聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2010]

2010年 08月 05日 (木)

マルコ10:1-16
結婚の真理を教えられたイエス様

Ⅰ.結婚と離別(1-12)
 モーセの時代に、人々はさまざまな理由をつけては、簡単に妻を捨てました。それでモーセは妻の権利を保護し、離別を防止するために、正当な事由が書かれた離縁状を必ず書くように、命じました。しかし人々は、むしろこの法律を悪用して、離縁状だけを書いて、妻を捨てました。イエス様は、彼らのあやまちを指摘し、創世記に記された結婚の真理を教えてくださいました。結婚とは、単なる肉体の情欲を満たすためのものではなく、神様の御心に従って、互いに結びつくものです。結婚は神様が主管されるため、きよく神聖なものであり、絶対的なものです。それで、人は、神様が結び合わされたものを引き離してはいけません。夫が妻を捨てて、別の女を妻としたり、妻が夫を捨てて、別の男にとつぐなら、それは姦淫を犯すことです(11,12)。離別は、ひとつのからだを二つに引き裂くことなので、自分と家庭と社会を破壊させ、大きな傷を残すようになります。
Ⅱ.子どもと神の国(13-16)
 弟子たちは、子どもたちをイエス様のみもとに連れて来た人々を見て、しかりました。イエス様は、弟子たちの心がパリサイ人のようにかたくななのをご覧になり、憤られました。神様の国は子どものように純粋で、正直な者のものです。子どものように謙遜に神の国を受け入れない者は、決して神の国に入ることはできません。

祈り:主よ!世の価値観のように、離婚を軽んじていた罪を悔い改めます。イエス様が教えてくださった結婚の真理を受け入れます。

一言:結婚はきよく神聖なものだ



2010年 08月 06日 (金)

マルコ10:17-31
永遠のいのちを得る方法

Ⅰ.一つ欠けたこと(17-22)
 ある金持ちの青年が、永遠のいのちを得ようとする願いから、イエス様のところに行って訪ねました。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(17)。彼は幼い時から徹底的に戒めを守って来ましたが、永遠のいのちに対する確信がありませんでした。イエス様はこのような彼に、欠けた一つのことを、話してくださいました。彼は、戒めをみな守ったと言いましたが、それはあまりにも消極的なことでした。彼の信仰生活は極めて自己中心的であり、利己的でした。イエス様は彼に、行って持っている全てのものをみな売って、貧しい者たちに分け与え、そしてイエス様について行くように、方向をくださいました。彼が永遠のいのちを得るためには、世の財産をみな捨てて、本当の宝であるイエス様を所有しなければなりません。
Ⅱ.主と福音のために、犠牲にする者(23-31)
 財産の多い金持ちが神の国に入ることは、らくだが針の穴を通ることより、難しいことです。財産に心が奪われているため、救いを得るのが容易ではありません。救いは人の力や持っている所有で得られるのではなく、神様がくださる恵みの賜物です(27)。すなわち自分のために宝を積むことより、主と福音のために捨てる人々に与えられる神様の賜物です。主と福音のために、すべてのものを犠牲にした人は、現世で迫害とともに、百倍の祝福を受け、来世では、必ず永遠のいのちを受けるようになります。

祈り:主よ!朽ちる世の宝に望みを置かず、本当の宝であるイエス様を所有することができるように、助けてください。

一言:本当の宝であるイエス様



2010年 08月 07日 (土)

マルコ10:32-45
仕えるために来られたイエス様

Ⅰ.高い位を求める弟子たち(32-41)
 エルサレムに上る途中で、イエス様は弟子たちに、将来ご自分が受けることを、話してくださいました。イエス様が十字架で死なれ、三日の後によみがえるというのです(33,34)。しかし弟子たちは、かれをまったく悟ることができませんでした。さらには、ヤコブとヨハネは無謀にも、自分たちをイエス様の両側に座らせてほしい、と特別な願いをしました。ほかの弟子たちも高くなりたい心のために、心に平安がありませんでした。
Ⅱ.かえって仕えるために来られたイエス様(42-45)
 イエス様が、互いに高くなろうと競争している弟子たちに、仕える者の道理について、教えてくださいました。世の権力者たちは民たちを任意で治め、権力をふるいます。人々はほかの人の上に君臨して、仕えられる者が偉いと思っています。それで何とかして、高い地位に上ろうと競争し、争います。しかし本当に偉大な者は自分を低くし、ほかの人に仕える者です。それで誰でも人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべにならなければなりません(44)。ほかの人のしもべにならずに、みなの先に立ちたいと思うことは、おろかな人のようです。
 イエス様は創造主の神様として、すべての造られた者から仕えを受けるのに、ふさわしい方です。しかしイエス様は仕えられるために来られたのではありません。むしろ仕えるためであり、多くの人のための、贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるために、来られました(25)。神様は、このイエス様に、すべての名前の中で、もっともすぐれた御名を与えられました。

祈り:主よ!高くなろうとし、仕えられたい心を悔い改めます。むしろ仕えるために来られたイエス様を、よく学びます。

一言:むしろ仕えるために来られたイエス様



2010年 08月 08日 (日)

マルコ10:46-52
盲人の目を開かれたイエス様

Ⅰ.憐れみを求めるバルテマイ(46-48)
 エリコの町に、盲人の物ごいがいました。彼はテマイの子であり、名前もなく、ただ「バルテマイ」と呼ばれていました。彼の人生は本当に運命的なものであり、みじめなものでした。しかし彼にはイエス様に対する信仰がありました。彼は道ばたに座っていましたが、「イエス様だ」と聞くと、叫び始めました。
「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」(47)。彼は、イエス様がキリストであることを信じ、ただイエス様に憐れみを求めました。周りの人々は彼をたしなめましたが、彼はさらに叫び立てました。イエス様がだれであるのかを知った時、彼は全面的にイエス様にしがみついていました。
Ⅱ.信仰を祝福されたイエス様(49-52)
 バルテマイの切実な願いが、ついにイエス様に届きました。イエス様が彼を呼ばれると、彼は上着を脱ぎ捨て、立ち上がって、イエス様のところに来ました。彼は、願いを聞かれるイエス様の質問に、「目が見えるようになることです。」と答え、自分の願いをはっきりと明らかにしました。彼は、ほかの人のように、神様が造られた美しい世界を見ること、を願いました。何より彼は、イエス様が自分の目を開いてくださること、を信じていました。イエス様は、このような彼の信仰を、祝福してくださいました。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」(52)。すると彼はすぐに見えるようになり、イエス様の行かれる所について行きました。どんな人間条件や状況の中であっても、信仰を持っているなら、イエス様の憐れみを受け、救いを得ることができます。イエス様は私たちの信仰をご覧になります。

祈り:主よ!私にもバルテマイのような信仰をくださり、霊的な目を開いてください。

一言:見えるようになることです。


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