聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2015]

2015年 09月 27日 (日)

マタイ21:1-11
ろばの子に乗って入城されるイエス様

 イエス様の一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲに来た時、イエス様は弟子をふたり使いに出して言われました。「向こうの村へ行きなさい。そうすると、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」(2,3)。他人のろばの子をほどいて、イエス様のところに連れて来るとは。これは理解しがたい御言葉でした。ところが、弟子たちが行って、イエス様が命じられたとおりに行なった時、ろばと、ろばの子をイエス様のところに連れて行くことができました。これは、ろばの本当の主人がだれであるのかを、教えてくれます。イエス様が、本当のろばの主人であり、ろばの主人は、それを管理しています。そして、イエス様が必要な時には、いつでもそれを引き渡す姿勢が求められます。イエス様がろばの子に乗ってエルサレムを入城するのは、預言者を通して言われたことが成就するためでした。「見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子によって。」(5b)。イエス様はろばの子に乗って、エルサレムを入城されます。ろばは平和のシンボルであり、謙遜の象徴です。 弟子たちは、自分たちの上着をその上に掛けると、イエス様はそれに乗られました。すると、群衆のうち、大勢の者が、自分たちの上着を敷き、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷きました。そして、群衆は、イエス様に向かって叫びました。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(9)。「ホサナ」とは、「主よ、今、助けてください。」という意味です。イエス様は、神様が約束された救い主です。また、ダビデの子として、王です。人々は、王としてイエス様をお迎えしました。イエス様が、自分たちを救ってくださることを、切に願い求めました。

祈り:主よ!平和と謙遜の王、主よ。あなたを私の心にお迎えします。私を治めてください。

一言:ホサナ、いと高き所に



2015年 09月 28日 (月)

マタイ21:12-22
宮をきよめられたイエス様

 イエス様が主の宮に入られた時、主の宮は市場のようになっていました。いけにえとしてささげる家畜の泣き声が聞こえ、両替人の声と、お金の数える音だけが聞こえてしました。イエス様は、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出されました。両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒されました。13節をご覧ください。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」主の宮は、本来、祈る家でなければなりません。聖書を教える家でなければなりません。ところが、宗教指導者たちは、神様の家を金儲けのために、利用しました。世界中から、神様に礼拝をするために集まるので、遠方から来る人のことを考えて、家畜を売り、外国の通過をシェケムに両替するようにしました。ところが、その本来の趣旨が歪み、宗教指導者たちが率先して、私利私欲を貪るようになったのです。私たちのからだも聖霊が住む神の宮として、神様のために、用いなければなりません。
 イエス様は都を出てベタニヤに行き、そこに泊られました。翌朝、イエス様は都に帰る途中、空腹を覚えられました。すると、道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれました。ところが、その木は葉のほかは何もありませんでした。すると、イエス様はいちじくの木に向かって言われました。「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」すると、たちまちいちじくの木は枯れました。いちじくの木が枯れたのを見て、弟子たちは驚いて言いました。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」すると、イエス様は、「信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。」(21)。信じて、疑わなければ、山をも動かす御業を行なうことができます。

祈り:主よ!私が形式的な信仰生活をしていたことを悔い改めます。神様に喜ばれる信仰生活ができるように、助けてください。

一言:宮をきよめられるイエス様



2015年 09月 29日 (火)

マタイ21:23-32
ふたりの息子のたとえ

 イエス様が宮をきよめられたことに腹を立てた宗教指導者たちが、質問しました。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」この質問は、宗教指導者たちの権威を認めずに、勝手なことを行なったと、イエス様をなじるものでした。すると、イエス様は、バプテスマの権威がどこから来たものなのか、と逆に尋ねられました。宗教指導者たちは、バプテスマの権威が天から来たことを認めたくなかったし、かと言って、群衆を敵に回すことを恐れていました。それで、「分かりません。」と答えました。
 イエス様は、そのような彼らに、「ふたりの息子のたとえ」を話されました。ある人にふたりの息子がいました。その人は兄のところに来て、「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。」と言いました。すると、兄は答えて「行きます。お父さん。」と言いましたが、結局、行きませんでした。それから、弟の所に来て、同じように言いました。ところが、弟は「行きたくありません。」と言いましが、あとから悪かった思って、でかけて行きました。では、ふたりのうちどちからかが、父の願ったとおりにしたのでしょうか。宗教指導者たちは答えました。「あとの者です。」たとえで、兄は、宗教指導者たちを指しています。ヨハネが義の道を持って来たのに、彼らはヨハネを信じませんでした。ところが、取税人や遊女たちは、バプテスマのヨハネを信じました。それでイエス様は言われました。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。」(31)。イエス様は、たとえを通して、バプテスマのヨハネの権威がどこから来たのかを、宗教指導者たちに教えられました。宗教指導者たちは、取税人や遊女たちがバプテスマのヨハネを信じたのを見たにも関わらず、悔い改めることもせず、彼を信じませんでした。

祈り:主よ!私が御言葉を聞いて、悔い改め、信じるように助けてください。

一言:悔いて、信じなさい



2015年 09月 30日 (水)

マタイ21:33-46
ぶどう園の農夫のたとえ

 イエス様は、宗教指導者たちに悔い改めを促すために、ぶどう園の農夫のたとえを話されました。家の主人は、ぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸しました。収穫の時には、分け前をもらう約束をして、旅に出かけました。収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わしました。ところが、農夫は、貪欲から恩を忘れてしまい、主人のしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打ちました。すると、主人は、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、農夫たちは、やはり同じような扱いをしました。そこで、ぶどう園の主人は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう。」と思い、農夫たちのもとに、息子を遣わしました。農夫たちが、主人の息子を受け入れるなら、水に流そうと考えていたようです。ところが、農夫たちの反応はどうだったのでしょうか。「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」と相談し、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまいました(39)。結局、家の主人は、農夫たちからぶどう園を取り上げ、他の人に任せることになります。神様は、ユダヤ人を選ばれ、彼らに聖書の御言葉を教えられました。彼らは神様の御言葉を預かった者として、異邦人たちに御言葉を教える祝福を受けました。ところが、彼らは私利私欲ために、預言者たちを殺しました。そしてついには、ひとり子イエス様を十字架につけて、殺してしまいました。神様は、救い主イエス様を殺したイスラエルを滅ぼされ、異邦人の手に、福音の御業をゆだねられます。このたとえを聞いて、腹を立てた宗教指導者たちは、イエス様を殺そうとしました。

祈り:主よ!私に聖書の御言葉をくださり、感謝します。世界のキャンパスの学生たちに、聖書の御言葉を伝えます。

一言:御言葉を教えよう


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