聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2007]

2007年 03月 14日 (水)

ルカ5:1-11
シモン・ペテロを招かれたイエス様

Ⅰ.深みに漕ぎ出して(1-7)
 朝早く、群衆は神様の御言葉を慕い求めて、ゲネサレ湖の岸辺に集まって来ました。イエス様はシモンの舟を借りて、その上に座り、御言葉を教えられました。その後イエス様はシモンに関心を持たれ、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。この御言葉は、今まで経験できなかった深い世界にシモンを導こうとされる、招きの御声です。深い世界とは、常識と理性と経験を超越した霊的な世界、信仰の世界をさします。シモンが従順することは難しいですが、ただ御言葉に頼り、従った時驚くべき力を体験するようになりました。
Ⅱ.あなたは人間をとるようになるのです(8-11)
 シモンはこの出来事を通して、全能で聖なるイエス様を発見しました。そして主の前で罪人としての自我を発見し、罪を告白しました。イエス様は、昔の彼のすべての罪を赦してくださり、彼に人生の目的と使命をくださいました。「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」。イエス様は、彼が魚を取る無意味な人生を清算し、人間をとる偉大な使命人の人生を生きるように助けてくださいました。罪によって死んでいく人々を、真理の御言葉で救い、主の弟子に育てることこそ、最も偉大なことなのです。

祈り:主よ!これから後は、イエス様のように人間をとる偉大な使命人の人生を生きることができるように助けてください。

一言:あなたは人間をとるようになるのです



2007年 03月 15日 (木)

ルカ5:12-16
らい病人をきよめられたイエス様

Ⅰ.主よ、お心一つで(12)
 イエス様がある町におられた時、全身らい病の人がイエス様のところに行き、ひれ伏してお願いしました。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」
当時らい病は不治の病でした。しかし彼はイエス様が自分の病気を治してくださることを信じていました。彼はイエス様を信じ、ただ憐れみだけを求めました。
Ⅱ.わたしの心だ(13-16)
 イエス様はらい病人の願いを聞き入れ、彼に手を伸ばして言われました。「わたしの心だ。きよくなれ。」イエス様が彼にさわられたのは、暖かい愛の表現でした。イエス様は信仰によって出て来た彼を暖かく迎え入れ、きよくなることを、切に願われました。イエス様は、彼がらい病から癒され、きよい者になることを願われました。イエス様は彼をきよめてくださっただけではなく、正常な社会生活ができるように助けてくださいました。罪はらい病のようです。罪は神様と人間、人と人の間を断絶させます。罪は人を醜くし汚します。罪は神様のかたちを破壊します。何もこの罪の問題を解決することができません。ただイエス様の尊い血だけが罪をきよめることができます。

祈り:主よ!私がらい病人のように醜い罪人です。ありのままの姿で出て行きますので、十字架の血で清めてください。

一言:十字架の血で私を清めてください。



2007年 03月 16日 (金)

ルカ5:17-26
罪を赦す権威を持っておられるイエス様

Ⅰ.中風をわずらっている人の友だち(17-20a)
 イエス様が御言葉を教えておられる時、人々が一人の中風をわずらっている人を、床のままで運んで来て、イエス様の前に置こうとしていました。しかし人があまりにも多くいるのでどうすることもできませんでした。その時彼らは延期したり放棄したりしませんでした。彼らは屋上に上って屋根の瓦をはがし、病人の寝床を、イエス様の前につり降ろしました。彼らにはどんな絶望の状況の中でも、放棄せずに挑戦する信仰がありました。彼らは信仰によって障害物を乗り越えました。イエス様は彼らの信仰をご覧になり大いに喜ばれました。
Ⅱ.中風をわずらっている人の罪を赦してくださったイエス様(20b-26)
 イエス様は彼らの信仰をご覧になり、中風をわずらっている人に罪の赦しを宣布されました。彼らの信仰は中風をわずらっている人の信仰も含みます。イエス様は中風ではなく、その内面に働く罪の問題であることをご覧になり、罪の問題を解決されました。「あなたの罪は赦されました。」。これは罪によって無気力になった罪人に罪の赦しを宣布する御言葉です。これに律法学者たちはひどく反発しました。イエス様は中風の人を起こし歩かせることで罪の赦す権威を持っておられることを証明しました。罪の赦しの恵みは根本的に人を変えます。

祈り:主よ!私が罪の赦しの恵みを受け、依存心が強く無気力な生活から起き上がり、自立する生活をするように、助けてください。

一言:イエス様はこの地に来られた神様



2007年 03月 17日 (土)

ルカ5:27-32
罪人を悔い改めさせるために来られたイエス様

Ⅰ.わたしについて来なさい(27,28)
 当時取税人はローマ帝国のために同族の血を売る者だったので、人々から後ろ指を指されていました。レビは取税人であり金持ちでした。しかし彼の生活は無意味であり、孤独であり、みじめでした。
 イエス様は、人々から後ろ指をさされ、蔑しまれるレビを弟子として召されました。「わたしについて来なさい。」。この御言葉を聞いたレビは全てのものを捨てて、イエス様について行きました。彼は罪深い昔の生活を清算し、新しい人生を出発するようになりました。「わたしについて来なさい。」と言われたイエス様は折れた葦、くすぶる燈芯のような人にも希望を置かれる望みの神様です。
Ⅱ.罪人を悔い改めさせるために来たのです(29-32)
 レビを招かれるイエス様の恵みに感謝して、彼はイエス様のために大きな宴会を開きました。全ての取税人の友だちを招きました。イエス様はいくらひどい罪人であっても罪を悔い改め立ち返る者と共に食卓につく愛と恵みの神様です。
 しかしパリサイ人たちは形式に縛られて、愛が乾ききり、イエス様をひどく批判しました。しかしイエス様は病んだ罪人を招き、悔い改めさせるために来られた霊的な医者です(31,32)。

祈り:主よ!取税人のように利己的なこの罪人も赦され、弟子として召してくださり、感謝と賛美をささげます。私も主の心を抱き、病んだ罪人たちに謙遜に仕えるしもべになるようにしてください。

一言:罪人を招くために来られた愛と望みの主



2007年 03月 18日 (日)

ルカ5:33-39
新しいぶどう酒は新しい皮袋に

Ⅰ.花婿のたとえ(34,35)
 イエス様は、ご自分が花婿であり、弟子たちは花婿につき添う友だちに、たとえられました。披露宴の客は花婿と一緒にいる間は、断食の日にも断食しませんでした。このような花婿であるイエス様と一緒にいる弟子たちも断食する必要がありません。花婿と一緒に飲み食いし、踊らなければなりません。
 信仰生活とは額にしわを寄せて強制的に行なう苦行や禁欲の生活ではありません。足りないですが、イエス様をお迎えして、まるで披露宴のように恵みと喜びと感謝に満ち溢れる生活をすることです。
Ⅱ.新しいぶどう酒のたとえ(36-39)
 たとえの中で、新しい着物と新しいぶどう酒は、福音信仰を指します。古い着物と古い皮袋はパリサイ人たちの古い伝統と形式に縛られた信仰を意味します。この二つは互いに調和することもできず、つなぎ合わせることもできません。イエス様は、私たちが古い伝統や宗教の形式に縛られた生活をすることを、願われません。ただイエス様を心にお迎えし、変えられ、日々新しくなることを願われます。福音信仰とは絶えず悔い改め、新しいぶどう酒であるイエス様を受け入れる生活をすることです。

祈り:主よ!私が古い形式に捕らわれて古い皮袋のような生活をしていたことを悔い改めます。私が新しい皮袋のように学ぶ心と悔い改めの心情を日々持つことができるように助けてください。

一言:新しいぶどう酒は新しい皮袋に


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