聖書別日ごとの糧   >>   エゼキエル書[2018]

2018年 10月 20日 (土)

エゼキエル書 19:1-14(12)
憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ

 雌獅子は若い獅子の間で子獅子を養いました。その子獅子は若い獅子となり、獲物を引き裂くことを習い、人を食べました(3)。諸国の民はその獅子のうわさを聞いて、落とし穴で捕らえ、エジプトの地へ引きずって行きました(4)。すると、雌獅子はエジプトに連れ去られた若い獅子の代わりに、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子としました。この若い獅子は人のやもめたちを犯し、町々を廃墟としました。その結果、この若い獅子はバビロンに捕虜として引いて行かれました。ここで雌獅子はダビデ王家を指します。また、最初の若い獅子は、エホアハズ王です。神様は罪を犯したエホアハズ王をエジプトの王パロ・ネコによって裁かれました。エジプトの王パロ・ネコはエホアハズを廃位させてエジプトに連れて行きます。二番目の若い獅子が誰であるかについては論争がありますが、バビロンに連れて行かれたエホヤキン王やゼデキヤ王を指していると言われています。 特にゼデキヤは神様の懲らしめを心から受け入れず、バビロンの王に反逆しました。すると、バビロンの王は彼の目をつぶし、青銅の足かせにつないで、バビロンへ連れて行きました。若い獅子たちの共通点は、人の生命をむやみに考えている点です。神様を恐れず、人の生命を尊重しない者に与えられるのは、神様の裁きだけです。私たちはユダの王たちの死を通して、明らかな警告を受けなければなりません。
 過去、イスラエルは水のほとりに植えられたぶどうの木のようでした。しかし、神様の前で罪を犯し、裁きを受けました。すると、イスラエルは、引き抜かれ、地に投げ捨てられたぶどうの木のように惨めになりました。罪を犯せば、神様の裁きを受けるようになり、惨めになります。だから機会が与えられるときに、悔い改めなければなりません。

適用:人のいのちを尊重しなければどうなりますか

一言:引き抜かれ、投げ捨てられる


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