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2002年 12月 23日 (月)

マタイノ福音書1:1-17
恵みと憐れみのイエス様

Ⅰ.恵みと憐れみの主イエス様(1-11)
 イエス様はアブラハムとダビデの子孫としてお生まれになりました。これはイエス様が、神様が約束と預言を成就させるために遣わされたメシヤであることを見せてくれます(創22:17,18,Ⅱサム7:12,13)。またアブラハムとダビデは代表的な信仰と従順の人であり、ユダ王家の二本の柱です。イエス様は信仰と従順の幹、王族の幹からお生まれになりました。
 イエス様の系図に記録されたラハブとルツは異邦の女であり、タマル、ラハブ、バテセバは不倫の女です。同時に彼女たちは信仰の女たちです。彼女たちを人類救いの御業の中心に用いられた神様は恵みと憐れみに満ちた神様です。この系図は同時にメシヤがくすぶる灯心、折れた葦のような罪人たちを抱いて治療し、救ってくださる恵みと憐れみの主であることを教えてくれます。
Ⅱ.歴史の中心となるイエス様(12-17)
 アブラハムから始まったイスラエルの歴史は栄枯盛衰の歴史でした。ところが共通点は彼らが神様を愛し恐れ敬った時には栄え、神様を捨てて不従順の時には衰えたことです。16節をご覧下さい。著者はイスラエルの長い歴史がイエス様の誕生によってゴールしたことを明かしています。世俗史家たちは多くの観点から歴史を記録しますが、神様が運行される歴史の中心はイエス・キリストであり、人類の救いです。イエス様を信じて救いを受け、召された者たちは本当の歴史創造の主人公たちなのです。

祈り:恵みと憐れみの父なる神様!約束された救い主を遣わしてくださり、憐れみと恵みの新しい歴史を成されることを感謝します。

一言:恵みと憐れみの主イエス様



2002年 12月 24日 (火)

マタイノ福音書1:18-25
その名をイエスとつけなさい

Ⅰ.罪から救ってくださる方(18-21)
 ヨセフという青年と婚約したマリヤは身重になりました。しかしヨセフは正しい人だったので、これを公にせず内密に去らせようと決めました。その時主の使いがヨセフの夢に現れて、マリヤに宿っているのは誰なのかを知らせてくださいました。①イエス様は聖霊によって宿りました。それで罪がありません(ヘブ4:15)。②イエス様はご自分の民を彼らの罪から救われる方です。「イエス」という名前は「主はお救いになる」という意味です。人間と世の根本問題は罪の問題です。罪の報酬は死であり、その後には裁きがあります。人間が不幸なのは罪のせいです。ところがこの世の誰もが、何をもってしても、人間を罪を救うことができないのです。しかしイエス様は人間を罪から救うために来られました。
Ⅱ.インマヌエルのイエス様(22-25)
 イエス様の別の名前はインマヌエルです。これは「私たちと共におられる神様」という意味です。聖なる神様が、罪によって汚れ臭う私たちの友だちとなり、全ての問題の解決者になるために、肉の体を着てこの地に来られました。これはどれだけ大きな恵みなのでしょうか。イエス様は誰も相手にしない取税人マタイと共におられることで、マタイは変わり山上垂訓を記録した聖人マタイになりました。誰でもインマヌエルのイエス様を心に受け入れれば、全ての傷が癒され偉大な神様の人に変わるのです。

祈り:主よ!私を淫乱と傲慢と不信の罪から救ってください!私がいつも私とともにおられる主に頼ります。

一言:彼の名はイエス



2002年 12月 25日 (水)

マタイノ福音書2:1-12
ひれ伏して拝んだ

Ⅰ.王であり羊飼いとしてお生まれになったイエス様(1-8)
 ユダヤの王ヘロデの時代に、当時最高の知識人である東方の博士たちがエルサレムにやって来ました。その理由はユダヤ人の王としてお生まれになったメシヤを訪ね、拝むためでした。イエス様は全ての人類の礼拝を受けられる王であり、選ばれた民の羊飼いです。
 イエス様はヘロデのように権力で人々を押さえつける王ではなく、愛と平和で私たちのたましいを治められる愛の王であり、良い羊飼いです。天の御国を持って来られた天の御国の王です。
Ⅱ.ひれ伏して拝んだ博士たち(9-12)
 イエス様の誕生の知らせを聞いたエルサレムには大きな騒ぎが起き、ヘロデは幼子イエス様を探し出して殺そうと企んでいました。しかし東方の博士たちは星の導きを受けて幼子イエス様のところに行きました。本当の礼拝の対象を見つけた博士たちの喜びはこれ以上言葉で表現することができないほど満ち溢れていました。人々の本当の喜びはメシヤに会うことにあるのです。
 彼らは家に入って幼子と母マリヤとともにおられるのを見てひれ伏して拝みました。宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげました。そして故国に帰って行きました。たましいを持った存在である私たち人間は本当の礼拝の対象を探し、その前にひれ伏して拝む時に本当の幸福を得ることができるのです。

祈り:主よ!主だけが私の礼拝を受けられる対象です。私の真心と宝の箱をささげ、主を礼拝します。

一言:ひれ伏して拝んだ


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