聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2015]

2015年 07月 19日 (日)

マタイ13:1-17
たとえで話されたイエス様

 その日、イエス様は家を出て、湖のほとりにすわっておられました。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエス様は舟に移って腰をおろされました。それで群衆はみな浜に立っていました。その時、イエス様は多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされました。誰もがよく知っている「種を蒔く人」のたとえでした。
 「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに目を出した。しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」
 その後、イエス様は群衆に言われました。「耳のある者は聞きなさい。」(9)。弟子たちはイエス様に尋ねました。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」人々の中には、天の御国の奥義を知ることが許されている人と、許されていない人がいます。それは生死を分ける分岐点となります。持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。それで、私たちは、御言葉を聞いて悟る知恵を神様に求める必要があります。イエス様の御言葉を聞いて、それを悟る「聞く耳」が持てるように、願い求める必要があるのです。そうした時、天の御国の奥義を悟り、豊かな実を結ぶことができるようになります。

祈り:主よ!私が、主の御言葉に耳を傾けて、天の御国の奥義を悟る中で、いのちが生かされるように、導いてください。

一言:聞く耳のある者は聞きなさい



2015年 07月 20日 (月)

マタイ13:18-23
良い畑

 イエス様は、弟子たちに、「種蒔きのたとえ」の意味を教えてくださいました。ここで、「種」は神様の御言葉、御国のことばを指しています。この種には、多くの実を結ぶ可能性が秘められています。しかし、問題は、どの畑に落ちるのか、です。
 第一に、道ばた(19)。神様の御言葉を聞いても、悟らない人です。神様の御言葉を聞いても、受け入れようとはしない人です。すると、悪い者(悪魔)がやって来て、その人に蒔かれたものを奪って行きます。
 第二に、岩地(20)。御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れる人です。伝道集会に行って、感動し、その時は、「イエス様について行こう。」と決心します。ところが、それに伴う痛み、困難、迫害を経験した時、すぐにつまずいて、信仰から離れて行きます。
 第三に、いばらの中(22)。御言葉を受け入れると、すぐに喜んで受け入れます。また、イエス様について行く中で、さまざまな苦難を経験しても、それを乗り越えて行きます。ところが、「この世の心づかい」と「富みの惑わし」が先に成長するために、その人の信仰はストップしてしまいます。この世と適当に妥協する時、いつのまにか、信仰生活に喜びを感じなくなってしまう人を指します。
 第四に、良い地(23)。御言葉を聞いて、それを悟る人のことです。聖書の御言葉の通りに、生きようとします。また、聖書の御言葉に照らし合わせて、罪を悔い改め、御霊の導きに従って、生きる人です。時になると、百倍、六十倍、三十倍の実を結び、神様を喜ばせるようになります。

祈り:神様の御言葉には、無限の可能性が秘められています。この御言葉を受け入れ、御言葉に従って、生きます。

一言:良い地



2015年 07月 21日 (火)

マタイ13:24-43
毒麦のたとえ

 イエス様は、弟子たちに、毒麦のたとえを話されました。ある人が自分の畑に良い種を蒔きました。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行きました。麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現れました。それでしもべたちは主人に言いました。「ご主人。畑には良い種を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。」しもべたちは、すぐに毒麦を抜き集めようとしました。しかし、主人は、収穫の時まで、待つように言いました。
 たとえで、「良い種を蒔く者」は人の子を指します。「畑」はこの世界のことで、「良い種」とは御国の子どもたち、毒麦は「悪い者の子ども」、「毒麦を蒔いた敵」は悪魔、「収穫」は「この世の終わり」を指します。この世には、良い人もいれば、悪い人もいます。イエス様を信じる人もいれば、イエス様を信じない人もいます。正直に生きている人もいれば、不正を行なっている人もいます。時には、「なぜ悪い人が成功し、うまく行くのか」と不満に思うこともあるでしょう。しかし、憐れみ深い神様は、世の終わりの日まで、耐えしのばれます。そして、世の終わりの日には、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から鳥集めて、火の燃える炉に投げ込まれます。
 その時、正しい人たちは、天の父の御国で太陽の輝きます。それで、私たちは、イエス様が再び来られるその日まで、信仰の中心を守り、神様に喜ばれる生活をする必要があるのです。

祈り:世の終わりの日には、神様の子どもは天の御国に入り、太陽のように輝くビジョンを持ちます。私を憐れみ、助けてください。

一言:太陽のように輝きます



2015年 07月 22日 (水)

マタイ13:31-35
生長する神の御国

 天の御国は、からし種のようなものです。からし種は、どんな種よりも小さなものです。しかし、それが畑に蒔かれると、成長し、どの野菜よりも大きくなります。巨木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。福音の御業は、ガリラヤの田舎町から始まりました。しかし、その御業は大きくなり、今は、全世界の民たちが安らぎを求めて、イエス様のみもとに集まって来るようになりました。
 また、天の御国は、パン種(イースト菌)のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。一見すると、小麦粉の中に、パン種が入っているかどうか、見わけがつきません。ところが、時間が経つと共に、パン種が入ったものは、大きくふくらんで行きます。ネロ皇帝の時代、多くのクリスチャンは迫害され、いのちを落としました。ところが、福音は、あの古代ローマ帝国に大きな影響を及ぼしました。ローマの国教として認められるようになりました。今日では、多くの人々がイエス様の教えを慕い求めています。
 イエス様は、たとえで群衆に話されました。たとえを遣わずには何もお話しにはなりませんでした(34)。

祈り:主よ!天の御国は生長し、全世界に影響を及ぼすようになることを学びました。この時間、私の中に蒔かれた福音の種が成長し、周りにいる人々のいのちを生かすように、導いてください。

一言:からし種の信仰



2015年 07月 23日 (木)

マタイ13:44-58
天の御国の価値

 天の御国の価値は、金額に換算することはできません。ところが、その価値を知っている者にだけ、分かるものです。天の御国は、まるで畑に隠された宝のようなものです。それで、人々は天の御国があることも知らず、どれくらいの価値があるのかも、分かりません。しかし、畑に隠されていた宝を見つけた人は、全ての持ち物を売り払って、その畑を買うように、天の御国を見つけた人は、全てのものを売って、天の御国を買います。良い真珠を探す商人は、すばらしい値うちの真珠を一つ見つけると、持ち物を全部売り払って、それを買ってしまいます。天の御国も、これと同じです。天の御国は、まるで海におろしてある地引き網のようなものです。網がいっぱいになると、岸に引き上げ、良いものは器に入れ、悪いものは捨てます。世の終わりの日にもそのようになり、正しい者の中から悪い者がえり分けられます。天の御国は、誰でも入るところではありません。その価値を知り、持ち物を全部売って、買う人のものです。
 弟子たちが、このたとえをみな、悟った時、イエス様は、弟子たちに、「自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようにならなければならない」と言われました。倉の新しい物と古い物は、聖書の旧約と新約を指します。天の御国の価値、義と悪に対する分別は、すべて聖書にあります。イエス様の弟子たちは、聖書をよく知り、熟練して、よく教えることで、人々を天の御国に導かなければなりません。ところが、イエス様の故郷の人々は、イエス様を人間的にだけ知っていたため、イエス様を退けました。彼らは、聖書も知らず、イエス様も知りませんでした。そのような彼らは、天の御国の価値を知りませんでした。

祈り:父なる神様!私が天の御国の価値が分かり、持ち物全てを売って、それを買う者にしてください。

一言:天の御国の価値


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