聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2013]

2013年 06月 25日 (火)

マタイ11:1-15
おいでになるはずの方は、あなたですか

1.わたしにつまずかない者は幸いです(1-6)
 バプテスマのヨハネは、メシヤの先駆者としての使命を担っていて、投獄されました。それでも、イエス様が何の処置も取らないと、彼は疑いを抱いて、弟子たちをイエス様の所に送って、尋ねました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」(3)。イエス様はヨハネの弟子に答えて言われました。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、ツァラアトがきよめられ、聞こえない者が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。」。この御言葉は、メシヤが来てどんなことをされるのかについて、預言したイザヤの言葉です(イザ35:5,6)。この答えをしてからイエス様は、「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」と言われました。イエス様の御業は、罪によって病み、死んだ者になった人を治し、生き返らせる御業です。その御業は、今も私たちの内に、起こっています。自分の幸福を願う心や、政治的な理想の通りに叶わないからと言って、つまづいてはいけません。正しいメシヤ観を持たなければなりません。
2.バプテスマのヨハネよりすぐれた人はいません(7-15)
 イエス様は、バプテスマのヨハネが不信を抱いたからと言って、無視されませんでした。彼が、女から生まれた者の中で、もっともすぐれていると称賛されました(11)。これは、彼が人気を得ても、試練に会っても、ゆれ動かされることなく、自分の使命を担ったからです。

祈り:主よ!私が、聖書に基づいたメシヤ観を持つように、助けてください。バプテスマのヨハネのような使命人になるように、助けてください。

一言:正しいメシヤ観



2013年 06月 26日 (水)

マタイ11:16-24
この時代は何にたとえたらよいでしょう

1.市場にすわっている子どもたち(16-19)
 イエス様は、その時代の人々を、市場にすわっている子どもたちに、たとえられました。当時、一方の子どもたちが笛を吹くと、もう一方の子どもたちは踊り、一方の子どもたちが弔いの歌を歌うと、もう一方の子どもたちは悲しむ遊びが流行っていました。ところが、その時代の人々は、バプテスマのヨハネが来て悔い改めの福音を伝えた時には、悲しんで心を痛めなければなりませんでしたが、そのようにはしませんでした。また、イエス様が来て、喜びと自由をもたらす福音を証しされた時には、喜んで踊らなければならなかったのに、そのようにしませんでした(17)。むしろ、バプテスマのヨハネが来て、食べも飲みもせずに敬虔な生活をしていると、「悪霊につかれている」と言いました。また、イエス様が来られ、取税人や罪人たちと食べたり飲んだりしておられると、「食いしん坊の大酒飲み」と言って、非難するだけでした(18,19)。今日も、人々は世の欲望と快楽にだけ没頭します。それで、福音の真理を伝えても、無関心であり、また、批判するばかりです。イエス様はこの時代の人々をご覧になり、心を痛め、残念に思われます。
2.悔い改めない町(20-24)
 イエス様が数多くの力あるわざを行なわれた町でさえ、悔い改めないのをご覧になり、心を痛めました。イエス様は彼らに言われました。「ああコラジン。ああベツサイダ・・・ソドムの地のほうが、さばきの日には、まだ罪が軽いのだ。」イエス様の力あるわざを見ても、悔い改めない者は、さらに重い罰を受けるようになります。

祈り:主よ!この時代に向けられた主の心の痛みを知ります。私が主の御言葉の前で、いつも悔い改める生活をするように、助けてください。

一言:さばきの日に



2013年 06月 27日 (木)

マタイ11:25-30
わたしがあなたがたを休ませてあげます

1.啓示を受ける者(25-27)
 傲慢で、悔い改めない人たちによって、心を痛められたイエス様は、神様の御心を悟り、感謝されました、神様は、賢い者や知恵ある者には、福音の秘密を隠されます。むしろ幼子のように謙遜で、学ぼうとする心を持った人たちに、ご自分を現わしてくださいました(25)。傲慢な者たちはさばかれ、謙遜な人たちだけが福音の秘密を悟って、救いを得ることが、神様の御心です。
2.わたしのくびきを負う者(28-30)
 イエス様は、自分で「知恵がある」と言って福音を受け入れないことで、たましいに安らぎがないまま、生きている人々を憐れに思い、招かれました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28)。人は、誰でも重荷を負っています。生存の重荷、罪の重荷を負っています。このような重荷のためにストレスを受け、安息を得ようと努力します。しかし、本当の安らぎは、イエス様のみもとに出て行った時にだけ、得ることができます。イエス様は言われます。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」イエス様のくびきは、イエス様の御言葉に従うくびき、イエス様がくださるくびきです。このくびきは、私たちを苦しめるようにも、思えます。しかし、このくびきを負う時、イエス様を学ぶことができ、心に安らぎを得ることができます。

祈り:主よ!私は傲慢で、心に安らぎがありません。今、主のくびきを負って、主を学びます。私に、本当の安らぎをください。

一言:イエス様のくびきには、安らぎがある


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