2015年 02月 16日 (月)
私の目は神様に向かって
Ⅰ.あなたがたはみな(1-16)
ヨブの友だちは、ヨブを苦しめる煩わしい慰め手でした。彼らは、ヨブのために行なっているふりをしていましたが、実際には罪に定めてばかりいたので、ヨブに大きな傷だけを与えました。ヨブは、肉体の苦痛よりも、友だちの言葉に、ひどく苦しみました。ところがヨブは、この全てのものが神様からきたことを、知りました。彼は、主が自分を苦しめ、悩ませることを知りました。「神は私を小僧っ子に渡し、悪者の手に投げ込まれる。」(11)。たとえ、彼は苦しみの原因が何であるのかを、詳しく知らなくても、この全てのことが神様の主権の中で行なわれていることを知っていました。
Ⅱ.私の目は(17-22)
ヨブは、自分が潔白であることを、友だちからではなく、神様から認められようとしました。彼は今、友だちに向けていた目を、神様に向けました。「私の友は私をあざけります。しかし、私の目は主に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。」(20,21)。「とりなしをする」とは、「弁護する」という意味です。神様が自分の証人となられ、無罪であると示してくださることを、求めています。いくら親しい友だちであっても、自分を理解できず、罪に定めるしかありません。しかし、主だけは、私の悔しい思いを知っておられ、弁護してくださいます。それで私たちは、友だちにあざけられても、神様に向かって涙を流し、とりなしをしてくださるように、祈らなければなりません。
祈り:主よ!私が、友だちが自分に何と言っても、神様に目を向け、神様のとりなしを慕い求めることができるように、助けてください。
一言:私の目は神様に向け
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