聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 03月 18日 (土)

ルカの福音書6:1-11(9)
安息日に律法にかなっていること

イエス様が、安息日に弟子とともに麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで手でもみながら食べていました。すると、あるパリサイ人たちがこれを見て、安息日にしてはならないことをしたと弟子たちを非難しました。弟子たちの行動のために、イエス様までもが非難を受けました。この時、イエス様はダビテが神様の家に入って祭司だけが食べてよい臨在のパンを取って食べた事件を根拠に、弟子たちを弁護しました。祭司だけが食べられる臨在のパンをダビテが食べても非難されなかったのは、そのことが生命を生かしてあわれみを施す神様の御心にかなっていたからです。パリサイ人たちには、お腹を空かした弟子たちに対するあわれみの心がありませんでした。さらに、安息日の主であるイエス様を知らなかったために安息日の本質も理解していませんでした。

イエス様は別の安息日に、一つの出来事を通じて安息日が何をする日であるかを説明しました。イエス様が安息日に会堂に入られた時、右手の萎えた人がいました。律法学者とパリサイ人たちは、イエス様を訴える口実を見つけるために、イエス様が安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていました。この時、イエス様は安息日に善を行うことと悪を行うこと、いのちを救うことと滅ぼすこと、どちらが正しいかと尋ねました。そして右手の萎えた人に向かって「手を伸ばしなさい」と言われました。その通りにすると、彼の手が元どおりになりました。イエス様は、安息日が単に仕事を休む日ではなく、善を行なっていのちを救う日であることを見せてくださいました。神様は律法条項に縛られて他人を判断し、殺す宗教指導者たちを喜ばれません。他人をかわいそうに思い、善を行っていのちを救うことを望んでおられます。一人を救うことこそ神様が願われることです。イエス様のあわれみを抱いてイエス様のお言葉を伝えるとき、いのちを救うことができます。



祈り:主よ、消極的に主日を守っていたことを悔い改めます。規則や形式にとらわれることなく、積極的に善を行い、困っている人々を助けることができるよう助けてください。

一言:いのちを救うこと



2023年 03月 19日 (日)

ルカの福音書6:12-19(13)
彼らに使徒という名をお与えになった

当時、律法学者たちとパリサイ人たちは、牧者としての働きをすべきであるのに、右手の萎えた人のような哀れな人々の世話を全くしようとしませんでした。そして、自分たちの教権が脅かされると思い、イエス様を妬み、嫌いました。このような時代背景の中で、イエス様は祈るために山に行かれました。夜を明かすほどに祈られ、神様の御心を求めました。夜が明けた時、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられました。使徒というのは、神の国の全権大使という意味です。イエス様は暗くて絶望的な時代に、十二使徒養成の方向を定めました。その時代に仕え、様々な人々を助けることができる霊的指導者として育てようとなさいました。そのような偉大なことを成し遂げるためには、十二人はあまりにも少ない数です。しかし、イエス様は多くの群れを立てるより少数のリーダーを養成することに集中しました。イエス様の人格と信仰を学び、また見習い、将来イエス様の働きを継承できるような指導者を育てることを願われたのです。少数のリーダー養成こそが、神様の知恵であり、確かな方法です。

一方、イエス様が選ばれた十二人は出身背景が多様でした。漁師もいれば、取税人もいました。熱心党員もいました。彼らは身分が卑しいながらも平凡な人々でした。その一方で、イエス様の召されに従順に従う謙虚な人々でした。習おうとする心があり、純粋でした。イエス様は、特別なタイプの人を好まれることなく、あらゆる人々に希望を置きました。誰でもイエス様の召されに謙虚に従うならば、その時代に仕える偉大な霊的指導者に成長することができます。



祈り:神様が、何もない平凡な私を選んでくださったことに、感謝します。神様に純粋に従い、愛によって人々に仕えることができるようにしてください。

一言:使徒養成をされたイエス様



2023年 03月 20日 (月)

ルカの福音書6:20-26(20)
貧しい人たちは幸いです

イエス様はご自分についてくる弟子たちを見つめながら、「幸いです」と言われました。人間的に見ると、彼らはこの世で持ち物があまりない貧しい者たちでした。弟子たちは、イエス様に従うために船と網を捨てました。高所得が保障された取税人の仕事を捨てました。彼らは、神の国を宣べ伝えるために貧しい人生を拒みませんでした。神の国を所有した者の心は豊かになります。イエス様に従うことで、飢えるときもあります。しかしまもなく豊かさを知るようになります。イエス様に従うことで、泣く時もあります。しかしまもなく笑うようになります。鍛錬と訓練の過程もありますが、イエス様は必ず私たちが勝利するようにしてくださいます。イエス様のために憎まれ、排除され、見捨てられる時もあります。しかしそうする時に、祝福されます。イエス様はその日に喜び、躍り上がって喜びなさいと言われました。なぜなら天においての報いは大きいからです。旧約時代の預言者たちも、頑ななイスラエルの民から迫害されました。イエス様のために迫害を受けるということは、預言者の隊列に加わるようなものです。本当に光栄なことです。

イエス様は、どんな人が哀れな者だと言われましたか。富んでいる者です。富んだ者とは、キリストと神の国を遠ざけ、ただ世の中の宝の方を選んだ人です。そのような人は、世の中で得られるものによる満足と喜びに捕われて、福音が与える慰めを受けることができません。満腹している者も哀れな者です。イエス様に従わないで現実的な有益だけを選んだ人だからです。このような人の魂は、飢えるほかありません。世の中では、色々な楽しみで喜々とする人もいますが、結局は苦しみや悲しみで泣くようになる日がくるでしょう。すべての人にほめられるということは、悪くないことです。しかし、偽りの預言者がそうでありました。こうした者も哀れな者です。イエス様の弟子は、人々からほめられようとするよりは、神様の称賛を受けようとしなければなりません。



祈り:主よ、私は世の宝や評価に目を向けてしまいがちです。それらから自由になって、神様から褒められる選択ができるようにどうか助けて下さい。またその選択が真の幸せであることを信じます。

一言:私は幸いな者です



2023年 03月 21日 (火)

ルカの福音書6:27-36(35)
自分の敵を愛しなさい

弟子は敵を愛し、自分を憎む者に善を行わなければなりません。自分を呪う者を祝福し、自分を侮辱する者のために祈らなければなりません。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなければなりません。上着を奪い取る者に下着も拒んではいけません。世の中では、敵に必ず復讐しようとします。しかし弟子は世の人々と違わなければなりません。私たちが万一、私たちを愛する者だけを愛するなら、ほめられることがあるでしょうか。私たちに善を行う者だけに善を行うなら、ほめられることがあるでしょうか。私たちが返してもらうつもりで人々に貸して、ほめられることがあるでしょうか。罪人たちでも、自分を愛してくれる者たちを愛しています。

私たちが敵を愛して善を行い、何も望まないで貸すのなら、しばらく損害と痛みを経験します。しかしそのようにする時、私たちに大きな報いが与えられます。また、私たちは世の中から、いと高き神様の子どもと認められることになります。神様は恵みの分からない者と不道徳な者にも慈しみ深い方です。恩恵が分からない不道徳な者にも、愛とあわれみを施す時、私たちは神様の子どもとして神様の光栄を表わすことになります。不道徳な者の心を感動させ、善によって悪に勝つようになります。その人の心をつかむようになります。私たちの周りに多くの人々が集まり、私たちは祝福の源となります。世の中は悪がいっぱいです。このような悪はもっと大きい悪を産むだけです。このような悪をなくすために、強力な規範や法制を動員しても効果はありません。ただ愛とあわれみを実践する時こそ、はじめて悪に勝つことができます。



祈り:自分の力では出来ないことであっても、神様に頼り求める時、敵をも愛すことができることを信じます。世の中の人々とは違い、私を憎む人に対しても善を行えるよう助けてください。

一言:あわれみ深い者になれ



2023年 03月 22日 (水)

ルカの福音書6:37-49(47)
わたしのことばを聞き、それを行なう人

弟子は、人をさばいたり罪に定めたりしてはなりません。代わりに赦さなければなりません。さばかない時、さばかれません。罪に定めない時、自分も罪に定められません。人を赦すなら、私たちも赦されます。弟子は他の人を赦すだけでなく、与える生活をしなければなりません。与える時、神様から供給されるようになります。どれくらい供給されますか。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえるでしょう。私たちが量るその秤で、自分も量り返してもらえます。したがって神様に献身し、隣人と兄弟に仕えることは、決して損することでありません。与えるだけあふれるように受けます。与える者が幸いな者になります。兄弟の問題を見て助けようとしながらも、自分自身のことを吟味することがないなら、それは危険です。自分自身の目の中にある梁には気づかず、相手の目にあるちりだけをとろうとする時、その目をむしろ傷つけてしまうかもしれません。自分の目にある梁を先に取り除き、目が良くなってから、兄弟の目にあるちりを取ることができます。自身を深く吟味して悔い改める時、はじめて兄弟をよく助けることができます。良い実を結ぶためには、心に善を積む生活を送らなければなりません。良い神様のお言葉を心に積む時、口から良い話が出て兄弟を生かすようになります。人が『主よ、主よ』と呼んでいるからといって弟子なのではありません。弟子は主の御言葉を聞いて行う者です。このような人は、家を建てる時、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据え、それから家を建てた人に似ています。その結果、洪水になり、川の水がその家に押し寄せたとしても、しっかり建っていられます。一方、御言葉を聞いても実行しない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家はすぐに倒れてしまいます。主の御言葉を聞いて行う者こそ、賢い人生の建築者です。



祈り:父なる神さま、私が御言葉を聞いて感動するだけでなく、生活にしっかりと適用し、実行することができるように、助けてください。

一言:聞いて行う者


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