聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2014]

2014年 07月 05日 (土)

マルコ12:1-12
ぶどう園の農夫のたとえ

1.しもべたちを送り続ける主人(1-5)
 ある主人がぶどう園を造り、農夫たちに貸して、旅に出かけました。農夫たちは、ぶどう園をよく管理して、主人に収穫の分け前を与えることを約束しました。季節になり、主人はぶどう園の収穫の分けまえを受け取るために、一人のしもべを遣わしました。ところが、農夫たちはそのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰しました(3)。すると、主人は別のしもべたちを遣わしました。農夫たちは、遣わされたしもべたちの頭をなぐり、はずかしめ、殺しました。本当に農夫たちは、恩を仇で返す恩知らずな者たちでした。主人は、悪い農夫たちを、すぐに追い出してしまうこともできました。しかし、彼らの心を立ち返らそうと、続けて別のしもべたちを遣わし続けました。この主人の心は、お選びになった者たちに変わらない愛で接してくださる神様の御心です。
2.ひとり息子さえ遣わした主人(6-12)
 ついに、主人は愛するひとり息子まで、遣わしました。主人の心には、「私の息子なら、敬ってくれるだろう。」という期待がありました。この息子は、主人の相続人なので、主人のように受け入れてくれるだろう、と思っていました。しかし、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしてしまおうとする貪欲のために、主人の愛するひとり息子さえもつかまえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました(7,8)。このような悪い人々を、主人はどうするでしょうか。主人は戻って来て、農夫たちを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。イエス様は、ぶどう園の農夫のたとえを通して、宗教指導者たちの罪を指摘し、悔い改めるように促されました。しかし、彼らは悔い改めるどころか、むしろイエス様を捕らえようとしました(12)。

祈り:主よ!私が農夫のようにかたくなな心であることを告白します。今、神様の御子であるイエス様を敬うように、助けてください。

一言:私の息子は敬うだろう



2014年 07月 06日 (日)

マルコ12:13-27
生きている者の神

1.カイザルのものはカイザルに(13-17)
 パリサイ人たちはヘロデ党と手を組んで、イエス様を試みようと、巧みな質問をしました。「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」(14)。当時、ユダヤ人たちは税金の問題に、神経をとがらせていました。どう答えても非難されるしかありませんでした。その時、イエス様はデナリ銀貨を持って来させて、言われました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(17)。神様を信じる者は、国家に対する義務を果たすだけではなく、同時に、神様に対する義務をも果たさなければなりません。神様の御国に属する者だからといって、国家に対する義務をおろそかにしてはいけません。
2.生きている者の神様(18-27)
 今度は、復活を信じないサドカイ人たちがイエス様のところに来て、来世と復活を否定することを目的に質問をしました(19-23)。七人の兄弟がみな、同じ妻をめとるようになりましたが、みな死んでよみがえった時、彼女は誰の妻になるのか、という内容でした。彼らは、復活があれば倫理的な矛盾が生じるので、復活はありえないと主張しました。イエス様は、彼らの霊的な無知と不信仰を咎め、霊的な世界の秘密を教えてくださいました(24,25)。また、出エジプト記の御言葉を通して、生きている者の神様を証しされました。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、みな、今、神様の御前に生きています。私たちが信じる神様は、死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様です。神様の中には、死んだ者はいません。

祈り:主よ!生きている者の神様を信じることができなかったことを、悔い改めます。今は、生きている者の神様を信じ、復活信仰によって、生きます。

一言:生きている者の神様



2014年 07月 07日 (月)

マルコ12:28-34
一番大切な命令

 イエス様が宗教指導者たちとの議論で、みごとにお答えになったのを知って、感銘を受けた一人の律法学者がいました。それで、常日ごろ悩んでいた問題をイエス様に尋ねました。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」
 当時、イスラエルには、十戒やモーセ五書の他にも、言い伝えで受け継がれてきていた戒めが数多くありました。それで、真摯に戒めを守ろうとする人々は、全ての戒めの精神を反映する核心の戒めが何であるのか、全ての命令の中で一番たいせつなものは何であるのか、すなわち第一の戒めは何であるのかを、知ろうとしました。これは、全ての戒めを理解していなければ答えることができない、難しい問題でした。それに対して、イエス様は、どのように言われましたか。
 第一に、神様を愛しなさい、という戒めです。信仰の生活とは、一つ一つの戒めに引っかからないように生活することではなく、積極的に神様を愛することです。神様を愛するのに、心と思いと知性と力を尽くします。なぜなら、神様だけが唯一の私たちの主であり、愛する価値のある方だからです。
 第二に、隣人を、自分自身のように愛せよ、です。戒めには、隣人に対する義務について、多く出て来ますが、一言でいえば、自分のからだを大切にし愛するのと同じように、隣人も尊く思い、愛することです。
 全ての命令の核心は、神様を愛し、隣人を愛することです。「愛」は、全ての律法を完全なものにします(ロマ13:10)。

祈り:主よ!私の心に愛がないことを悟り、心から悔い改めます。私を、キリストの救いの愛で満たしてくださり、心を尽くして神様を愛し、兄弟を愛するように助けてください。

一言:神様を愛し、隣人を愛せよ



2014年 07月 08日 (火)

マルコ12:38-44
イエス様が尊く思われること

1.形式より内面(38-40)
 イエス様は弟子たちに、「律法学者たちには気をつけなさい。」と戒められました。律法学者たちは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたり、会堂や宴会の上座に座ることを好みました。また、祈る時も、人を意識して、見栄を飾るために長い祈りをしました。しかし、彼らの心は貪欲で満ち、無慈悲で、やもめの家を食いつぶしました。彼らは、人々の目はだませても、神様のさばきは逃れることはできません。イエス様の弟子たちは、彼らと違っていなければなりません。少し足りないように見えたとしても、その内面はきよく、聖なるものでなければなりません。
2.献金の額よりも、姿勢(41-44)
 イエス様は献金箱に向かってすわり、人々が献金する様子をご覧になりました。多くの金持ちが大金を投げ入れました。彼らは、これ見よがしに、誇らしげに献金しました。反面、一人の貧しいやもめは、レプタ銅貨を二つ入れて、恥ずかしそうにしていました。しかし、イエス様は弟子たちを呼び寄せて、言われました。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん献金しました。なぜなら、自分の生活費の全部を投げ入れたからです。女は、
単純にお金をささげたのではなく、自分自身をささげました。神様は、金額よりも、心をささげ、私たちをささげたこと自体を喜ばれます。

祈り:主よ!形式に捕らわれ、形だけをつくろった偽善を悔い改めます。私も、自分の心を砕いて、まず自分を主にささげます。

一言:自分自身をささげよう


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