聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2005]

2005年 04月 21日 (木)

マタイノ福音書9:1-8
罪を赦す権威をもっておられるイエス様

Ⅰ.中風の人の罪を赦してくださったイエス様(1-2)
 イエス様がご自分の町に帰られると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、イエス様のみもとに運んで来ました。彼らは、イエス様が中風のように不治の病も治すことができる方であること、を信じていました。ところがイエス様は彼らの信仰をご覧になり、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」(2b)と言われました。イエス様は中風の人に「あなたの中風が癒された」と言わずに、「あなたの罪は赦されました。」と言われました。イエス様がご覧になる時、人々にとって本当に深刻なものは罪の問題です。中風は肉体をむしばみますが、罪は人のたましいと人生そのものまでむしばみます。いくら肉体が健康であっても、罪の赦しがなければ、人生そのものが中風のように、無気力で役に立たないものになってしまうのです。
Ⅱ.罪を赦す権威を持っておられるイエス様(3-8)
 イエス様が「あなたの罪は赦されました。」と言われると、イエス様を監視するためにそこにいた律法学者たちは、イエス様を「この人は神をけがしている」(神様を冒涜している)と思いました。しかしイエス様は動くこともできずに横になっている中風の人を、一言の御言葉で歩かせることで、ご自分が神様の御子キリストであり、罪を赦す権威をお持ちになることを証しされました。イエス様は罪を赦す権威があります。罪を赦すイエス様の権威を信じる時、中風の人のように、無気力で役に立たない人生を生きていた人が、起き上がって歩くようになるのです。

祈り:主よ!私が中風の人のように生きて来ました。今罪を赦す権威があるイエス様を信じて、起きて歩いて行きます。

一言:起きて歩け



2005年 04月 22日 (金)

マタイノ福音書9:9-13
罪人を招くために来られたイエス様

Ⅰ.わたしについて来なさい(9)
 イエス様はマタイという人が収税所に座っているのをご覧になりました。彼は同族から税金を集め、ローマに収める仕事をしていました。当時人々はこのような取税人を反逆者であり、罪人として扱い、誰も相手にしませんでした。ところがイエス様は彼をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われました。イエス様は、彼がイエス様について来て学ぶならば、彼も価値ある人生を生きるようになることを信じ、彼を弟子として召されました。人々は彼を悪い罪人と見ましたが、イエス様は彼に望みを置かれました。マタイはイエス様の望みの御声を聞いて、それに従うことで、取税人から聖マタイになりました。
Ⅱ.罪人を招くために来られたイエス様(10-13)
 イエス様はマタイの招きで彼の家で食事をするようになりました。マタイの友だちである取税人や罪人たちも一緒に食事をしました。これを見たパリサイ人たちは罪人といっしょにいると、イエス様を非難しました。イエス様は彼らに神様の御心を教えられました。神様は形式的な儀式よりも、愛を願われます。パリサイ人たちは神様に仕え、神様について教える人々でしたが、神様の御心を知りませんでした。罪人を愛し助けることより、罪に定め追い出すことだけを考えました。イエス様は神様の御心を知っておられました。それで正しい人より罪人を招くために来られました。イエス様は、足りなく弱くいつも罪を犯すしかない私たちを救うために来られました。

祈り:主よ!罪深い私を招くために来られたので望みを持ちます。私も主の心を学び、罪によって病んでいる人々を助ける人生を生きます。

一言:罪人を招くために来られたイエス様



2005年 04月 23日 (土)

マタイノ福音書9:14-17
新しいぶどう酒は新しい皮袋に

 バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエス様に、あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか、と問い詰めました。彼らは断食を敬虔な生活の大切な要素と考えていました。
 イエス様はこのような彼らに「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。」と尋ねられました。当時敬虔と言われる人も、断食の日であっても婚礼の席では断食しませんでした。よく食べて新郎と共に楽しみました。イエス様は婚礼の家の新郎のような方です。信仰生活はこのイエス様と共に生きる生活です。信仰生活は敬虔な苦行ではなく、罪を赦すために来られたイエス様を受け入れ、彼と共に罪の赦しの喜びを分かち合う生活です。婚礼の家のように喜びが満ちる生活です。
 イエス様は、バプテスマのヨハネの弟子たちが伝統と律法によって、考えが固くなり、彼らの生活に神様の喜びがないことを知っておられました。それで彼らに「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」と教えられます(16,17)。新しいぶどう酒は古いぶどう酒とは違い、醗酵する力があります。それで新しいぶどう酒を古い皮袋のような伸縮性のない皮袋にいれると、破れてしまいます。それで皮袋もだめになってぶどう酒も流れ出してしまうのです。イエス様の福音は新しいぶどう酒のようです。人を変え、生命力が満ち溢れる人生を生きるようにする力があります。それでイエス様の福音を受け入れるためには、私たちが「新しい皮袋」にならなければなりません。古い考え、古い生活を捨てなければなりません。

祈り:主よ!私が傲慢と欲望で古い皮袋になってしまいました。私が新しい心で主の福音を受け入れるように助けてください。

一言:新しい皮袋になろう



2005年 04月 24日 (日)

マタイノ福音書9:18-26
死んだ少女を生き返らせたイエス様

Ⅰ.あなたの信仰があなたを直したのです(18-22)
 会堂管理者がイエス様のところに来て、今死んだ娘を生き返らせてください、と頼みました。彼はイエス様の力を信じていたために、体面を捨ててイエス様にすがりました。イエス様は彼の信仰と切なる心を受け入れ、会堂管理者の家に向かわれました。ところが会堂管理者の家に向かう途中、十二年の間長血をわずらっている一人の女がイエス様の後に来てその着物のふさにさわりました。長血は婦人病の一種で、当時には不治の病でした。しかし彼女はイエス様の着物にさわれば救われると「心で」信じていました。女は会堂管理者のようにイエス様の前に出て行って求めることができませんでした。しかしその心でイエス様を信じました。イエス様は彼女に「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。女はその時から救いを受けました。
Ⅱ.「その子は死んだのではない。眠っているのです。」(23-26)
 会堂管理者の娘は死にました。人々は騒いで泣きました。ところがイエス様は「その子は死んだのではない。眠っているのです。」と言われました。そしてイエス様をあざ笑う人々をみな外に出した後、少女の手を取って生き返らせました。イエス様には治せない病気はなく、死んでしまった者までも生き返らせることができるのです。イエス様を信じる者には絶望もなく、死もありません。

祈り:主よ!私が死んだ者も生き返らせる主を信じます。私がこの主を信じ、恐れずに主の道を行くように助けてください。

一言:イエス様の中には、死も絶望もない。



2005年 04月 25日 (月)

マタイノ福音書9:27-38
収穫のために働き手を送ってください

Ⅰ.わたしにそんなことができると信じるのか(27-34)
 イエス様がそこを出て道を通って行かれた時、二人の盲人が大声でイエス様の憐れみを求めました。ところがイエス様は彼らに「わたしにそんなことができると信じるのか」と尋ねました。イエス様は彼らの信仰を確認しようとされました。イエス様は「そうです」という彼らの答えを聞き、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われ、彼らの目をさわって、開かせました。イエス様は私たちの信仰を通して働かれます。信仰があれば、イエス様の憐れみを受けることができ、新しい人生を生きることができるのです。
Ⅱ.収穫のために働き手を送ってください(35-38)
 イエス様はすべての町や村を巡って、会堂で神様の御言葉を教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気とわずらいを直されました。このような中で、イエス様は彼らが羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れているのをかわいそうに思われ、収穫が多いが働き手が少ないことに心を痛められました。それでイエス様は彼らの羊飼いになられ、熱心に彼らを助けるだけではなく、弟子たちに、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさいと言われました。イエス様が弟子たちに祈りを頼まれたのは、彼らがこの世に対する牧者の心情を持って、収穫のための働き手になることを望まれたからです。イエス様は今日私たちにも、この祈りを頼まれます。

祈り:主よ!私が収穫のための働き手を探しておられる主の御声を聞きます。足りませんが、私も収穫のための働き手となることを願うので、信仰をください。

一言:収穫のための働き手を送ってください


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