聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2007]

2007年 05月 11日 (金)

ルカ18:1-8
失望せずに、祈りなさい

Ⅰ.やもめの相手をさばいた不正の裁判官(1-6)
 この不正の裁判官は神様を恐れずに、人を無視します。彼はお金を愛し、権力に弱く、金持ちや権力者たちに有利な判決を出しました。彼はしばらくの間、ひとりの貧しくて力のないやもめのくやしい訴えを黙殺してしまいました(4a)。
 しかしそのやもめがどれだけ切実に訴えたのか、どれだけ悩ましたのか、その不当な裁判官が仕方なくやもめのために裁判をしてあげようとしました。不正な裁判官であっても、切実に放棄しない訴えには降伏してしまいました。放棄しない切なる願いが勝ちました。
Ⅱ.まして神は(7,8)
 不正な裁判官であっても切なる訴えは聞き入れます。神様はどうでしょうか。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」
 神様は不正な裁判官に比べることができません。選ばれた人々を愛され、私たちの祈りに必ず答えてくださいます。問題は私たちの信仰です。たとえすぐに祈りが聞かれず、問題がむしろ複雑になっても、神様を信じて、祈り続けなければなりません。

祈り:主よ!私が祈って、すぐ失望してしまいます。これからは失望せずに切に祈り続けます。祈りに答えてください。

一言:祈りは必ず答えてくださいます。



2007年 05月 12日 (土)

ルカ18:9-17
傲慢な者に対する警告

Ⅰ.自分を誇るパリサイ人(9-12)
 パリサイ人は自分を自ら区別しました。彼は自分が週に二度断食し、所得の十分の一をいつもささげていることを誇りました。自分は他の罪人たちと違うことを強調し、彼らを無視し、人間扱いをしませんでした。
 ところが神様は自分を誇るパリサイ人を義とされません。神様は傲慢な者をむしろ低くされます。神様の前では誰も自分を誇ることができません。神様は自分を誇る者を悲しまれます。私が自分を高めたからといって、高くされるわけではありません。
Ⅱ.自分の胸をたたく取税人(13-17)
 反面、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けることができませんでした。ただ自分の罪によって胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」
 神様はそのような取税人を、むしろ義とされました。神様の前で自分を低める者を、神様は高くされます。幼子のように謙遜な心を持った者が天の御国を得るようになります(16,17)。神様が高くされる者が高くなります。それで私たちは自分を誇ってはならず、神様の前で罪人の心情を持たなければなりません。

祈り:主よ!私が自分を誇る罪を悔い改めます。私が罪人であることを知り、嘆き悲しむ心を持って出て行きますので、私を受け入れてください。

一言:嘆き悲しむ心を持とう



2007年 05月 13日 (日)

ルカ18:18-30
永遠のいのちは神様の賜物

Ⅰ.永遠のいのちに対する願い(18)
 ある役人が、イエス様に永遠のいのちを自分のものとして受けることができる方法について質問しました(18)。現実の成功や富がいのちではありません。現実の成功だけを夢見る現代人は永遠のいのちについて願い、それを得ようとしなければなりません。
Ⅱ.あなたの持ち物を全部売り払い(19-23)
 永遠のいのちを得るためには、まず尊い神様の戒めを守らなければなりません(20)。そして次に金持ちは持ち物を全部売って、貧しい人々に分け与え、イエス様について行かなければなりません(22)。その望みと愛の対象が世の富から、神様に変わらなければなりません。彼が持ち物に未練を持っている限り、永遠のいのちを得ることができません。持ち物に対する願いよりは、神様に対する望みがさらに大きくなくてはなりません。神様を得ようとしなければなりません。神様を得る時、永遠のいのちを得るようになります。
Ⅲ.永遠のいのちは神様の賜物(24-30)
 人の心では持ち物を全部捨てることはできません(23-25)。人の持ち物に対する執着心はまるで鉄が磁石にくっつくようなものです。ただ神様の恵みによってのみ可能なのです。「人にはできないことが、神にはできるのです。」永遠のいのちを得ることは神様の恵みの御業であり、人が神様にだけ望みを置き、持ち物より神様をもっと喜ぶ時に与えられます。結局永遠のいのちは神様の賜物です。

祈り:主よ!私が世の持ち物より永遠のいのちを得ることを願います。主の恵みの御業として、私が持ち物より神様をもっと願います。

一言:神様の恵みによって永遠のいのちを得る



2007年 05月 14日 (月)

ルカ18:31-43
わたしに何をしてほしいのか

Ⅰ.イエス様の死と復活が知りたいです(31-34)
 イエス様は、預言者たちが預言する通りに、異邦人たちに引き渡され、あざけられ、結局殺されます。そして三日目によみがえります。ところが弟子たちはこの御言葉を悟ることができませんでした。それはこの御言葉が隠されていたからです。彼らはその御言葉を知ろうとも思いませんでした。弟子たちは、イエス様の死と復活の霊的、歴史的な意味を知り、受け入れるために、神様に祈らなければなりませんでした。十字架と復活の秘密は弟子たちの力では知ることができません。神様が御霊を通して悟らせてくださらなければなりません。それで弟子たちは祈らなければなりません。
Ⅱ.主よ。目が見えるようになることです(35-43)
 イエス様が行かれる途中、一人の盲人が座って物乞いをしていました。彼は、イエス様がお通りになるのだ、という知らせを聞いて、叫びました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」人々は彼を黙らせようとしましたが、そのようにすればするほど、彼はますます叫び立てました。盲人がイエス様に願い求めるものは分かり切っていました。「主よ。目が見えるようになることです。」それは人の同情やいくばくかのお金ではなく、根本的な問題解決でした。彼は目を開けて見ることを願いました。その願いは聞き入れられました。私たちも、イエス様に、根本的な問題解決を願わなければなりません。

祈り:主よ!私が霊的な目が開かれ、イエス様の死と復活を始めとするすべての霊的な世界の秘密が知りたいです。

一言:主よ、目が見えるようになることです


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