聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2022]

2022年 02月 01日 (火)

マルコの福音書1:1-8(1)
福音のはじめ

マルコは、福音のはじめ、を記録しています。天地創造のように、新しい御業が広がっていくのです。福音のはじめは、バプテスマのヨハネから始まります。彼は預言者イザヤの書に書かれているとおりに、主の道を備えました。彼の出現は、旧約聖書に予告されていました。彼は荒野に現れて、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ(洗礼)を宣べ伝えました。当時の宗教指導者たちは、自分たちユダヤ人は、アブラハムの子孫、神に選ばれた特別な民であり、異邦人たちとは違って罪の問題はないと説いていました。そして、異邦人がユダヤ教に改宗する時に、水に全身を浸すバプテスマを授け、罪・汚れから清める儀式を行っていました。ところが、バプテスマのヨハネは、ユダヤ人であっても悔い改めて罪の赦しを求めることが必要だと説きました。また、自分は悔い改めのバプテスマを授けるけれども、自分より力のある方が後に来られ、その方は、罪をなくす聖霊のバプテスマをお授けになるとも知らせました。

「始まり」には多くの種類があります。しかし、一人のたましいに福音の力が働くこと以上に大きな感激のある「始まり」はありません。福音は、私たちの罪の問題がイエス様を通して解決されるという知らせです。罪の赦しを受けるためには、まず自分が一人の罪人でしかないことを心から認めなければなりません。そうする時、キリストを心に受け入れ、罪の赦しの恵みを受けることができます。福音の力を体験し、その喜びと感動を味わうことができます。



適用:新しい始まりを求めていますか

一言:罪を告白し



2022年 02月 02日 (水)

マルコの福音書1:9-13(11)
わたしの愛する子

 イエス様は、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。イエス様は罪人ではないので、バプテスマを受ける必要がありません。ところが、悔い改めのバプテスマを受けられることで、罪人の位置まで低くなられました。これは、イエス様の人生が、私たち罪人を贖うものであるからです。バプテスマを受けたイエス様は、水から上がると、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に下って来るのをご覧になりました。イエス様に臨まれた鳩のような御霊は、純潔な霊であり、平和の霊であり、犠牲の霊であります。この出来事は、ご自分の公生涯を通して神様と人との関係が回復されること、聖霊が常に共にしてくださることを、イエスさまに確信させました。イエス様は、御霊のご臨在を通して、ご自分の人生に対する確信と信仰を受け入れられました。父なる神様は、イエス様がご自分の愛する子であり、また喜ぶものであることを認めてくださいました。この後、イエス様は聖霊によって荒野に導かれ、サタンの試みを受けられました。イエス様はサタンの試みに勝ち、勝利することで、私たち人間を救ってくださるメシヤであることを立証されました。

 イエス様には罪がないですが、罪人のようになられました。神様の御旨に従って、罪人たちを救うためでした。イエス様には御霊のご臨在と、父なる神様の証言などが共にありました。イエス様はサタンの試みを退けられました。このイエス様によって、私たちも罪の赦しを受け、神様との関係を回復するようになりました。また、サタンを退けることができるようになりました。



適用:だれが私たちを救うことができるでしょうか

一言:神様の御子



2022年 02月 03日 (木)

マルコの福音書1:14-20(15)
悔い改めて福音を信じなさい

 イエス様はヨハネが捕らえられた時、ガリラヤに来られました。そして神様の福音を宣べ伝えられました。イエス様はこのように言われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」「女の子孫を送る」という神様の約束が成就する時が満ちました(創3:15, ガラ4:4)。イエス様を通して、神様の統治が人々に臨むようになりました。だれでも、悔い改めてイエス様を受け入れるなら、神様との関係は回復され、神様の統治を受けるようになります。これが、この世で一番の喜びの知らせ、すなわち、福音です。イエス様は福音を宣べ伝えるだけではなく、福音を伝える働き人を召されました。彼らは、漁師シモンとアンドレ、そして、ヤコブとヨハネでした。イエス様は彼らを、人間をとる漁師として召してくださいました。人間をとる漁師は、滅亡の海で死んで行く人々を救い出す人々です。彼らは召された時、網と同僚たちを置いて、イエス様の召されに応じました。

 この世で最も意味ある仕事は、福音を宣べ伝えることです。人々はサタンの統治を受けています。罪と死の海で、もがいています。このような彼らに、他のどんな知らせを伝えても、本当の幸せを与えることができません。福音だけが、根本的で、永遠のいのちを与えます。イエス様は熱心に福音を宣べ伝える一方で、福音を宣べ伝える働き人を召して育てられます。世の中で最も貴い仕事は、福音を受け入れ、宣べ伝える仕事です。



適用:神の御国の民になりましたか

一言:悔い改めて福音を信じなさい



2022年 02月 04日 (金)

マルコの福音書1:21-28(25)
黙れ この人から出て行け

 イエス様がカペナウムに入られた時、安息日に会堂に入って行かれました。そこで、イエス様は大変権威ある教えを施されました。その権威に多くの人々が驚くほどでした。権威に欠ける律法学者たちとは、はっきりと区別されました。ちょうどそこに、汚れた霊に取りつかれた人がいました。汚れた霊は、その人を捕え、汚れた人生を生きるようにさせました。ところが、イエス様が来られ、御言葉を宣布されると、その汚れた霊が声を上げ始めました。「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのかを知っています。神の聖者です。」イエス様はその汚れた霊に、黙るようにとお叱りになりました。「この人から出ていけ」と言われました。すると汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて出て行きました。人々は、イエス様の霊的な権威とその御言葉の権威に驚きました。

 神様の統治が及ばないところに、汚れた霊が働きます。汚れた霊は人々の中に入って行き、彼らのたましいを支配します。彼らの人生を狂わせ、汚します。人が神様の統治を受けるとき、愛、誠実、平安、分別が与えられます。ところが、汚れた霊の支配を受けるなら、敵意、混乱、不安が与えられます。私たちの生活の中にイエス様が来られ、その権威ある御言葉が私たちの心を収める時、汚れた霊が出て行くようになります。私たちは力強くイエス様を受け入れ、その御言葉に治められなければなりません。また、イエス様を宣べ伝え、その御言葉を教えなければなりません。



適用:汚れた霊をどうやって追い出しますか

一言:イエス様の御言葉



2022年 02月 05日 (土)

マルコの福音書1:29-39(38)
近くにある別の町や村へ行こう

 会堂から出て来たイエス様は、四人の弟子たちと共にシモンの家に行かれました。そこには、シモンの姑が熱を出して、横になり、苦しんでいました。人々は心を痛めながら、シモンの姑についてイエス様に話しました。イエス様は彼女に愛の御手を伸ばされました。そして彼女を起こされました。彼女は感謝にあふれて、イエス様に仕えました。すると、夕方になり、イエス様の噂を聞いた人々が、多くの病人と悪霊につかれた人をイエス様のもとに連れて来ました。イエス様は様々な病気にかかっている人々を癒され、多くの悪霊たちを追い出されました。イエス様は、霊的、肉体的に病んでいる人々を癒され、健やかにされました。イエス様は朝早く、まだ暗いうちに、寂しいところに出かけて行き、祈られました。イエス様は病んだたましいに対する牧者の心情を持って、祈りました。また、いのちを救う御業のために、祈られました。その時、多くの人々がご自分を探しているという、弟子たちのことばを聞かれました。イエス様は、別の町や村に行って、そこで福音を伝えようと言われました。イエス様は一つの村にとどまらず、ガリラヤの全土を回りながら、伝道し、悪霊を追い出されました。

 イエス様は一か所にとどまらない働き人でした。イエス様はガリラヤの全土を巡りながら伝道し、悪霊を追い出し、病気の人を癒されました。伝道者は一つの場所にとどまっているよりは、できる限り、いろんな所をめぐり、福音を伝えなければなりません。ほかの場所でも、私たちを待っている多くの人々がいます。私たち自身にはこの御業を担う力がありません。ですが、イエス様のように朝早く目を覚まして祈る時、神様がその働きを担う力をくださいます。その時、私たちは多くのところで、多くの人々を救うことができます。



適用:ほかのところでも、私を待っている人がいることを知っていますか

一言:ほかの場所にも



2022年 02月 06日 (日)

マルコの福音書1:40-45(41)
わたしの心だ きよくなれ

 あるツァラアトに冒された人がイエス様にひざまずいて願いました。彼はイエス様が願われるなら、自分をきよくすることができると告白しました。その体が、全身がツァラアトのために汚れていました。ツァラアトは当時の医療では治療できない不治の病だったので、彼は死刑宣告を受けた囚人のように、絶望的な人生を生きなければなりませんでした。彼は不治の病にかかり、死ぬしかない人生に対する絶望と寂しさに苦しまなければなりませんでした。さらに彼は不浄な者の扱いを受け、社会的に隔離されなければなりませんでした。ところが、このツァラアトの患者には、イエス様が願われるなら、自分をきよめてくださるという信仰がありました。その信仰があったので、イエス様の御前に出て行くことができました。彼はイエス様の前にひざまずいて、イエス様の恵みを求めました。イエス様は彼を深く憐れました。彼の心にある苦痛を知っておられたからです。イエス様は、ツァラアトによって汚れた彼の体に手をおいて、「わたしの心だ。きよくなれ。」(41)と言われました。すると、ツァラアトがその人から離れ、彼はきよめられました。

 イエス様は、絶望的なツァラアトに冒された人も、きれいに治療してくださる方です。ツァラアトが人の肉体をむしばむように、罪は人のたましいを汚します。ツァラアトに伝染性があるように、罪も大変強い伝染性を持っています。ツァラアトが不治の病だったように、罪も人の力では克服することができません。しかしイエス様は、ツァラアトに冒された人をきよめてくださったように、罪によって汚れたものをきよめてくださいます。私たちをきよめてくださるイエス様に出て行き、祈るなら、イエス様は罪によって汚れた私たちをきよめてくださいます。新しい人生を生きるようにしてくださいます。



適用:私にある罪の汚れは何か

一言:きよくなれ


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