聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2014]

2014年 06月 27日 (金)

マルコ10:1-16
結婚の真理を教えられたイエス様

1.結婚と離婚(1-12)
 モーセの時代には、人々は様々な理由を作って、簡単に妻を捨てました。それで、モーセは妻の権利を保護し、離婚を防止するために、正当な理由をしたためた離縁状を書くように、と命じました。しかし、人々はむしろ、その法律を悪用して、離縁状だけ書いて、妻を捨てました。イエス様は、彼らのあやまちを指摘し、創世記にこめられた結婚の真理を教えられました。結婚とは、単なる肉体の情欲を満たすためのものではなく、神様の御心に従って、お互いに一つになることです。結婚は、神様が主管されるので、聖く、神聖で、絶対的なものです。それで、神様が結び合わせたものを、人が自分勝手に引き離してはいけません。夫が妻を捨てて、他の女をめとったり、妻が夫を捨てて、他の男の所に行くのは、姦淫を犯すことです(11,12)。離婚は、一つの体を二つに引き裂くことなので、自分と家庭と社会を破壊させ、大きな傷を残すようになります。
2.子どもたちと神様の御国(13-16)
 弟子たちは、子どもたちをイエス様のところに連れて来た人々を見て、叱りました。イエス様は、弟子たちの心がパリサイ人のようにかたくななのをご覧になり、憤られました。神様の国は、子どもたちのように純粋で、真実な者のものです。子どもたちのように、神様の御国を受け入れない者は、決して、神様の御国に入ることができません。

祈り:主よ!私も世の価値観をもって離婚を軽んじていたことを悔い改めます。イエス様が教えてくださった結婚の真理を受け入れます。

一言:結婚は、神様が結び合わされたもの



2014年 06月 28日 (土)

マルコ10:17-31
永遠のいのちを得る道

1.一つ欠けたこと(17-22)
 ある金持ちの青年が、永遠のいのちを自分のものにしたいという望みの中で、イエス様のみもとに来て、尋ねました。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(17)。彼は幼い時から、徹底的に戒めを守って来ましたが、永遠のいのちに対する確信がありませんでした。イエス様は彼を愛され、一つだけ欠けていることがあると教えてくださいました(21)。彼は戒めをよく守り、道徳的には非のうちどころがありませんでした。しかし戒めの根本にある、愛に生きるということを知らない人でした。イエス様は彼に言われました。「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」愛を実践するというのは、こういうことです。そして、このような愛に生きることこそ、イエス様について行くことなのです。しかしその人は、永遠のいのちではなく、この世の財産に望みを置いていました。本当の宝であるイエス様ではなく、世の宝に望みを置いていたのです。
2.主と福音のために、犠牲する者(23-31)
 財産の多い金持ちが神様の御国に入ることは、ラクダが針の穴を通ることよりも、難しいことです。財産に心が奪われているため、救いを得ることが容易ではなくなるからです。救いは、人の努力や持っている所有で得られるものではなく、神様が施される恵みの賜物です(27)。すなわち、自分のために財産を積む者たちよりも、主と福音のために捨てる人々に与えられる神様の賜物です。主と福音のために、全てのものを犠牲にする人は、現世では迫害の中でも百倍の祝福を受け、来世では、必ず永遠のいのちを受けるようになります。

祈り:主よ!朽ちる世の宝に望みを置かず、本当の宝であるイエス様を所有できるように、助けてください。

一言:本当の宝であるイエス様



2014年 06月 29日 (日)

マルコ10:32-45
仕えるために来られたイエス様

1.高いポストを求める弟子たち(32-41)
 エルサレムに上って行かれる途中で、イエス様は弟子たちに、将来ご自分が受けることを話してくださいました。イエス様は十字架で死なれ、三日目によみがえられます(33,34)。しかし、弟子たちは、このことについて全く悟ることができませんでした。まして、ヤコブとヨハネは、的外れにも、自分たちがイエス様の左右に座ることができるようにと、特別待遇を求めるほどでした。他の弟子たちも、高いポストにつこうとするあまり、心に平安がありませんでした。
2.かえって仕えるために来られたイエス様(42-45)
 イエス様は、高いポストにつこうと互いに競争している弟子たちに、仕える道について教えてくださいました。世の権力者たちは、民たちを思いのままに治め、権力をふるいます。人々は、他の人の上に君臨し、仕えられる者こそが偉大だと考えます。それで、何とかして高いポストに着こうと競争し、争います。しかし、本当に偉大な者は、自分を低くし、他の人に仕える人です。それで、誰でも人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべにならなければなりません(44)。他の人のしもべにならずに、先に立とうとする者は愚かな者です。
 イエス様は、創造主の神様として、全ての被造者から仕えられるのにふさわしい方です。しかし、イエス様は仕えられるために、来られたのではありません。かえって仕えるためであり、多くの人のための贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるために来られました(45)。神様は、このイエス様に、全ての名前の中で最も優れた名前をくださいました(ピリ2:9)。

祈り:主よ!高くなろうとし、仕えられようとする心を悔い改めます。かえって仕えるために来られたイエス様を、学びます。

一言:かえって仕えるために来られたイエス様



2014年 06月 30日 (月)

マルコ10:46-52
盲人の目を開かれたイエス様

1.憐れみを求めるバルテマイ(46-48)
 エリコの町で、一人の盲人のこじきがいました。彼はテマイの子で、名前もなく、「バルテマイ(アラム語で「テマイの子」)」と呼ばれていました。彼の人生は、本当に悲しく、悲惨なものでした。しかし、彼には、イエス様に対する信仰がありました。彼は道ばたに座っていましたが、イエス様だと聞くと叫び始めました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」(47)。彼は、イエス様がキリストであることを信じ、ただ、イエス様に憐れみを求めました。回りの人々はたしなめましたが、彼はますます叫び立てました。イエス様がだれであるのかを知っていたので、彼は心からイエス様にすがりつきました。
2.信仰を祝福してくださったイエス様(49-52)
 バルテマイの切なる思いが、ついにイエス様に届きました。イエス様が彼をお呼びになると、彼は上着を脱ぎ捨て、立ち上がって、イエス様のところに来ました。彼は、望みを聞いてこられたイエス様の質問に、「目が見えるようになることです。」と、はっきり答えました。彼は、他の人たちのように、神様がお造りになった美しい世界を見ることを願いました。何よりも彼は、イエス様が自分の目を開いてくださることを、信じました。イエス様は、このような彼の信仰を祝福してくださいました。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」(52)。すると、彼はすぐさま見えるようになり、イエス様について行きました。どんな人間条件であっても、どんな状況の中にあっても、信仰を持つ時、イエス様の憐れみを受けて、救いを受けることができます。イエス様は、私たちの信仰をご覧になります。

祈り:主よ!私にも、バルテマイのような信仰をくださり、霊的な目が開かれるように、してください。

一言:見えるようになることです


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