2015年 10月 05日 (月)
主は私の羊飼い
羊は目が暗く、あまり遠くを見ることができず、臆病です。猛獣から身を守る力がありませんが、頑固です。羊は、羊飼いの助けが、全体的に必要な動物です。詩人は、自分を羊に、主は羊飼いだと告白しました。羊飼いである神様は、何をされるのでしょうか。豊かに食べさせることです。休みと平安をくださいます(2)。罪の誘惑が多い世の中で、義の道に導かれます。疲れたたましいを生き返らせます。その方は、いつも私と共に、おられます。主が私と共におられる限り、死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れません。その方が、私を徹底的に守ってくださるからです。その方は、敵に打ち勝たせ、敵の目の前で、私を高くします。満ちあふれる祝福を見せてくださいます。私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来ます。私のいのちの日の限り、私がどこに行っても、どんな状況の中にいても、主のいつくしみと恵みが、私を追って来ます。私から離れず、私を放置しません。いつでも、主の慈しみ(好意、恵み)が、私から離れて行きません。私たちの人生には、いつも苦しみがあります。敵の攻撃が絶えません。死の深い、影の、暗い谷で、長い時間を過ごさなければならない時もあります。道に迷い、どこに行ったら良いのか、分からない時もあります。自分が一人ぼっちであるかのように、寂しく、恐れる時もあります。人々は、お金や権力や人を羊飼いにして、頼ろうとします。しかし、人が、自分の人生の完全な羊飼いになることはできません。神様だけが、私の羊飼いになれます。私たちは、神様が私の牧者である祝福を受けました。神様が私と共におられます。私を導き、守り、育て、追い掛けてきます。主は完全な羊飼いです。主が私たちの羊飼いなので、私には、乏しいことがありません。この詩は、ダビデの晩年に、自分の人生を顧みながら、作った詩として、知られています。主を羊飼いとして立てた彼の人生を顧みながら、「乏しいことがない。」「私の杯はあふれています。」と告白しました。ダビデのように、羊飼いである神様が、今まで、私を守ってくださいました。その方は、私のいのちの日の限り、共におられます。
祈り:誰が、私の羊飼いなのか。
一言:神様
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