聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2020]

2020年 07月 12日 (日)

ルカの福音書 19:1-10(10)
失われた者を捜して救うためです

 イエス様がエリコに入り、町の中を通っている時でした。取税人であり、金持ちであったザアカイが、イエス様がどんな方なのかを見ようとしました。しかし、背が低く、人が多くて見ることができないでいました。彼は あきらめずに先の方に走って行って、桑の木に登りました。イエス様がそこを通り過ぎようとしておられたからです。イエス様がそこに来た時、ザアカイを見上げながら、彼の名前を呼んでくださいました。初対面であるのに、イエス様は彼の名前を知っておられ、彼の名前を呼んでくださいました。驚くべきことでした。さらに驚くべきことは、彼の家に泊まると言われたことでした。ユダヤ社会では、罪人の家に泊まることは禁止されているからです。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様を迎え入れました。
 ザアカイはイエス様から御言葉を聞き、イエス様と会話もしました。イエス様との出会いは、ザアカイの人生を驚くほど変化させました。彼は貪欲を悔い改めて財産の半分を貧しい人たちに分け与えると決断しました。誰かから脅し取った物があれば、四倍にして返すとも言いました。イエス様は「今日、救いがこの家に来ました」と宣言してくださいました。ザアカイは救いの恵みを受け、アブラハムの子孫になりました。
 イエス様は、ご自分がこの世に来た目的について教えてくださいます。イエス様は失われた者を捜して救うためにこの世に来られました。「ザアカイ」とは「清潔な人」、「義人」という意味です。彼は本来、神様の懐の中にいなければなりませんでしたが、罪のために神様から遠く離れていました。彼は失われた者でした。しかし、イエス様は、このような彼を捜して救うためにこの世に来られました。イエス様は今も神様から遠く離れた、失われた者である罪人を捜して救われます。


適用:失われた兄弟がいますか

一言:探して救うために



2020年 07月 13日 (月)

ルカの福音書19:11-27(13)
商売をしなさい

 ある身分の高い人が、王位を授かって戻って来るために遠い国に行く時でした。しもべ十人を呼んで、それぞれに一ミナずつ与え、自分が戻ってくるまで商売をするように方向を与えました。主人が王位を授かって帰って来ると、ミナを与えたしもべたちに決算報告をするようにしました。最初のしもべは一ミナで十ミナを儲けました。主人は、彼がほんの小さなことに忠実であった点を賞賛し、十の町の権威を褒美として与えました。二番目のしもべは一ミナで五ミナを儲けました。主人は彼に五の町を褒美として与えました。もう一人は、主人からもらった一ミナで商売せず、そのまま布に包んで、しまっておきました。彼は主人が厳しい人なので、恐れて商売をしなかったと言い訳をしました。彼は主人を「預けてなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方」、つまり、悪徳企業主、ケチな人だと考えました。しかし、これは誤解でした。儲けたしもべを大きく祝福したことを見ると、主人は根本的には、しもべを祝福しようとする寛大な人でした。主人は、彼を悪いしもべと呼び、厳しく責めました。彼から一ミナを取り上げて、十ミナ持っている者に与えました。だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられます。
 主人がしもべたちに配った一ミナは、私たち一人一人にも与えられたミナです。時間のミナ、能力のミナです。主は、私たちがこのミナで商売して多くの利益を残すことを望んでおられます。特別な経営の秘訣はありません。ただ、小さなことに忠実である必要があります。1対1の働きは小さなことのように見えますが、このことに心と精神と力を尽くすなら、それが積もり積もって多くの利益を残すようになります。私たちはそれぞれ主の前に立って人生の決算をしなければならない日が必ずやってきます。やがて来るべきその日に備えるために、私たちは目を覚まして、小さなことに忠実である必要があります。


適用:主が与えられたミナで儲けていますか

一言:よくやった、良いしもべだ



2020年 07月 14日 (火)

ルカの福音書19:28-40(38)
祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に

 イエス様はエルサレムに入城する前に入城式を準備しておられます。派手な見せ物を準備するのではなく、みすぼらしいろばの子一匹を用意されます。イエス様がろばに乗る理由は、謙遜で平和で貧しい民と共におられる羊飼いであるからです。イエスさまには、すべてのものの所有主で、執行者であられる創造主の品性があります。
 イエスさまは二人の弟子を村に遣わして、誰も乗ったことのないろばの子を連れて来るように言われました。「どうして、ほどくのか」と尋ねられたら、「主がお入り用なのです」と答えるように言われます。二人の弟子が行ってみると、そこにろばの子が居て、持ち主たち(owner)にイエスさまに言われた通りに話すと、連れて来ることができました。たとえ、ろばの子に乗ってもイエス様は神様です。真の持ち主(owner)であられます。イエス様が使われるとすれば、差し出す必要があります。私の時間と若さも、大切に思うどんな所有物でも、あるいは子と家族さえも、主がご入り用であれば、ささげる必要があります。
 イエス様を神様として受け入れている人々の心は、喜びにあふれました。彼らは大声で賛美しました。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。」パリサイ人たちはこの賛美が聞きたくありませんでした。それで、イエス様に弟子たちを叱るように言いました。そこでイエス様は言われます。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(40)人が賛美をしなければ、言葉もできず命もない石に賛美する権利を奪われるでしょう。万物の所有者、王であるイエス様を賛美することは、人間の特権であり、命のある限り続けるべきことです。


適用:イエス様を賛美しますか

一言:祝福あれ



2020年 07月 15日 (水)

ルカの福音書19:41-48(41)
都をご覧になって、泣いて

 イエス様はエルサレムをご覧になって泣かれました。エルサレムの荒廃を予言されたからです。エルサレムの人々は神様の平和に関する福音を知るべきでしたが、そうはありませんでした。彼らは平和のために来られたイエス様を退けました。その代価として、敵に包囲され、「一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま」残らないほどの裁きを受けることになります。イエス様の排斥は神殿の堕落から始まりました。神殿は祈りの家です。神様の御声を聞いて、御心に従うところです。彼らはこれを軽く思って、物質的、世俗的な活動に没頭しました。彼らは自ら神様から遠ざかり、神様の御許から来られたイエス様を受け入れることができませんでした。
 イエス様は日々神殿で教えられ、神様の御心を話されましたが、祭司長たちと民の指導者たちは、イエス様を殺そうとしました。彼らにとって、イエス様は、目のとげのようでした。イエス様だけを取り除けば、すべてがうまく行って平和になると思いました。しかし、真の平和は、イエス様を受け入れることにあります。


適用:裁かれる魂を見て、涙を流しますか

一言:泣いて


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