聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2010]

2010年 08月 01日 (日)

マルコ9:1-13
御姿が変わったイエス様

Ⅰ.御姿が変わったイエス様(1-3)
 弟子たちに十字架の道理を教えられてから六日後に、イエス様はもう一度三人の弟子を連れて、高い山に導いて行かれました。そこでイエス様は栄光ある御姿に変えられました。イエス様の御衣はまぶしい光を放ち、非常に白くなりました(3)。それまで、イエス様の御姿は多くの問題をかかえた人々に仕えるみすぼらしい姿でした。しかしイエス様は、本来神様の権威と栄光の衣をまとった方です。イエス様は、最初苦難を受けるしもべの姿でこの地に来られましたが、根本的に栄光ある神様の御子であり、キリストです。
Ⅱ.彼の言うことを聞きなさい(4-13)
 その時、旧約時代の預言者であるエリヤとモーセが現れ、変えられたイエス様と話をしていました。この光景を見ていたペテロはひどく驚き、そこに幕屋を三つ造って一緒に住もう、と自分でも分からないことを提案しました。たぶん彼は問題の多い村に下りて行くよりは、問題のない山の中で、主と共に静かに住みたかったようです。その時、雲が彼らをおおい、雲の中から神様の御声が聞こえて来ました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(7)。イエス様は、神様が愛される神様の御子です。弟子たちは自分の考えを固守することより、神様の御子の御言葉をよく聞かなければなりません。変えられたイエス様は、将来十字架の苦難を通して、復活の栄光に至るキリストです。

祈り:主よ!変えられたイエス様は神様の御子であり、キリストです。私がイエス様の御言葉に聞き従います。

一言:彼の言うことを聞きなさい



2010年 08月 02日 (月)

マルコ9:14-29
信じる者には、どんなことでもできる

Ⅰ.信仰の力(14-24)
 イエス様が山から降りて来られた時、弟子たちは群集に囲まれ、律法学者たちと論じ合っていました。彼らは自分たちの力で悪霊を追い出そうとして失敗し、大恥をかいていました。それでイエス様は信仰のないその時代をご覧になり、嘆かれました。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」(19)。イエス様は、汚れた霊につかれた子どもの問題を、信仰のないその時代の問題として、ご覧になりました。その時、その子どもの父親は、「もし、おできになるものなら」という条件をつけて、イエス様に助けを求めました。それに対して、イエス様は彼を咎めて言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(23)。イエス様は、信仰のない父親に、信仰を植えられました。信じる者には、決してできないことは、ありません。信仰には、「もし」という条件がありません。いくらからし種ほどの信仰であっても、完全に信じ切らなければなりません。イエス様を信じる者には、「不可能」という言葉がありません。
Ⅱ.祈りの力(25-29)
 イエス様は、御言葉によって、汚れた霊をしかって追い出しました。そして子どもの手を取って起こされました。すると死人のようになっていた子どもは立ち上がりました。イエス様はまた、汚れた霊を追い出せなかった理由を聞く弟子たちに、その原因を話してくださいました。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(29)。祈りの力を受けなければ、決して汚れた霊の勢力を制御することができません。

祈り:主よ!私の信仰のなさを憐れんでくださり、不可能がない信仰の人に、変えてください。

一言:信じる者には、どんなことでもできる



2010年 08月 03日 (火)

マルコ9:30-41
みなに仕える者

Ⅰ.みなに仕える者(30-35)
 イエス様は弟子たちに、「人の子は人々の手に引き渡され殺される。殺されて三日の後に、よみがえる」と繰り返して教えられました。しかし弟子たちはこれを悟ることができず、また尋ねるのさえも恐れました。彼らの関心は、ただ、だれが一番偉いか、でした。彼らは、互いに偉くなろうと、道を行きながらも、論じ合っていました。イエス様は、このような彼らに、人の先に立つ者の秘訣について、教えてくださいました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(35)。イエス様は、一番偉くなることに関しては、禁じていませんでした。しかし一番偉くなるためには、まずみなのしんがりにならなければならず、みなに仕える者にならなければなりません。みなに仕えるためには、自分を捨て、謙遜に低くならなければなりません。仕えるふりをするのではなく、仕えるしもべにならなければなりません。イエス様は本来神様ですが、罪人たちを救うために、完全にご自分を低くされ、しもべとなられました。イエス様は罪人たちに仕えましたが、十字架で死ぬまで仕えられました。それでイエス様はもっとも大きな者とされました(ピリ2:6-10)。
Ⅱ.幼子のひとりを受け入れる者(36-41)
 誰が偉いのかと争っていた弟子たちが、弱い幼子を受け入れることは、容易なことではありません。しかしイエス様の御名によって、幼子を受け入れる時、イエス様を受け入れることであり、さらには神様を受け入れることです(37)。また、たとえ自分たちと行動を共にしなくても、主の御名によって働く者たちを受け入れなければなりません(38-41)。

祈り:主よ!私の高くなろうとする人間の野心を砕き、多くの人々のしんがりとなり、仕える者になるように、祈ります。

一言:みなに仕える者が偉い



2010年 08月 04日 (水)

マルコ9:42-50
罪に対する警告

Ⅰ.この小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は(42)
 誰でも、信仰が弱い一人の兄弟につまずきを与えるならば、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。これは、それほど兄弟をつまずかせることが、深刻な罪であるからです。私たちは、信仰が幼い兄弟を軽く考え、何の考えもなしに接してしまいがちです。自分の計画通りに導くこともでき、自分の栄光のために利用することもできます。しかし私たちは、イエス様の血で買い取られたたっとい存在であることを、覚えていなければなりません。
Ⅱ.もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら(43-50)
 もし、私の手と足が私のつまずきとなるなら、それを切り捨てなければなりません。なぜなら不具のからだで神の国に入るほうが、両手、両足そろってゲヘナに投げ入れられるよりは、良いからです。また、目が私に罪を犯させるなら、その目もえぐり出さなければなりません。片目で神の国に入るほうが、両目そろってゲヘナに投げ入れられるよりは、よいからです。ゲヘナでは、うじは尽きることなく、火は消えることがありません(48)。人は簡単に罪を犯します。手が動くたびに、犯罪が増え、足が行くところには罪が積み上げられます。手と足が十本あっても足りない心境です。特に、今日では、映像の時代であり、情報通信の時代なので、目で罪を犯してしまいやすいです。罪は一瞬のうちですが、その結果ははるかに大きなものです。これは恥をかく、かかないの問題ではありません。それよりもはるかに大きな問題です。これは永遠のいのちを得るのか、永遠のさばきを受けるのかの問題であり、神の国か、ゲヘナかの問題です。

祈り:主よ!私が罪を軽く考え、罪を楽しんでいたことを悔い改めます。罪の深刻性を悟るように、助けてください。

一言:永遠のいのちか、ゲヘナか


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