます。それから、罪を赦していただいた者にこれからの方向を提示してくださいます。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」イエス様はペテロが人間をとるようになるのです。イエス様は「なってくれないか」と頼まれませんでした。「人間をとる漁師になりなさい」と命じるのでもありませんでした。イエス様は、「あなたは人間をとるようになるのです。」と宣言されたのです。このようにおっしやったからには、そのように「なる]しかありません。ペテロはそのように変えられるのです。事実は、ペテロは人間をとる漁師になりました。人間をとる漁師になって網を降ろして引き揚げると一度に三千人が救われる時もありました。彼を通してタイタニックの舟に乗せても沈みそうになるほどの人々が救われて行ったのです。
以上では私たちは大切な教訓を学ぶことができます。
第一に、私たちが夜通し働いた仕事に絶望し、疲れているその時にもイエス様が近くにおられるということです。ペテロたちが夜通し働いても何もとれなかった時、どんな絶望したでしょうか。どんなに疲れていたでしょうか。舟から降りて網を洗っている彼らの心、彼らの顔はどうなっていたでしょうか。近くの岸辺に群衆がイエス様に押し迫るようにしていても関心を持つことができませんでした。湖の岸辺にイエス様は立っておられましたが見えませんでした。一刻早く網を洗っておいて家に帰りたかったでしょう。でも、イエス様は近くにおられたのです。そして、さらにペテロのところに近づかれ、彼の舟に座られました。そうです。私たちの主イエス様はいつも私たちの近くにおられます。詩篇73:28aを見ると「しかし私にとっては、神の近くにいることが、幸せなのです。」とあります。絶望し、疲れると、何もかもめんどくさくなります。しかし、その時も主が近くにおられることに気付かなければなりません。神様が私たちの近くにおられるから主の存在を認め、主と交わるのです。すると、人は本当の平安を味わうことができます。なぜなら、神は、愛だからです。愛なる神と交わって生きる者の全き平安、そこには、つぶやきのない喜びで満ち溢れた本当の自由があります。
第二に、主の御言葉に聞き従う者のビジネスを祝福してくださるということです。イエス様は福音を告げ知らせ、悪霊を追い出し、病人を癒すことだけではなく、ペテロのビジネスも祝福してくださいました。二そうの舟がいっぱいになって沈みそうになるほどに祝福してくださいました。イエス様のおことばに聞き従うことによって今まで自分が経験したことがない奇跡を体験し、神様の存在が分かりました。ヨハネの8:47を見ると「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」とあります。神様から出た者は神様の御言葉に聞き従うのです。皆さんが教会に来ているのは神様から出たからです。そして神様の御言葉に聞き従う者に神様の祝福が注がれます。イザヤ44:3,4節に「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。」とあります。
私たちは、潤いのない地、かわいた地のような者かも知れません。特に、押し迫るようにして御言葉を聞いていた群衆とは違って網を洗っていたペテロたちに自分の仕事だけをやっていると、生活に潤いがないでしょう。しかし、そのような状況の中でもすぐ近くにおられるイエス様を信じて御言葉に聞き従うなら、神様は水を注ぎ、次には流れを与えてくださいます。私たちの中の不足しているところを神様が聖霊の働きによって潤してくださるのです。それで私たちは、「流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。」のです。私たちを取り巻く状況がどんなに渇ききった砂漠のような状態であっても、私たちは水の流れのそばに生える木のように、しかもまっすぐに育つ柳の木のように成長し、満ち足りて生きることができるのです。それは、オアシスの木々が砂漠の中の泉から水をもらうように、私たちは神様から生きるのに必要なものを受け取ることができるからです。夏の太陽が激しく照り付けても、雨が降らなくて地面がどんなに乾いていても、私たちが神様のそばにいる限り、流れのほとりの柳の木のように完全に潤って生きることができるのです。
第三に御言葉に聞き従う者は変えられて人間をとる漁師になるということです。ペテロはイエス様の御言葉に聞き従うことによって神様の存在、自分の存在を知り、人間をとる漁師に変えられました。それは主がご自分の十字架の死によってペテロの弱さを担われ、罪を取り除く神の小羊となられたからです。そして死者の中からよみがえられた主が新しい生き方を与えてくださるからです。そういうわけで、御言葉に聞き従う者は生きるにも、死ぬにも、恐れることはなくなります。
この「人間をとる」とは、生け捕りという意味があるように、いのちに導くことです。私たちに、人をとらえる力はありません。しかし、私たちが福音を告げ知らせるなら、イエス様がシモンをとらえたと同じようにしてくださいます。イエス様が網を洗っているような人々の生活の中に入り、彼らを助けて主の存在を体験させ、とらえるのです。
今、この時代にも、自分とイエス・キリストとは無関係である、そのように思う人が多くいます。彼らは夜通し働いても、満足ある収穫を得ることができず空しい思いを覚えています。ただ、マンネリ化された生活の中で次の仕事の網を洗っているのです。私たちが彼らに行って、恐れることはないとの主イエスのお言葉を伝えるならば、そこにはペテロのように主イエス様のお言葉に従う人がいます。主イエス様を拠り所にする生活に変えられ、すべてを捨てて主イエス様に従う弟子になります。
先週、私は人間をとる漁師であるカトリック宣教師の記事を読みました。私の高校時代の恩師でもあるウォンソンオ(Vincenzo Donati)神父です。この方は18歳の時に日本に宣教師として遣わされました。日本で司祭の勉強をしながら戦後困難な日本の人々のために献身しました。韓国が朝鮮戦争のために困難であることを聞いたら、志願して韓国の宣教師に遣わされました。そして、朝鮮戦争の後に困難な韓国のために20年間献身しました。そして54歳の時、また、アフリカのケナが困難であることを聞いてケナの宣教師になりました。そして、スーダンが内戦のためにもっと困難であることを聞いてからスーダンの宣教師になることを志願し、遣わされました。遣わされた国々では教育を通してキリストの福音を伝えています。その活動を通して世界中の海で人間をとったと言えるでしょうか、この方を数多くの人々に福音が伝えられ、神様のしもべにもなりました。84歳になった今年、かつて教えていた私の母校の同窓会に招待されたのですが、スーダンに100個の学校を設立する夢を持っておられました。私はかの方を通してひとりの人が人間をとる漁師になる時、本当に多くの人々に福音を伝え、良い影響を及ぼして行くことを見ました。もちろん、人間をとる漁師の人生は簡単ではありません。オォン神父は自分の人生を顧みると、本当に幸せな人生を生きてきましたが苦難がなかったわけではありませんと言いました。でも、教育によって福音を伝え、福音によって教育してきた自分の人生は本当に祝福された人生だとおっしゃっていました。本当に、何をしても自分の仕事をしながら人間をとる人生を生きることは幸せな人生になります。大いなる神様の恵みを体験し、人々を永遠のいのちへ導くことになるからです。私たちにキリストの福音を知らせ、私たちを召して人間をとる漁師にしてくださる主の恵みを賛美します。これからもイエス様に深く出会い、霊的な深い海の中で霊的世界を深く体験しながら人間をとる漁師として生きることができるように祈ります。