聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2010]

2010年 08月 13日 (金)

マルコ12:1-12
ぶどう園の農夫のたとえ

Ⅰ.しもべを遣わし続ける主人(1-5)
 ある主人がぶどう園を造って、農夫たちに貸して、旅に出かけました。農夫たちは、ぶどう園をよく管理して、主人に決められた分け前を与えると、約束しました。時になると、主人は分け前を受け取るために、しもべを遣わしました。ところが、農夫たちは主人が遣わしたしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰しました(3)。すると主人は、またべつのしもべを遣わしました。農夫たちは、遣わされたしもべの頭をなぐり、はずかしめ、殺してしまいました。農夫たちは、本当に恵みを裏切った恥知らずの者たちです。主人は、悪い農夫たちをすぐに追い出すこともできました。しかし彼らの心を立ち返らせ、続けてほかのしもべたちを遣わし続けました。この主人の心は、選ばれた者を、変わらずに愛してくださる神様の心です。
Ⅱ.愛する子さえも遣わす主人(6-12)
 主人は、ついに愛するひとり息子まで遣わしました。主人の心には、それでも「私の息子なら、敬ってくれるだろう」という期待がありました。この息子は主人のあと取りなので、主人のように受け入れてくれるだろう、と考えていました。しかし農夫たちは、ぶどう園を自分の所有にしようとする貪欲のために、主人の愛するひとり息子までもつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました(7,8)。このような悪い者たちを、主人はどのようにしたのでしょうか。主人は戻って来て、その農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいました。イエス様は、ぶどう園の農夫のたとえを通して、宗教指導者たちの罪を指摘し、悔い改めるように促されました。しかし彼らは悔い改めるどころか、むしろイエス様を捕らえようとしました(12)。

祈り:主よ!私が農夫のようにかたくなな心を持っていることを告白します。今、神様の御子であるイエス様を敬います。

一言:私の息子なら、敬ってくれるだろう



2010年 08月 14日 (土)

マルコ12:13-27
生きている者の神様

Ⅰ.カイザルのものはカイザルに(13-17)
 パリサイ人たちはヘロデ党と力を合わせて、イエス様をわなに陥れようと、大変巧妙な質問をしました。「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」(14)。当時、ユダヤ人たちは税金の問題のために、ひどく神経を尖らせていました。どのように答えても、非難を浴びるしかありません。その時、イエス様はデナリ銀貨を持って来させ、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」と言われました(17)。神様を信じる者は、国家に対する義務を果たすだけではなく、同時に、神様に対する義務も果たさなければなりません。神の国に属する者だからといって、国家に対する義務をおろそかにしてはいけません。
Ⅱ.生きている者の神様(18-27)
 今度は、復活を信じないサドカイ人たちが、イエス様のところに来て、来世と復活を否定するためのおかしな質問をしました(19-23)。七人の兄弟がみな、同じ妻をめとりましたが、みな死んでよみがえるようになると、誰の妻になるのか、というのです。彼らは復活を信じず、また復活があれば、大きな不幸が起こるので、復活はあってはならない、と主張しました。イエス様は、彼らの霊的な無知と不信仰を咎め、霊的な世界の秘密を教えてくださいました(24,25)。また出エジプト記の御言葉を通して、生きている者の神様を証しされました。アブラハムもイサクもヤコブも、みなよみがえり、今神様の前に生きています。私たちが信じる神様は、死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様です。神様の中には、死んだ者がいません。

祈り:主よ!私が、生きている者の神様を信じることができなかったこと、を悔い改めます。これからは、生きている者の神様を信じ、復活信仰によって、生きます。

一言:生きている者の神様



2010年 08月 15日 (日)

マルコ12:28-34
一番たいせつな命令

 イエス様が宗教指導者たちとの議論で、みごとに答えられたのを知って、律法学者のひとりが感銘を受けました。それで日ごろから悩んでいた問題をイエス様に聞きました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(28)。
 当時、イスラエルには十戒めやモーセ五書の中にも、言い伝えで受け継がれた戒めが多くありました。それで真摯に戒めを守ろうとする人々は、全ての戒めの精神を反映する核心の戒めが何であるのか、全ての命令の中で、どれが一番大切なのか、すなわち第一の戒めが何であるのかを知ろうとしました。これは、全ての戒めをよく理解して初めて、答えることのできる難しい質問でした。それに対して、イエス様はどのように言われましたか。
 一番たいせつな戒めは、神様を愛せよ、という命令です。真の信仰生活とは、戒め一つ一つに引っかからないように生活するのではなく、積極的に神様を愛することです。神様を愛しますが、心と思いと知性と力を尽くして愛することです。なぜなら神様だけが唯一の、私たちの主であり、信頼すべき価値がある方だからです。
 次には、隣人を自分自身のように愛せよ、という戒めです。戒めには、隣人に対する義務について、多く出ていますが、一言で、自分のからだを大切にし愛するように、ほかの人も尊く思い、愛せよということです。
 全ての戒めの核心は、神様を愛し、隣人を愛せよ、ということです。「愛」は全ての律法を完成させます(ロマ13:10)。

祈り:主よ!私の心に愛がないことを悟り、痛感します。私にキリストの救いの愛を満たしてくださり、心を尽くして神様を愛し、兄弟を愛するように、助けてください。

一言:神様を愛し、隣人を愛せよ



2010年 08月 16日 (月)

マルコ12:38-44
イエス様が尊く思われること

Ⅰ.形式より内面(38-40)
 イエス様は弟子たちに、「律法学者たちには気をつけなさい」と教えられました。律法学者たちは長い衣をまとって歩き回ったり、会堂の上席や宴会の上席を好み、あいさつされることを好みました。また、祈る時にも、人を意識して、見えを飾るために長い祈りをしました。彼らは形式的には、敬虔で、きよく見えました。しかし彼らの心は貪欲で満たされ、慈悲がなく、やもめの家を食いつぶしました。彼らが人々の目をごまかすことはあっても、神様のさばきから逃れることはできません。イエス様の弟子たちは、彼らとは違っていなければなりません。見かけはあまり良くなくても、その内面がきよく、聖なるものでなければなりません。
Ⅱ.献金の金額より姿勢(41-44)
 イエス様は献金箱に向かってすわり、人々が献金する様子を、見ておられました。多くの金持ちは大金を投げ入れていました。彼らは見せびらかすように、誇らしげに献金しました。反面、一人の貧しいやもめは、やっとの思いで二レプタを入れて、恥ずかしがりました。人々もやもめの献金に見向きもしませんでした。しかしイエス様は弟子たちを呼び寄せて言われました。「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」なぜなら彼女の生活費を全部投げ入れたからです。女には、単純にお金をささげるのではなく、自分自身をもささげました。神様は、お金の額より、まず心をささげ、私たち自身をささげることを、喜ばれます。

祈り:主よ!私が形式にとらわれ、形だけ出そうとしていた偽善を悔い改めます。私が心を低くして、まず自分を主にささげます。

一言:自分をささげよう


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