聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2017]

2017年 04月 09日 (日)

マルコ14:1-9(6)
わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです

 しかし、イエス様はこう言われました。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」貧しい人たちは、いつもいっしょにいるので、いつでも彼らに良いことをしてやれますが、イエス様ご自身は、彼らといつもいっしょにいるわけではないと言われました。イエス様は彼女の行動こそ、ご自身の埋葬の用意であると認めてくださいました。そして、世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、彼女のした事も語られて、彼女の記念となると話されました。
 彼女がイエス様にした献身を人々は無駄だと思います。しかし、イエス様は私たちがイエス様に捧げる献身を一つ残らず受け取ってくださいます。それだけではなく、私たちの献身を永遠に覚えていてくださいます。イエス様への献身は決して無駄ではありません。

適用:献身を無駄だと思っていませんか

一言:献身はりっぱなことです



2017年 04月 10日 (月)

マルコ14:10-26(24)
これはわたしの契約の血です

 イエス様はパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われました。「取りなさい。これはわたしのからだです。」これはイエス様が十字架につけられ、裂かれる苦しみを通して、弟子たちがいのちを得ることを意味します。また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられました。そして、「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」と言われました。契約の血とは、血をもって契約を保証するという約束です。神様がエジプトに下された初子の裁きの際、過越の小羊の血によって救われたように、イエス様の十字架の血は、神様の永遠の裁きから救いを得させてくださいます。
 ですから、イエス様が十字架で流す血は、罪による裁きから、私たちを救ってくださるという契約の血です。イエス様が十字架で私たちのために血を流されたことを信じるとき、イエス様の約束通り、私たちは罪の赦しを受けます。
イエス様の十字架は、私たちにはいのちのパンであり、罪の赦しを与えてくださる契約の血です。イエス様の十字架を見上げるとき、私たちにはイエス様から豊かないのちが与えられ、罪赦しの御恵みを受けます。

適用:罪の赦しを受けたいですか

一言:イエス様の契約の血を飲まなければなりません



2017年 04月 11日 (火)

マルコ14:27-42(36)
あなたのみこころのままを、なさってください

 イエス様はゲツセマネという所に行かれました。人類のすべての罪を担う十字架はあまりに重すぎると感じ、悲しみのあまり死ぬほどでした。しかし、イエス様は神様の御前に進み出て、地面にひれ伏して祈られました。人となって肉をまとい、この世に来られたイエス様にとって、この十字架の杯はできることなら飲みたくないものでした。「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」と切に願いました。しかし最後には、「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈られました。この祈りは、イエス様の願いを父なる神様の御心に服従させようとする霊的な戦いでした。
 イエス様が祈りの戦いをしておられる間、弟子たちは眠っていました。豪語した彼らは、祈りませんでした。イエス様は「眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」とシモンを叱りました。イエス様は三度、神様の御前で祈られました。最初は十字架の重荷で悲しみのあまり死ぬほどでしたが、切に祈られるうちに、悲しみと苦しみは消え去り、大胆に十字架の杯を飲む勇気と力を受けられました。イエス様と弟子たちの姿にはあまりにも大きな差があります。私たちにも、悲しみのあまり死ぬほど苦しい思いをする杯があるはずです。しかし、父なる神様の御前に進み出て、切に祈る霊的な戦いをするとき、私たちはその十字架を担う勇気と力を受けることができます。

適用:目の前に、苦難の杯がありますか

一言:祈りましょう



2017年 04月 12日 (水)

マルコ14:43-72(62)
わたしは、それです

 大祭司、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来て、イエス様を尋問しました。彼らは定められた時間にではなく、夜明けに、偽証の証人たちを立てて行いました。イエス様は黙ったまま、何もお答えになりませんでした。ただ、大祭司の「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」という尋問には、「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」と答えられ、ご自身がキリストであることを明らかにされました。生きながらえたいのであれば、こんな態度をとるはずがありません。イエス様は、父なる神様の御心が成就されるために、ご自身のことを明らかにされたのです。
 ところが、ペテロは死を恐れ、イエス様よりも自分のいのちを愛しました。彼はのろいをかけて誓い始め、大祭司の女中の前でイエス様の弟子であることを隠し、イエス様を否定しました。イエス様は父なる神様と私たちのために、いのちを捨て、真理の道、十字架の道を行かれました。ペテロは自分のいのちのために、イエス様と真理を捨ててしまいました。ペテロは人生の危機のとき、信仰を捨てました。そんなペテロは、イエス様のおことばを思い出し、泣き出しました。

適用:イエス様の弟子であることを明らかにしていますか

一言:私がイエス様の弟子です


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