聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2015]

2015年 09月 20日 (日)

マタイ18:1-14
天の御国で一番偉い人

 弟子たちがイエス様のところに来て、「天の御国では、だれが一番偉いのですか。」と尋ねました。彼らはみな、一番偉い人になりたいと願っていましたが、だれが一番偉いのか、と尋ねました。イエス様は彼らに言われました。「あなたがも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(3,4)。弟子たちは、当然自分たちは、天の御国に入ることができる、と思っていたことでしょう。しかし、彼らが悔い改めて、子どもたちのようにならなければ、天の御国に入ることができません。子どもは、自分が足りないことを知っていて、学ぼうとし、謙遜に両親に頼り、先生の言葉を聞きます。このように私たちは、純粋で、謙遜な人にならなければなりません。自分を高めようとする傲慢と、人間的な野望と野心があるなら、神様の御国から遠ざかってしまいます。天の御国で一番偉い人は、子どものように、自分を低くする者です。一番能力があり、役に立つ人でありながらも、謙遜な人が偉大な人です。私たちは、このような人にならなければなりません。
 一人の子どもを受け入れる人は、イエス様を受け入れる人です。反面、イエス様を信じる小さい者の一人につまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。信仰が弱い人をおろそかにしたり、軽んじたりして、その人の信仰を失わせることは、その人をつまずかせることです。小さい者に仕えることが、イエス様に仕えることです。

祈り:神様!私が子どものように純粋で、謙遜な人になるように、してください。

一言:謙遜な人が偉大な人



2015年 09月 21日 (月)

マタイ18:15-20
もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら

 イエス様は、「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。」と言われました(15)。大抵、罪を犯すと、その罪を合理化させたり、見て見ぬふりをしてしまいがちです。「それが愛であり、やさしさだ」と勘違いします。しかし、だからと言って、公の面前で、非難しても良い、というわけではありません。まずは、ふたりだけのところで責めなさい、です。それは、真理の御言葉に照らし合わせて、その兄弟が悔い改めるのを、助けることです。もし、その兄弟が聞き入れれば、尊い兄弟のいのちを救うことになります。「もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。」(15)。とあります。罪の問題を解決するのに、大切なことは、感情や偏見で物事を解決しない、ということです。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されなければなりません。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、初めて、「教会に告げなさい。」と言われました。罪を、その人個人の問題としてではなく、教会全体の問題として、扱いなさいという意味です。それでも、なお、「教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」と言われました。これは、断固とした態度を示しなさい、という意味です。そのことを通して、罪の問題を真剣に考えるように、助けることを意味します。
 その人の罪の問題を解決するのは容易なことではありません。親しい間柄であるほど、特にそうです。しかし、イエス様は約束してくださいました。「あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(19,20)。

祈り:主よ!私が罪と妥協せずに、兄弟が悔い改めるまで、助けるように、助けてください。

一言:もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら



2015年 09月 22日 (火)

マタイ18:21-35
兄弟を赦しなさい

 その時、ペテロがイエス様に尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」イエス様は、「七度を七十倍するまで赦しなさい。」と言われました(22)。七度赦すことも大変なことなのに、四百九十回も赦しなさいとは・・・。では、どのようにしたら、それを行なえるのでしょうか。
 イエス様は、たとえを通して、罪の赦しの愛について、話してくださいました。私たちが神様に対して犯した罪は、「一万タラントの借金」に相当します。一タラントは六千デナリであり、一デナリは労働者一日分の報酬です。一生働いても、返し切れない金額です。しかし神様は、イエス様の尊い十字架の血によって、私たちの罪を贖ってくださいました。すなわち、一万タラントの借金を免除してくださいました。一方、兄弟が「私」に対して犯した罪は、百デナリの負債に相当します。その兄弟を赦すことは、百デナリの借金を免除するのと同じことです。金額を考えると、難しいです。しかし、神様から受けた恵みを考えるとどうでしょうか。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」(33)。神様の恵みに基づいて、兄弟たちのあやまちを担うのが当然なことです。
 それでも、兄弟のあやまちを担うことができなければ、神様が私に施してくださった恵みは虚しいものになってしまいます。結論的に、イエス様は言われました。「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(35)。

祈り:神様、私が受けた恵みを覚え、兄弟の罪を赦す者になるように、助けてください。

一言:兄弟を赦しなさい


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