聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2017]

2017年 04月 13日 (木)

マルコ15:1-15(15)
イエス様を十字架に引き渡したピラト

 その時の祭りでは、民たちの願う囚人を一人だけ赦免する慣習がありました。群衆はいつものようにしてもらうことをピラトに要求しました。ピラトはこの機会を利用して罪のないイエス様を釈放しようと試みました。しかし、祭司長たちは群衆を扇動し、むしろ凶悪犯バラバを釈放するようにと群衆は叫びました。そして、イエス様を十字架につけるようにますます激しく叫んだのです。ピラトは祭司長たちが妬みからイエス様を引き渡したことに気付いていました。彼にも裁判官としての良心があったので、イエス様を釈放しようと彼なりには努力しました。しかし、ユダヤで暴動が起きることを恐れ、自分の政治生命に傷がつくようなことまではしようと思いませんでした。結局、彼は群衆の機嫌をとろうとバラバを釈放し、そして、イエス様をむち打って後、十字架につけるように引き渡しました。当時のピラトの姿は、真理に背いて妥協し、実利を選ぶ今日の人々の姿と同じなのではないでしょうか。

適用:真理と実利、どちらを選びますか

一言:いくら損害を被っても真理の側へ



2017年 04月 14日 (金)

マルコ15:16-32(30-31)
自分を救わなかったイエス様

 兵士たちはイエス様をゴルゴタの場所へ連れて行き、十字架につけました。道を行く人々は、頭を振りながらイエス様をののしりました。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」祭司長たちと律法学者たちもイエス様を嘲りました。また、イエス様といっしょに十字架につけられた者たちもイエス様を罵りました。イエス様ならご自分を救い、十字架から降りて来ることも可能です。しかし、神様から任せてられた救いの御業を完成させるために、また、愛する人々の救いのためにご自分を救いませんでした。サタンは私たちに、自分を救うために十字架から降りて来なさいと誘惑します。それでも私たちが自分を救わずに十字架を背負うのは、神様が私たちに任せてくださった羊たちのいのちを救うためです。

適用:自分を救ってみろという誘惑の声が聞こえますか

一言:最後まで十字架の上で



2017年 04月 15日 (土)

マルコ15:33-47(34)
どうしてわたしをお見捨てになったのですか

 イエス様は、なぜ神様からさえも見捨てられなければならなかったのでしょうか。それは、私たちの罪のためです。人々は罪に対して軽く考えます。しかし、罪は決して軽いことではありません。罪を犯せば、神様から永遠に見捨てられて、呪いと刑罰を受けなければなりません。このように罪は恐ろしいのです。私たちは罪のため、神様から永遠に見捨てられる運命でした。しかし、イエス様が私たちの代わりに捨てられたので、私たちは救われるようになりました。イエス様が十字架で死なれた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは、イエス様が十字架にかかって死なれることで、罪人たちが神様に出て行ける新しい生ける道が設けられたことを意味します(へブル10:20)。一方、十字架刑を執行した百人隊長は、イエス様がこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と告白しました。十字架はアリマタヤ出身のヨセフの心にも大きな変化を起こしました。ヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエス様のからだの下げ渡しを願い、イエス様の体を亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めました。

適用:どうしてイエス様は呪われましたか

一言:私の罪のため


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