聖書別日ごとの糧   >>   詩篇[2022]

2022年 08月 26日 (金)

詩篇119:1-16(14)
私はあなたのさとしの道を楽しんでいます

 主のみおしえに歩み、心を尽くして主を求める人々は幸いです。どうしてでしょうか。みおしえに従うと、不正を行わず、恥じることがないからです。世の中には、私たちの道を汚す多くの誘惑や考え、思想があります。特に活発な若い人たちには、刺激的な誘惑が多く、若者はそれらに弱いです。何が正しいのか見分けが難しいような、紛らわしいものも多いです。たやすく誘惑に落ち、自分の道を汚し、不正を行います。愚かな道を歩んで不正を行い、汚れ、苦しみ、ため息をつく若者が多くいます。みおしえは義と不正が何であり、何が聖で何が俗なのかを悟らせます。仰せは、全と正しさを行い、清く保つことができる力をくださいます。みことばに従うと、若い人は汚れがはびこる世の中で、自分の道を清く保つことができます。善を行うと主が祝福して下さいます。清く保つとき、恥じることがなく、力強く歩むことができます。多元主義や人本主義、世俗主義が大半を占める時代にあって、主のみおしえに歩み、心を尽くして主を求める人々は幸いな人々です。

詩人が若い人であった可能性があります(9)。人にとって主の仰せがどれほど必要なのか、特に若い人にとって主のみことばがどれほど必要なのか、彼はわかっていたのでしょう。主のおきてを守れるように彼は主に願います。彼の心は主のみことばに頼っています。積極的に主のおきてを唇で語ります。おそらく人々に主のおきてを教え、証ししてきたのでしょう。主のさとしの道をどんな宝よりも楽しんでいます。宝を尊く思うように、主のみことばを尊く思い、宝を得るために努力するように、みことばの意味を知ることに注力し、みことばの楽しさのゆえに、幸いと喜びがありました。彼は幸いな者でした。



適用:私の心に何を置いていますか

一言:みことばを私の心に



2022年 08月 27日 (土)

詩篇119:17-40(24)
あなたのさとしこそ、私の喜び、私の助言者

 詩人は大変困難な中にいます。地では旅人だと告白します。旅人であるとは、慣れることなく、大変困難な状況、周りの人からの温かさや励ましを受けるどころか、そしりと蔑みを受けている状況です(22)。権力のある高官たちも彼を誹謗します。詩人のたましいは、悲しみのために溶け去るほどです(28)。数多くの困難に耐えきれない日があり、絶望と恐れで死ぬほどの苦しみの中にいます(25)。このような状況に置かれたら普通はどうなるでしょうか。神様を恨み、不満をぶつけやすいものです。妥協して不正を行いやすいです。神様と御言葉に頼って生きることが馬鹿らしくなり、離れてしまう人もいるでしょう。

 詩人はこのような時にも、主のみことばに頼ります。主のみことばを黙想し、掴みます。「私の目を開いてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに(18)」「あなたの仰せを私に隠さないでください(19)」このように祈ります。主の仰せから、苦しみの中にある神様の奇しさを、苦しみを乗り越える知恵を求めます。「あなたのさとしこそ、私の喜び、私の助言者です(24)」。苦難の中でも詩人は主のさとしを黙想し、喜びとします。主のみことばを助言者、師とします。悲しみのために溶け去った彼のたましいを強め、生かしたのは主のみことばだからです(25,28)。主のさとしにすがるなら、恥を見ることはないと信じているからです(31)。

 詩人は苦しみの中ですが、主のおきてを終わりまで守ろうとします。また、自分の心をみおしえに向かうように願います。心が主のさとしに傾かなくなると、不正な利得に心は傾き、目は虚しいものを見ることを知っているからです。いつも主のみことばを心において、喜びがあれば、むなしいものや欲を追わなくても済むからです。



適用:主のみことばを喜びとし、助言を聞いていますか

一言:いつもみことばをそばに



2022年 08月 28日 (日)

詩篇119:41-64(56)
私があなたの戒めを守っているからです

 詩人はみことばとおりに、主の恵みがもたらされるように祈ります。「神様はどこにいるのか」「神様を信じても仕方ない」と誹謗する者たちに言い返すことができるようにです。主のさとしを王たちの前で述べ、広やかなところに歩こうとします(45,46)。詩人は神様とみことばを愛しています。私を通して神様を知ることになるように、神様のみことばが真理であることが伝わるように、主の恵みと救いを詩人のように求めてゆきましょう。

 詩人は主の仰せを喜び、愛します。いつも思い巡らし、黙想し、暗唱し、心に留めます。これは主のみことばが悩みの中で、彼の希望と慰めになったからです。客観的にどう見ても歌も歌えない中でも、主のおきてが歌となりました。真っ暗な絶望の中にあっても、主のみことばを待ち望むようになり、慰めとなりました。みことばは彼を生かしました。そして詩人はこう告白します。「これこそ 私のもの。私があなたの戒めを守っているからです。」(56)主の戒めを喜び、守ってきたのが彼のすべてであり、自慢でもあり、人生そのものであり、自分に残された財産だと告白します。どれほどみことばを愛していて、みことばにあって生きてきたのかが分かります。わたしはどれくらい主のみことばを愛し、喜びとしているでしょうか。心から主のみことばを愛し、みことばを聞こうとするなら、みことばは私の望みとなり、慰めであり、歌になるのです。

 詩人が主のみことばを思い巡らし、黙想するのは知識を蓄えるためではありません。主のみことばに従うためでした。彼は、自分の道を顧みて、主のさとしの方へ足の向きを変えました。主のみことばの助言を無視して、決断を遅らせたり、適当な妥協をしたり、間違いを正当化しませんでした。主の仰せ守ることを、遅らせることなく迅速にしました。私たちもみことばを知ることで終わるのではなく、従いとおす歩み方を取るべきではないでしょうか。



適用:私の一番大切な所有は何ですか

一言:みことばがわたしのすべて



2022年 08月 29日 (月)

詩篇119:65-88(71)
苦しみにあったことは幸せでした

 高ぶる者は、詩人を偽りで塗り固め(69)、偽りで曲げ(78)、穴を掘り(85)、偽りで迫害しました(86)。このような中では落ち着いていられないでしょう。「どうして私は辛い思いをして生きなければいけないのか」ため息が出るでしょう。しかし詩人は「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。」と言います(71)。わけもなく苦しみに会うことは、損ではないですか。詩人が幸せと言うのはどうしてでしょうか。苦しみに会う前は迷い出ていたと言います(67)。苦しみがなければ考えが幼く、人の痛みを感じることもできません。自分思いや考えに従いやすいでしょう。心から神様を求めもしないでしょう。しかし、詩人は苦しみによって、主のみことばを守る人になりました。特に苦しみによって、悟ったことは、神様はみことば通りに約束を成し、良くしてくださり、良いものを与えてくださった事実です(65,66,68)。だからかれは主の仰せを信じ、高ぶる者が責めても、心を尽くして主の戒めを守り、主のみおしえを喜ぶ人になりました(66,69,70)。苦しみによって、主のおきてを学びました。このように実生活の中で学び、体験した主のみおしえは、幾千もの金銀に勝ります(72)。だから、詩人は苦しみにあったことは幸せだと告白しているのです。

 信仰の人に苦しみは幸せです。苦しみのそれ自体は人を悲しませます。不当な苦しみは更に傷つくものです。しかし、私たちは苦しみによって、私を助けてくださる主、良くしてくださる主、良いものを与えてくださる主を体験します。苦しみの中で、主のみことばを愛するようになり、みことばに対する信仰も強くなります。その時の信仰体験は金銀よりも価値あるものです。これを通して、義と平安の実を結ぶからです。そして苦しみの中でも喜ぶことができます。それは不当な苦しみにあっても感謝できるのです。詩人は次のように告白します。「苦しみにあう前には わたしは迷い出ていました。しかし今は あなたのみことばを守ります。」



適用:苦しみは悲しいことだけだと思っていませんか

一言:苦しみは幸せ



2022年 08月 30日 (火)

詩篇119:89-112(92)
主のみおしえが私の喜び

 「もし あなたのみおしえが私の喜びでなかったら それなら私は 私の苦しみの中で滅んだでしょう。」苦しみの中で慰めてくれるのは何でしょうか。何が光と望みになりますか。主のみことばです。悪者どもは詩人を滅ぼそうと狙っていますが、彼は主の戒めを求めています(94,95)。みことばがなければ滅んでしまうからです。みおしえをどれほど愛しているのか、いつも彼の思いとなっていました(97)。みことばには知恵があるからです(99)。それで、彼はいかなる悪の道にも足を踏み入れず、主の定めから外れませんでした。主のみことばは足のともしび、道の光となりました(105)。みことばが足を照らし、道が光となり、行く道が見えていました。苦しみの道、暗闇のトンネルを、詩人はみことばの教えにより、照らしてくれる道に従い、無事に歩き通せたのです。詩人は次のように告白します。「私は いつもいのちがけです。それでも あなたのみおしえを忘れません」(109)。いのちの危機にあっては、恐れや憎しみのあまり心が張り裂けます。主のみことばがなければ、今頃詩人は苦しみの中で滅んでいたことでしょう。苦しみに疲れ、倒れてしまい、押しつぶされていたことでしょう。しかし、主の戒めが彼の喜びとなりました。ダビデは10年以上もサウルから追われ続けましたが、みことばをいつも思っていました。アブシャロムから逃れたときも、みことばをいつも思っていました。そのみことばは蜜よりも口に甘いものでした(103)。みことばの喜びで詩人は苦しみを担い、勝利しました。それで詩人は、主のさとしを永遠に受け継いだと賛美します(111)。

 私たちにも、時に担い切れないような苦しみが襲ってきます。いのちの危機にさらされることもあります。「主のみおしえが私の喜びでなかったら…」その時こそ主のみことばが唯一の喜びとなります。みことばに知恵があり、みことばがともしびとなり、みことばが道の光となります。蜜よりも甘いみことばをいつも思いながら、苦しみのトンネルを抜け出せるように祈ります。



適用:何を喜びとしていますか

一言:蜜よりも甘いみことば



2022年 08月 31日 (水)

詩篇119:113-136(127)
あなたの仰せを純金よりも愛します

 二心のある人がいます(113)。彼らは苦しみの時、神様と世の中とを二股にかけます。世の中と適当に妥協をして、苦しみを避けようとします。そうしていると、みことばを守らなくなります(116,136)。主のおきてから迷い出て、神様と世の中を欺いて、偽ります(118)。詩人は二心のある人たちを憎みます。彼らのために涙がとめどなく流れ落ちます。詩人は主のおおせを純金よりも愛します(113,127)。主は彼の隠れ場、盾であることを信じ、主のみことばを待ち望みます(114)。神の仰せを守り、主のみことばを支えにして、生きています(115,116)。詩人は自分を守ってくれるように、虐げないようにしてほしいと神様にお願いします(121,122)。恵みを施し、みことばによって歩みを確かにし、どんな不法にも彼を支配させないでほしいと祈りました(133,134)。詩人がこのように祈るのは、身の安全を求めているからではありません。自分だけ生きればいいと考えたからでもありません。主の戒めを守るためです(134)。御顔を主のしもべの上に照り輝かせ、主のおきてを教えてもらうためです(135)。詩人が二心の人を憎んでいるのは、彼が主のおきてを守らないからです。彼らのために涙を流すのも、彼らが主のみおしえを守らないからです(136)。詩人はみことばを愛しています。世の中で、みことばよりも愛する良い物があるでしょうか(127)。人々は苦しみの時、二心を抱き、純金を前にすると二心を持ちますが、詩人はただみことばだけに心を向けています。主のみことばを守り、行うことが彼の願いだったからです。

 私の心は二心でしょうか。ひとつでしょうか。どうして助けてほしいと祈りますか。どうして恵みを請い求めますか。主のみことばを愛して、主のみことばのとおりに生きるためであることを信じます。



適用:どれくらいみことばを愛していますか

一言:純金よりも


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