聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2020]

2020年 09月 18日 (金)

ルカの福音書23:1-25(25)
群衆の要求と妥協したピラト

 祭司長たちや群衆は、イエス様を連れて行ってピラトに訴えました。民を惑わし、税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていると言いました。彼らは政治的な罪でイエス様を訴えました。しかし、ピラトはイエス様が宗教的な問題で訴えられていることを知っていました。それで「この人には、訴えられる理由が何も見つからない」と言いました。そして、イエス様をヘロデのところに送りました。ピラトは正義の側に立たず、政治的な計算をしました。ヘロデはイエス様が行うしるしを何か見たいと思ってイエス様にいろいろと質問しました。しかし、イエス様は何もお答えになりませんでした。宗教指導者たちはイエス様を激しく訴えました。ヘロデはイエス様を侮辱したり、からかったりしてから、ピラトに送り返しました。ヘロデとピラトはそれまでは互いに敵対していましたが、イエス様を処理することで親しくなりました。
 ピラトは宗教指導者たちや民衆を呼び集め、イエス様には罪がないことを宣言しました。宗教的な利害関係がないピラトの目には、イエス様の無罪は確かなことでした。しかし、民衆は暴動と人殺しのかどで牢に入れられていたバラバを釈放し、イエス様を十字架につけるように叫び続けました。ピラトはイエス様には罪がないと言いましたが、彼らはイエス様を十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けました。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることにしました。彼はバラバを釈放し、イエス様を彼らに引き渡して、好きなようにさせました。イエス様には何の罪もありませんでしたが、人々の利己心、妬み、不義に対して妥協した罪のゆえに十字架につけられるようになりました。


適用:罪に対して妥協していませんか

一言:罪に対して妥協せず、正しい道を



2020年 09月 19日 (土)

ルカの福音書23:26-43(34)
彼らをお赦しください

 十字架刑を言い渡されたイエス様は、十字架を負って行かれました。民衆やイエス様のことを嘆き悲しむ女たちが、大きな一群をなして、イエス様の後について行きました。イエス様は彼女たちに「わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」と言われました。何の罪もないイエス様が死刑判決を受けたことは、悲しくて涙が出ます。しかし、イエス様を受け入れなかった人々が受けるさばきの苦しみを考えると、その人々のために悲しみ、泣くべきです。
 イエス様を受け入れないことが神様に敵対することであることも知らず、人々はイエス様を十字架につけました。そして、イエス様をあざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも自分を救ってみろと言ってイエス様を嘲りました。十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエス様をののしりました。彼らは自分たちが受ける神様のさばきを知らず、イエス様を拒みました。
 このような人々は、そのままなら地獄に入ります。一方的な神様のあわれみが必要です。それでイエス様は祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らのために赦しの祈りが必要であったように、すべての人々に主の赦しとあわれみが必要です。私たちもそこにいた人々と変わらないのです。私たちも神様に敵対し、自分勝手な道を歩んでいたからです。主の赦しとあわれみがなかったら、誰も救われることができなかったことを知らなければなりません。私たちは赦された罪人であり、これからも主の十字架の赦しによって生きる者です。


適用:私たちはどのようにして救われましたか

一言:主の赦しとあわれみによって



2020年 09月 20日 (日)

ルカの福音書23:44-56(46)
わたしの霊をあなたの御手に

 全地が暗くなり、午後三時まで続きました。すると、神殿の幕が真ん中から裂けました。幕は庭と聖所を分けるものと、聖所と至聖所をわけるものがあります。神殿の幕が裂けたのは、第一に、神殿の機能と役割が終わったことを意味してします。これ以上物理的な神殿を探す必要はありません。イエス様が神殿であり、聖霊が住んでおられる人々が神殿です。第二に、神様と私たちの間に新しい生ける道が開かれたことを意味します。幕はイエス様のからだを象徴します。そのからだが裂かれたことによって私たちは祭司となり、神様の御前に出て行けるようになりました。
 イエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」これは詩篇31篇5節の御言葉です。イエス様のからだは、ユダによって宗教指導者たちに渡され、ピラトの判決によって十字架に渡されました。イエス様のからだは、異邦人に踏みにじられたかのように思われます。しかし、霊の監督者、保護者であるのは、神様です。私たちも生きている間、人々によって、あちこちに渡されるかもしれません。しかし、最後の時に、私たちの霊は神様に渡されます。私たちの霊をゆだねることができる方は、父なる神様だけです。イエス様も父なる神様の御手にゆだねました。ステパノも、最後の時に、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と祈りました(使徒7:59)。イエス様の最後のことばは、彼が父なる神様に全幅的に頼っていることを教えてくれます。私たちがこの世の終わりまで頼るべき方が誰であるかを、イエス様は教えてくださいました。百人隊長はこの出来事を見て、「本当にこの方は正しい人であった」と言いました。


適用:私が最後まで頼るべきは何ですか

一言:父の御手


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