聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 03月 13日 (月)

ルカの福音書 5:1-11(4)
深みに漕ぎ出し

群衆が神のことばを聞こうとしてイエス様に押し迫って来たとき、漁師たちは熱心に仕事をしていました。イエス様はシモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになりました。話が終わると、シモンに「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と言われました。シモンはその方向に従いたくなかったでしょう。夜通し働いたが、何一つ捕れなかったからです。シモンは肉体的な疲労と経験に基づいた判断と合理的な考えなどで従いにくかったでしょう。しかし、彼は主のおことばどおり、網を下ろしてみました。

そして、そのとおりにすると、驚くべきことが起こりました。おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになったのです。これを見たシモン・ペテロは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ。私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言いました。シモンは自分が罪人であること、イエス様が主であることを悟りました。シモンと仲間の者たちは大漁のため、ひどく驚きましたが、それは彼らがイエス様の神様としての力を体験したからです。イエス様は彼らの罪を赦し、人間をとる漁師として召されました。彼らは魚を捕る人生から、人を捕る人生に変わりました。それは人を生かす意味ある使命人として生きることです。真面目には生きていますが、自分の努力や知恵や熱心にだけ頼っている人々がいます。イエス様は、彼らが信仰の世界、主の世界に漕ぎ出すことを願っておられます。



祈り:主よ、私が自分の人間的な考えで物事を判断せず、主の御言葉に素直に従い、奇跡を体験できるよう祈ります。

一言:深みに漕ぎ出しなさい



2023年 03月 14日 (火)

ルカの福音書5:12-16(13)
わたしの心だ。きよくなれ

全身ツァラアトに冒された人がイエス様にひれ伏して懇願しました。 「主よ。お心一つで私をきよくすることがおできになります。」彼は、イエス様には自分のツァラアトをきれいにする力があると信じていました。しかし、イエス様が自分の病気をきれいにしてくれるかどうか、そのお心を知ることはできませんでした。なぜなら、自分は全身ツァラアトによって汚れた人になっていたからです。律法は、このような人に近づいてはならないと命じています。それで、彼を愛する家族さえ、彼と一緒にいることができませんでした。さらに、全身ツァラアトの人の姿を見て、人々は彼を遠ざけました。彼はツァラアトのために、悲しく運命的な人生を送り、寂しく死ぬしかありませんでした。しかしイエス様の噂を聞いて、彼は自分の体がきれいになる希望を持つようになりました。ところが、自分が汚れた罪人であると思うと、イエス様に自分の病気を直してもらいたいと堂々と言うことができませんでした。イエス様はそんな彼の心を知っておられ、手を伸ばして彼の体にさわりました。そして、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。イエス様が彼の体におさわりになった理由は、ご自分の心を示すためでした。イエス様はツァラアトに起因する彼の悲しみを知っていました。病気による苦痛と人々から隔離されて生きてきた彼の孤独までも知っておられました。何よりも彼をきよくすることは、イエス様のみこころでした。そしてイエス様のお言葉によって、彼の病気はすぐに消え、彼の体はきれいになりました。イエス様はこの事実を誰にも言わずに、律法に記録されているとおり、祭司に自分の体を見せ、ささげ物をして再び正常な社会人として生きて行くように言われました。イエス様は、どんなに汚れた人でも受け入れてくださいます。そして、きよめられることを望んでおられます。イエス様は、私たちをきよめる力を持っておられます。このイエス様に出ていく人は、汚れた体と心がきよめられて新しい人生を生きることができます。



祈り:罪と咎により汚れた私でも受け入れ、清めてくださるイエス様に感謝します。どんな状態の私であっても、神様の前にありのまま出て行き、委ねることで、神様のみこころを知り、きよめ癒されますように祈ります。

一言:わたしの心だ。きよくなれ



2023年 03月 15日 (水)

ルカの福音書5:17-26(24)
あなたがたが知るために

イエス様が教えておられると、ガリラヤとユダヤ、そしてエルサレムから来ていたパリサイ人と律法の教師たちが座っていました。そこに、中風をわずらっている人を、男たちが床に乗せて運んで来ました。しかし、多くの群衆のために入ることができませんでした。すると彼らは、屋上に上って瓦をはがし、そこから中風の人を床のまま、イエス様の前につり降ろしました。人々は彼らの失礼な行動を見て悪口を言ったことでしょう。しかし、イエス様は彼らの信仰をご覧になりました。彼らが、イエス様の権威と癒しの力を信じ、中風で苦しんでいる友を必ず治してくださると信じてイエス様の元に来たのをご覧になったのです。イエス様は、病の原因が必ずしも罪にあるとは考えませんでしたが(ヨハネ9:1-3)、中風の人の場合は、その霊的状態が病気の原因であることを見抜かれました。それで、彼に対して「友よ、あなたの罪は赦された。」と宣言しました。

律法学者たちとパリサイ人たちは、驚きました。罪を赦すことができるのは、神おひとりだけであり、目の前のイエスは一人の人間でしかないと、考えていたからです。イエス様は、そんな彼らが、イエス様が地上で罪を赦す権威を持っていることを知ることが出来るように、彼らが見ている前で、中風の人に「…起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」と言って、癒してあげました。律法学者たちは、目に見えない霊的なことについてはよく分からなくても、目に見える癒しの御業は、受け入れることが出来たはずです。声をかけただけで人を癒すことは、通常の人間には、出来ないことです。ですから、これは、イエス様を神様として信じるのを助けるみわざでした。人々は神をあがめ、恐れに満たされるようになりましたが、律法学者たちはそうではありませんでした。この後も続けてイエス様を迫害し、最後は殺すようになります。



祈り:主が私にどんなみわざを見せてくださっても、それを受け入れない頑固な自分が心の底にあることを認めます。私が素直にイエス様を信頼し、導いて下さる道について行けるように助けてください。

一言:私が知るために



2023年 03月 16日 (木)

ルカの福音書5:27-32(27)
わたしについて来なさい

イエス様は、レビという取税人が収税所に座っているのをご覧になりました。彼が何をしていたかは分かりませんが、彼は収税所という空間に閉じ込められ、暗い人生を生きていました。取税人は、今日でいうと税務公務員ですが、当時は汚い職業として考えられていました。取税人はローマ政権を背に、多くの税金を課していたため、民から搾取する民族の反逆者だと見なされました。自分たちの益のために、同族を捨て、民に苦痛を与えていたので、彼らは民衆の敵とされていました。しかし、イエス様は、このような取税人レビを「わたしについて来なさい。」と招かれました。人々は彼を、裁かれて当然の罪人として見ました。ところがイエス様は、彼を病人として見ました。イエス様は、彼が治療を受ければ元気な生活を送れるようになると希望を持ちました。イエス様について来るならば、元気な人となって、神様のために、隣人のために、多くの仕事ができるようになると思われました。それで、イエス様は取税人レビをご自分の弟子として招いてくださいました。

イエス様のお招きを聞いた取税人レビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエス様に従いました。収入の多い安定した仕事を捨てることは、大変大きな経済的犠牲です。しかし、イエス様を通して新しい人生を生きることができるという希望を、レビは持つようになっていました。イエス様は罪人を、治療が必要な病人としてご覧になります。イエス様は、神さまから離れ、神様の形が破壊されて苦しんでいる人々に、癒しを与えることを望んでおられます。イエス様は、自らを正しいと思っている人を招くためではなく、罪人としての壊れた人生を苦しく思い、新しい人生を生きたいと望んでいる人を招くために来られました。ですから、どんな罪人も、イエス様の中で希望を持つことができます。イエス様のお招きを受け入れてイエス様に従う時、罪のために病んでいる人も健康な生活を送ることができます。



祈り:私にはイエス様が必要であると気づき、認めます。イエス様に従い、ついて行くために捨てないといけないものがあるのなら、主よ、教えてくださり、それを捨てられるように助けて下さい。

一言:イエス様との間を引き離すものは捨てよう



2023年 03月 17日 (金)

ルカの福音書5:33-39(38)
新しいぶどう酒は新しい皮袋に

パリサイ人たちやその派の律法学者たちは、イエス様の弟子が断食せずに食べたり飲んだりしているのを見て非難しました。彼らはイエス様が断食をしない不敬虔な人だと考えました。するとイエス様は、結婚式に来たお客さんが花婿と一緒にいる間には断食できないという事実を言いました。同様に、イエス様と一緒にする人生には、断食する必要がないと言いました。しかしイエス様を奪われる時、彼らは断食するようになる、とも言いました。また、新しい衣の一部をとって古い衣に付ける人はいないと言いました。なぜなら、そのようにすれば新しい衣の布が破れるだけでなく、そもそも古い衣には合わないからです。また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人はいないともイエス様は言いました。新し日ぶどう酒は発酵するからです。新しい皮袋は伸縮性があるので大丈夫ですが、古い皮袋は固くなっているので、新しいぶどう酒を入れると破れてしまうのです。

この二つのたとえから分かることは、古いものを捨てなければ、新しい働きを受け入れることはできないということです。当時、イエス様の思想と教えは、新しいぶどう酒と同じように、新しすぎて破壊的であったため、古い伝統ではイエス様を入れることができませんでした。 新しいぶどう酒であるイエス様を古い伝統に入れることはできません。人々は古いワインが好きなように、古い伝統と固定化した考えに留まっていることを好みます。しかしイエス様を私の人生に迎えて従うためには、こういうものを脱いでしまわなければなりません。イエス様に習おうとする人は、毎日新しくなることができます。このような人は、いつも新しくて生命力に満ちた生活を送ることができます。



祈り:主よ、硬直した私の心を柔らかい、従順な心に変えて下さい。そして、イエス様が与えて下さる新しい考え、新しいやり方、新しいいのちにあふれる生活を送れるように助けて下さい。

一言:新しい皮袋


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