聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2005]

2005年 04月 08日 (金)

マタイノ福音書5:1-12
幸いな人

 イエス様は山に上り、本当に幸いな人はどんな人であるのか、話してくださいました。
 第一に、心の貧しい者:神様の御前で罪人であることを悟り、謙遜な心を持っている人です。天の御国はその人のものです。
 第二に、悲しむ者:自分の罪と隣人の罪のために悲しむ者です。その人は罪の赦しと神様の慰めを受けるようになります。
 第三に、柔和な者:心が広く、おだやかな人を指します。それで他人に譲り、他人の言葉に耳を傾ける人です。このような人は地を相続し、祝福されるようになります。
 第四に、義に飢え渇いている者:神様の義を切に慕い求め、それを成し遂げようと努力する人です。そのような人は本当の満足と幸福の中で生きるようになるのです。
 第五に、あわれみ深い者:他の人をあわれみに思う人です。その人は神様からあわれみを受けるようになります。
 第六に、心のきよい者:心に偽りと偽善がなく、罪の欲望を捨てる人です。その人は神様を見るようになります。
 第七に、平和をつくる者:人々を和解させる人です。その人は神の子どもと呼ばれるようになります。
 第八に、義のために迫害されている者:神様の義のために苦難を受ける人です。このような人々には天の御国が与えられ、天から受ける報いは大きなものです。

祈り:主よ!それまで世の中の虚しい祝福を求めていたことを悔い改めます。今から天の御国の祝福を所有することができるように祈ります。

一言:幸いな人になろう



2005年 04月 09日 (土)

マタイノ福音書5:13-20
あなたがたは、地の塩であり、世界の光です。

Ⅰ.あなたがたは、地の塩であり、世界の光です(13-16)
 イエス様の弟子たちは地の塩です。塩は自分を溶かし、食物の味を出し、腐敗を防ぎます。イエス様の弟子たちは、イエス様の味を持つ人々として、世の人々に良い影響力を与え、御言葉と祈りで世の腐敗を防ぐ人々です。もしはっきりとした福音信仰を持たなければ、イエス様の弟子たちは世の腐敗を防ぐことはできません。世の中にはイエス様の「塩辛い弟子たち」が必要なのです。またイエス様の弟子たちは世界の光です。光は暗やみを明るくし、隠されたものを明らかにします。イエス様の弟子たちは世界に福音の真理を宣べ伝え、善行を行なうことで、暗い世の中で、果たしてどのように生きるのが正しいのかを悟らせ、世の人々が光の中を歩まむようにします。光で満ちた「山の上にある町」(a city on a hill)は隠れることができず、世に現われ、影響を及ぼすようになるのです(14)。
Ⅱ.律法を成就させたイエス様(17-20)
 人々は、イエス様が安息日にも病いの者を癒し、罪人たちとともに食事をされることなどを見ながら、イエス様が律法や預言者を廃棄するために来られたと思いました。しかしイエス様は律法の中の一点一画でも決してすたれることはなく、全部が成就されると言われます(18)。イエス様は律法や預言者を廃棄するために来られたのではなく、むしろ成就するために来られたのです。それでイエス様の弟子たちは律法学者やパリサイ人たちよりも、さらに正しい者にならなければなりません。

祈り:主よ!足りない者を地の塩と光に立ててくださり感謝します。私が影響力ある「塩辛い弟子」になります。

一言:私は地の塩であり、世界の光です。



2005年 04月 10日 (日)

マタイノ福音書5:21-26
殺人についての新しい戒め

Ⅰ.兄弟に向かって腹を立てたり、馬鹿にしてはなりません(21,22)
 殺人は人を殺すことであり、最も大きな罪です。なぜなら人間の命は神様から来たものであり、人間は神様のかたちを持つ尊い存在であるからです。それでモーセの律法によれば、人を殺す者は必ずさばきを受けるとあります。しかしイエス様は、殺人だけではなく、兄弟に向かって腹を立てる者や、兄弟に向かって「能なし。」「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれると警告されます。兄弟に向かって腹を立てたり、馬鹿にしたりすれば、死よりもさらに傷つけ、その人のたましいを破壊し、破滅に至らせるからです。イエス様の弟子たちは兄弟が霊的な死に至らないように注意しなければなりません。いつも言葉に気をつけなければならず、感情と血気を克服できなければなりません。全ての人の罪を担うために、十字架で死なれたイエス様の赦しの愛を学び、兄弟を愛し、仕えなければなりません。福音の救いと望みで兄弟のたましいを生かさなければなりません。
Ⅱ.まず兄弟と仲直りしなさい(23-26)
 イエス様の弟子たちが祭壇の上に供え物をささげることより、まずしなければならないことは、自分を恨んでいる兄弟の所に行き、仲直りすることです。神様は形式的な供え物よりも、兄弟を真実に愛することを願われます。兄弟の所に行って、まず仲直りを求めることは自尊心が傷つくことであり、勇気が必要です。しかし裁判官によって牢に入れられたり、神様のさばきを受けるよりはいいです。

祈り:主よ!私が傲慢と自尊心によって人々に軽々しく接していたことを悔い改めます。今から人を尊く思います。

一言:馬鹿にすることも殺人



2005年 04月 11日 (月)

マタイノ福音書5:27-37
姦淫についての新しい戒め

Ⅰ.情欲すらいだいてはならない(27-32)
 十戒の中の第七の戒めは「姦淫してはならない」です。それで申命記22:22節では、姦淫した男女を石で打ち殺すように、命じています。なぜなら姦淫は神様の霊が宿る聖なる宮である自分の体を汚す行為であり、神様の倫理を破ることだからです。ところがイエス様は姦淫という行為だけではなく、情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯していると言われます。イエス様は、私たちをつまずかせるなら、目をえぐり、手を切って捨ててでも、ゲヘナに投げ込まれるよりはいいと言われます。またイエス様は不貞以外の理由で妻を離別する者も、姦淫していると言われます。それでイエス様の弟子たちは姦淫という行いよりも、その心に情欲を抱かないように注意しなければなりません。御言葉と祈りで、自分の心を治めることができる人が本当のイエス様の弟子なのです。
Ⅱ.決して誓ってはいけません(33-37)
 律法は「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。」とあります。ところが、イエス様は誓いを立ててはならないと言われます。天を指してはならず、地をさしてはならず、ただ「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言わなければならないのです。人が誓いをひるがえすのは、それだけその言葉に真実がない証拠です。誓いをひるがえすことより、「はい」「いいえ」をはっきりと言い、その言葉に責任を負うことが成熟した姿勢なのです。

祈り:私が随時心に情欲を抱くことで姦淫を行なった罪人です。私をキリストの血できよめてください。

一言:情欲すらいだいてはならない



2005年 04月 12日 (火)

マタイノ福音書5:38-48
敵を愛することへの戒め

Ⅰ.悪い者に手向かってはいけません(38-42)
 律法には、「目には目で、歯には歯で。」と言っています。しかしイエス様は、悪い者に手向かってはいけません、と言われます。右の頬を打たれれば、左の頬も打たせ、下着を取ろうとする者には、上着も与え、一ミリオン行けと強いる者とは、一緒に二ミリオン行けと言われます。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい、と言われます。イエス様の弟子たちは悪に手向かって争うのではなく、積極的に善を行なうことで悪に勝たなければならないのです。
Ⅱ.自分の敵を愛しなさい(43-48)
 律法には「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。」とあります。しかしイエス様はむしろ敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と言われます。神様は悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださいます。私たちがイエス様の心を持って、敵さえも愛する時、天におられる神様の子どもになることができるのです。弟子たちが到達すべき水準は48節によく現われています。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」弟子たちは、自分を愛してくれる者だけを愛する取税人と違わなければならず、自分の兄弟にだけあいさつをする異邦人とも違わなければなりません。神様が完全であるように、完全な愛を所有しなければならないのです。

祈り:主よ!愛がない律法的な罪人を赦してください。今は敵さえも愛する愛の使徒になります。

一言:敵も愛しなさい


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