聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2020]

2020年 02月 21日 (金)

ルカの福音書7:18-23(23)
つまずかない者は幸いです

 ヨハネの弟子たちはイエス様のなされたことをすべてヨハネに報告しました。イエス様は多くのしるしを行われ、神のみことばを伝えられました。特に、やもめの死んだ一人息子の青年を生き返らせ、驚くべきわざをなされました(7:12-17)。人々は偉大な預言者が来られたと驚いていました。このような中で、洗礼者ヨハネは弟子をイエス様のところに遣わし、おいでになるはずの方は、あなたなのか、それとも、他の方を待つべきなのかと質問させました。イエス様は、人々を悪霊から癒し、盲人を見えるようにされ、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい人に福音が延べ伝えられていることをヨハネに告げるように答えられました。これらは旧約聖書にて預言されたメシヤのしるしです(イザ35:5-6, 61:1)。イエス様ご自身がメシヤであることを明らかに示されたのです。イエス様は私たちを罪のすべてと病、死から救って下さるあわれみの主です。
 だれでもイエス様につまずかない者は幸いだとイエス様は仰せられました。イエス様に対する私たちの信仰はどうして揺れるのでしょうか。それは、自分の判断や思い通りにイエス様が動かれないからではないでしょうか。洗礼者ヨハネはさばき主としてのイエス様を強力にあかししてきました(ルカ3:7-17)。しかし、彼の目にイエス様はさばきを行わないように写ったのです。また正しく働いた自分をイエス様がすぐに助けてくれないことにも疑いを持っていました。このためにイエス様が約束のメシヤだとの確信が揺れてしまいました。私たちも自分勝手な思いと関心だけでイエス様を判断すると信仰が揺れることもあり得ます。しかし、キリストの道は計り知れなく、神の高く、深いみこころの中にあります(イザ55:8-9)。私たちは自分の考えでイエス様を下手に考え、つまずかないように気をつけるべきです。


適用:イエス様が聖書で約束されているメシヤだと確信していますか

一言:イエス様は聖書の示される通りに働かれます



2020年 02月 22日 (土)

ルカの福音書7:24-35(32)
笛を吹いてやっても、踊らなかった

 ヨハネの使いが帰ってから、イエス様は群衆に、ヨハネについて話しだされました。洗礼者ヨハネは風に揺れる葦のように弱い人、打算的な人、機械主義の人ではありません。世俗的でも、自身の栄光を求める人でもありません。洗礼者ヨハネ、彼はまことの預言者であり、預言者以上の人だと言います。洗礼者ヨハネはマラキ書に記された、キリストの前に来る預言者です。女から生まれた者の中で、ヨハネよりすぐれた人は、ひとりもいないほど偉大でした。その理由は、キリストをまっすぐにあかしした預言者だったからです。人の偉大さの尺度は、キリストに対する知識と関係性によります。優れた人ほどイエス様をよく知っており、深い関係を築いています。新約の弟子たちは取るに足りなくても、彼らはヨハネよりも偉大で、福音がもたらす神の国で栄光を受けます。その理由は、イエス様のことをもっと詳細に知っていたからです。
 民たちは、洗礼者ヨハネを神様から遣わされたしもべだと知り、彼の偉大さを認めていました。しかし、宗教指導者たちはヨハネのメッセージやバプテスマをすべて拒否しました。これはヨハネを拒否したのではなく、彼を遣わした神様を拒否したことになります。当時の子どもたちの市場での遊びに、一方が笛を吹くと、もう片方は踊り、一方が弔いの歌を歌うと、もう片方は泣くようなものがありました。でも、相手がふさわしい反応をしなければ、子どもたちは残念に思い、がっかりしてしまいます。このように宗教指導者たちはヨハネやイエス様に対して当然取らなければならない反応を示しませんでした。これはヨハネやイエス様が間違っていたのではなく、彼らの内面の問題でした。福音に対して正しく反応をしないことは深い罪でもあるのです。


適用:福音に反応をしていますか

一言:踊ったり、泣いたり



2020年 02月 23日 (日)

ルカの福音書7:36-50(47)
罪多く赦されればよけいに愛する

 あるパリサイ人がイエス様を食事に招き、イエス様が食卓につかれた時です。その町にひとりの罪深い女がいて、香油の入った石膏のつぼを持って、イエス様のところに来ました。彼女は泣きながら、イエス様のうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし初め、髪の毛でぬぐい始めました。そして、御足に口づけして、香油を塗りました。この光景を見たパリサイ人シモンは、預言者イエス様が罪深い女をそばに立たせているのを不思議に思いました。彼は彼女のした行いを理解することができませんでした。
 イエス様は彼女の行動を教えるためこう尋ねられました。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか(41-42)。」シモンはよけいに赦してもらった方だと答えました。彼の判断は当たっていますが、イエス様は女の行いとシモンの行いを比べられました。シモンは、イエス様に水を与えず、口づけせず、油を塗りませんでした。イエス様を愛していなかったからです。半面、女は涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛でぬぐい、口づけをしました。そして高価な香油を塗りました。
 この女がイエス様を愛したのは返すことのできない借りを赦されたからです。彼女の赦された借りとは罪のことです。イエス様に赦された罪を思うと、イエス様を愛さずにいられませんでした。しかし、シモンは自身を罪人と思わず、罪の赦しがありませんでした。彼はイエス様を愛さず、罪人が触ってくることを赦しませんでした。しかし、イエス様はどんな人であれ赦された者は生まれ変わった人だと知っておられるので、罪人を受け入れました。石膏のつぼを割り、香油を注いだ女に罪の赦しを公に宣布し、新しくやり直せるように助けられました。罪赦された人はイエス様を愛し、他の罪びとを受け入れるのです。


適用:罪の赦しを受けましたか

一言:イエス様を愛しましょう


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