聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2014]

2014年 06月 23日 (月)

マルコ9:1-13
御姿が変わられたイエス様

1.御姿が変わられたイエス様(1-3)
 弟子たちに十字架の道を教えられてから六日後に、イエス様はもう一度三人の弟子たちを連れて、高い山に登って行かれました。そこで、イエス様は栄光ある御姿に変わりました。イエス様の御衣は、まぶしい光をはなち、非常に白く光りました(3)。それまでのイエス様の御姿は、多くの問題を抱えた人々に仕えようとする、みすぼらしい姿でした。しかし、イエス様は本来、神様の力と栄光の御衣を着た方です。イエス様は苦しみを受けるしもべの姿でこの地に降りて来られましたが、根本的には、栄光ある神様の御子であり、キリストです。
2.彼の言うことを聞きなさい(4-13)
 その時、旧約時代の預言者であるエリヤとモーセが現れて、変えられたイエス様と共に、語り合っていました。この光景を見ていたペテロは、ひどく驚いて、「そこに幕屋を三つ造り、一緒に住もう」と、自分でもよく分からない提案をしました。恐らく彼は、多くの問題を抱えた村に降りて行くことより、何の問題もない山の中で、主と共に、静かに住みたいと、思っていたに違いありません。その時、雲が彼らをおおい、雲の中から神様の御声が聞こえて来ました。「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」(7)。イエス様は、神様が愛される神様の御子です。弟子たちは、自分たちの考えに捕らわれることより、神様の御子のことばをよく聞かなければなりません。変えられたイエス様は、将来十字架の苦難を通して、復活の栄光に達するキリストとなります。

祈り:主よ!変えられたイエス様は神様の御子であり、キリストです。私は、イエス様の御言葉をよく聞きます。

一言:彼の言うことを聞きなさい



2014年 06月 24日 (火)

マルコ9:14-29
信じる者には不可能なことがない

1.信仰の力(14-24)
 イエス様が山から降りて来られた時、弟子たちは群衆に取り囲まれていて、律法学者たちと論じ合っていました。彼らは、自分たちの力で汚れた霊を追い出そうとして失敗し、大恥をかいてしまいました。それで、イエス様は信仰がないその時代をご覧になり、嘆かれました。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」(19)。イエス様は、汚れた霊につかれた子どもの問題を、信仰がない、その時代全体の問題として、ご覧になりました。その時、その子の父親が、「ただ、もし、おできになるものなら」と条件をつけて、イエス様に助けを求めました。それで、イエス様は彼を咎めて、言われました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(23)。イエス様は、信仰がない父親に信仰を植えつけました。信じる者には、決してできないことがありません。信仰には、「もし」という条件がありません。たとえ、からし種ほどの信仰であっても、完全に信じなければなりません。イエス様を信じる者には、不可能なことがありません。
2.祈りの力(25-29)
 イエス様は、汚れた霊をしかって追い出しました。そして子どもの手を取って、起こされました。すると、死んだ者のようになっていた子どもは生き返りました。イエス様は、汚れた霊を追い出すことができなかった理由を尋ねる弟子たちに、その原因を話してくださいました。「祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(29)。祈りの力を受けなければ、決して悪霊の力を制することはできません。

祈り:主よ!信仰がないことを憐れんでくださり、不可能なことがない信仰の人に、私を変えてください。

一言:信じる者には、不可能なことがない



2014年 06月 25日 (水)

マルコ9:30-41
みなに仕える者

1.みなに仕える者(30-35)
 イエス様は弟子たちに、「人の子が人々の手に引き渡され、殺されて、三日の後に、よみがえる」ことを繰り返して、教えられました。しかし、弟子たちは、これを理解できず、また、尋ねることすら恐れていました。彼らの関心は、ただ、誰が一番偉いかにありました。彼らは、互いに高くなろうと、道々、論じ合っていました。イエス様は、このような彼らに、人の先に立つ秘訣を教えてくださいました。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(35)。イエス様は、みなの先に立つことに関しては禁じませんでした。しかし、みなの先に立とうと思うなら、まず多くの人のしんがりにならなければならず、多くの人々に仕える者にならなければなりません。多くの人々に仕えるためには、自分を捨て、謙遜に低くならなければなりません。仕えるふりをするのではなく、仕えるしもべにならなければなりません。イエス様は、本来神様ですが、罪人たちを救うために、完全にご自分を低くし、しもべの御姿で来られました。イエス様は罪人たちに仕えましたが、十字架の死に至るまで、仕えてくださいました。それで、イエス様は最も偉大な方となりました(ピリ2:6-10)。
2.幼子を受け入れる者(36-41)
 だれが偉大か、と争っていた弟子たちにとって、弱い幼子を受け入れるのは容易なことではありませんでした。しかし、イエス様の御名によって、幼子を受け入れる時、これは、すなわちイエス様を受け入れることであり、さらに進んで、神様を受け入れることになります(37)。また、たとえ自分たちとは行動を共にしていなくても、主の御名によって働いている者たちであれば、受け入れなければなりません(38-41)。

祈り:主よ!私が高くなろうとする利己的な野心を捨て、多くの人々のしんがりになり、仕える者になるように、祈ります。

一言:多くの人に仕える者が偉大だ



2014年 06月 26日 (木)

マルコ9:42-50
罪に対する警告

1.小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるなら(42)
 だれでも、信仰が弱い兄弟をつまずかせるなら、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけて、海に投げ込まれて死んだほうがましです。これは、それだけ、一人の兄弟をつまずかせることが深刻な罪になるからです。私たちは、信仰が幼い兄弟を軽んじて、軽々しく扱ってしまいがちです。自分の思うままに導き、自分の栄光のために利用することもできます。しかし私たちは、彼がイエス様の血によって買われた貴いたましいであることを覚えていなければなりません。
2.あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら(43-50)
 もし、自分の手と足がつまずきを引き起こすのなら、その手と足を切り捨てなければなりません。なぜなら不具の身でいのちにはいるほうが、両手両足そろえてゲヘナに投げ入れられるよりは、よいからです。また、自分の目がつまずきを引き起こすのなら、その目もえぐり出さなければなりません。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、よいからです。ゲヘナでは、うじは、尽きることがなく、火は消えることがありません(48)。人々は簡単に罪を犯します。手を動かすたびに犯罪が増加し、足が向かう所では、罪を重ねて行きます。手と足が十あっても、足りないくらいです。特に、この頃は映像の時代であり、情報通信の時代であるので、目で罪を犯してしまいがちです。罪はつかの間ですが、しかし、その結果は本当に重大なものです。それは、恥をかいて済む問題ではありません。それよりも、はるかに深刻な問題です。これは、永遠のいのちか、永遠の罰かの問題であり、神様の御国かゲヘナかの問題です。

祈り:主よ!罪を軽んじ、罪を楽しんでいたことを悔い改めます。罪の深刻さを悟るように助けてください。

一言:永遠のいのちか、ゲヘナか


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