聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2007]

2007年 05月 01日 (火)

ルカ14:1-11
自分を低くする者

Ⅰ.水腫をわずらっている人を癒されたイエス様(1-6)
 ある安息日に、イエス様がパリサイ派の指導者の家に食事をするために入って行かれました。ところがパリサイ人たちが水腫をわずらっている人を癒すかどうかを見ていました。もし直せば、安息日法を破ったと告訴するつもりでした。
 彼らはみずから律法をよく守っていると考えていましたが、安息日に本当にすべきことは何であるのかを、よく知りませんでした。彼らは、もし息子や牛が井戸に落ちたら、安息日であっても助けていました。イエス様はこのような彼らの偽善を咎められ、水腫をわずらっている人を癒してくださいました。イエス様は律法や形式より人をもっと大切に思われました。
Ⅱ.自分を高める人に与える教訓(7-11)
 イエス様は、招かれた人々が上座を選んでいる様子に、気づいておられました。彼らはそれぞれ自分を高めようとしました。このような人々は人の前で自分を現すことを好みます。内容はなくても、虚勢をはることを好みます。しかし結局は人々の前で恥をかくようになります。イエス様は、人々から高くしてもらいたいなら、自分を低くしなければならないことを、たとえで教えられます。
 神様は、自分の栄光を求めず、自分を低くする人を高くしてくださいます。

祈り:主よ!私が人々の前で自分を現そうと努力して来たことを考え、ひどく恥ずかしく思います。主の謙遜な心を抱くことを願い求めます。

一言:自分を低くする人が高くなる



2007年 05月 02日 (水)

ルカ14:12-24
もうすっかり、用意ができましたから。

Ⅰ.お返しすることのできない人を招きなさい(12-14)
 私たちは、人を食事に招くことでも利害打算をしてしまいます。このようにしては主から何の賞ももらうことができません。到底お返しすることができない人を招く時、神様の報いを受けることができます。なぜなら彼らこそ助けが必要な人だからです。人を招待する時も主の心を抱かなければなりません。
Ⅱ.救いの招きを尊く思う者(15-24)
 神様は人々を憐れまれ、救いのために必要な全てのものを、用意して置かれました。そして主のしもべたちを遣わして、切に招いておられます。
 神様は初めに選ばれた選民たちを招かれました。しかし彼らは口をそろえて、それらしい言い訳をして、招きを拒みました。彼らはみな、神様の御国より、飲み食いし、売買し、結婚をするなどの世のことを、もっと尊く思いました。いくら選ばれた人々だとしてもこのような人々は神様の御国の宴会にあずかることができなくなります。
 神様は、今もそのしもべたちに、全ての人を条件なしに招くように、命じておられます。救いには人間条件も必要ありません。神様の招きを受け入れ、信仰によって出て来る人は誰でも救いを得ます。

祈り:主よ!私が主の心を受け入れます。主の招きを、この世のどんなものよりも尊く思うように、信仰をください。

一言:急いで行って、連れて来なさい



2007年 05月 03日 (木)

ルカ14:25-35
イエス様の弟子になるには

Ⅰ.自分のいのちまでも憎まない者は(26)
 イエス様の弟子になるためには、両親、妻子、兄弟姉妹、そして自分のいのちよりも、イエス様をもっと愛さなければなりません。血縁を断ち切るだけではなく、自分のいのちまでも捨てる覚悟がなければ、イエス様について行くことができません。イエス様は私たちに絶対的な愛を要求されます。
Ⅱ.自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は(27)
 イエス様について行く者は、基本的に自分の十字架を負わなければなりません。十字架を負わずにイエス様について行こうとする人は、結局主の弟子になることができません。なぜならイエス様が自ら十字架を負って、私たちの先頭を行かれるからです。自分の十字架とは他人が代わりに負うことができない使命の十字架です。
Ⅲ.自分の財産全部を捨てないでは(28-35)
 イエス様について行く生活は、塔を築いたり戦争を行なったりするほど大切なことです。イエス様の弟子になろうとする人は支払うべき代価とその結果を慎重に考えなければなりません。
 イエス様の弟子になるためには自分の財産全部を代価として支払う覚悟がなければなりません。イエス様の弟子になることは、それだけの価値があります。

祈り:私が主について行きながらも、弟子らしい生活ができなかったことを悔い改めます。絶対的に主だけを愛します。

一言:覚悟と決断


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