聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 03月 23日 (木)

ルカの福音書7:1-17(13)
泣かなくてもよい

 死んだ青年の母親はやもめであり、青年はそのひとり息子でした。やもめにとって、どれだけ大切な存在だったでしょうか。母親はひどく悲しみ、泣いていました。イエス様はやもめをご覧になり、かわいそうに思われました。誰かをかわいそうに思うのは、その人の立場を理解し、その心に共感するからです。よみがえりであり、いのちであるイエス様には、死はまるで眠りのようであり、悲しむ理由がありません。しかし、だからと言って、やもめに、「何でそんなことで泣くのか」と、叱りつけたりしませんでした。やもめをかわいそうに思い、「泣かなくても良い」と慰めてくださいました。イエス様は、やもめの悲しみと苦痛を理解し、絶望と痛みを知っておられました。神様の民であっても、悲しみ、落胆する時があります。様々な理由から、疲れ果てて泣いてしまう時があります。イエス様は、このようなご自分の民の事情をよく知り、理解してくださいます。涙を流す彼らをかわいそうに思われ、共に痛み、共に悲しみ、共に憂います。あなたの現状を知り、憐れんでくださいます。

 イエス様は、死んだ青年に「起きなさい」と言われました。すると、死んだ青年は生き返りました。これを見た人々は神様をあがめました。イエス様が死んだ青年を生き返らせた出来事は、イエス様こそが、神様がご自分の民を顧みるために遣わされた預言者であることを示しています。イエス様は、担うことのできない重荷で押し潰され、悲しみと死のゆえに泣くご自分の民を顧みるために来られました。私達の涙をぬぐい去り、悲しみと絶望、そして死の勢力から起き上がらせるために来られました。イエス様は、「泣かなくてもよい」と言われます。イエス様の中では、泣く必要がありません。イエス様が慰めと救いを与えてくださるからです。起こる御業に期待しましょう。泣かないで、神様を崇める日を仰ぎ見ましょう。



祈り:父なる神様、私が悲しく落ち込んでいる時にも私を理解し、そばで慰めてくださり感謝します。私が希望を持ち、泣かずに力強く生きていけるように、主が助けてくださると信じます。

一言:泣かなくてもよい



2023年 03月 24日 (金)

ルカの福音書7:18-23 (23)
わたしにつまずかない者は幸いです

バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエス様の働きについてヨハネにすべて報告しました。イエス様は多くの奇跡を行い、神様の御言葉を語られました。特にイエス様は、やもめの死んだ息子を生かす驚くべき奇蹟を行なわれました。人々は、偉大な預言者が現れたと驚きました。すると、ヨハネは、弟子たちの中からふたりを送り、イエス様に「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか」と質問しました。イエス様は彼らに、目の見えない者たちたちが見えるようになり、足の不自由な者たちが歩き、ツァラトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞こえ、死人が生き返っていることをヨハネに伝えるように言われました。これは旧約聖書で約束されているメシアのしるしです(イザヤ35:5,6;61:1)。イエス様は、ご自身がメシアであることを明らかにされました。

イエス様は、私たちのすべての罪と咎と死から救ってくださる憐れみ深いメシアです。イエス様は、ご自身のことでつまずかない者は幸いですと言われました。人々のイエス様に対する信仰は、いつ揺らぐのでしょうか。自分の期待通りにイエス様が動いてくれない、と感じる時です。バプテスマのヨハネは、裁き主としてのイエス様を力強く証しました(ルカ3:7-17)。ところが、イエス様を見ると、イエス様は裁きの働きをやっていないように見えました。また、イエス様が義人である自分を助けてくださらないことに対しても疑問を抱いたかもしれません。これによって、イエス様が約束されたメシアであるという確信が、揺らいだかもしれません。私たちが自分の考えと自分の視点だけでイエス・キリストを判断すれば、信仰が揺らぐ可能性があります。しかし、キリストの道は私たちの願いや計画をはるかに超えて計り知れず、神様の深い計画の中にあります(イザヤ55:8,9)。私たちは自分の考えでイエス様を勝手に判断して、つまずかないように、気を付けなければなりません。



祈り:主よ、私が自分の考えや視点だけでイエス様を見て、判断してしまった時、そのことを教えてください。そして、私が悔い改めて、イエス様への信仰が揺らぐとこがないように助けてください。

一言:イエス様は聖書の通りに働かれる



2023年 03月 25日 (土)

ルカの福音書 7:24-35(27)
主の前に遣わされた者

ヨハネの使いが帰ってから、イエス様はヨハネについて群衆に話し始められました。バプテスマのヨハネは、風に揺れる葦のような弱い人、日和見主義な人ではありません。世俗的でも、自身の栄光を求める人でもありません。バプテスマのヨハネは、マラキ書が預言した、キリストの前に遣わされる使いです(マラキ3:1)。女から生まれた者の中で、ヨハネより優れた人は、だれもいないほど偉大な人です。その理由は、キリストをまっすぐに証ししたからです。人の偉大さの尺度は、キリストについての知識とキリストとの関係性によって決まります。優れた人ほどイエス様をよく知っており、深い関係を築いています。新約の弟子たちは、取るに足りなくても、彼らはヨハネよりも偉大で、福音がもたらす神の国で栄光を受けます。その理由は、イエス様についてより多くのことを知り、より深い関係を築くからです。

 民たちは、バプテスマのヨハネを神様から遣わされたしもべだと知り、彼の偉大さを認めていました。しかし、宗教指導者たちはヨハネのメッセージも、バプテスマも、すべて拒否しました。これはヨハネを拒否したのではなく、彼を遣わした神様を拒否したことになります。当時の子どもたちの市場での遊びに、一方が笛を吹くと、もう片方は踊り、一方が弔いの歌を歌うと、もう片方は泣くというものがありました。相手がふさわしい反応をしなければ、子どもは、がっかりします。このように、宗教指導者たちはヨハネやイエス様に対して、当然取るべき反応を示しませんでした。これはヨハネやイエス様が間違っていたのではなく、宗教指導者たちの内面の問題でした。福音に対して正しく反応をしないことは、深い罪でもあるのです。



祈り:主よ、私がバプテスマのヨハネのように、自分に与えられた使命を完全に全うできるように助けて下さい。そのためにも、主とますます深く交わり、親しくなれるように導いて下さい。

一言:主を深く知る



2023年 03月 26日 (日)

ルカの福音書 7:36-50(47)
罪を多く赦されればよけいに愛する

 あるパリサイ人がイエス様を食事に招き、イエス様が食卓に着かれた時です。その町に一人の罪深い女がいて、香油の入った石膏のつぼを持って、イエス様のところに来ました。彼女は泣きながら、イエス様のうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐいました。そして、御足に口づけして、香油を塗りました。この光景を見たパリサイ人シモンは、女をそのままにしているイエス様のことも、また彼女のしたことについても、理解できませんでした。

 イエス様はシモンに尋ねました。「ある金貸しから、ふたりの人が金を借りていた。一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ。彼らは返すことができなかったので、金貸しは二人とも借金を帳消しにしてやった。それでは、二人のうちどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか(41-42)。」シモンは、より多くを赦してもらった方だと答えました。イエス様は、女の行いとシモンの行いを比べました。シモンは、イエス様に水を与えず、口づけせず、油を塗りませんでした。イエス様を愛していなかったからです。半面、女は涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛でぬぐい、口づけをしました。そして高価な香油を塗りました。この女がイエス様を愛したのは、返すことのできない借りを赦されたからです。彼女の赦された借りとは罪のことです。イエス様に赦された罪を思うと、イエス様を愛さずにいられませんでした。しかし、シモンは自分を罪人だとは思わず、罪の赦しを受け取っていませんでした。それで、彼はイエス様を愛さず、罪人が触ってくることを赦しませんでした。イエス様は、どんな人であれ赦された者は生まれ変わった人だと知っておられるので、罪人を受け入れました。石膏のつぼを割り、香油を注いだ女に罪の赦しを公に宣布し、新しくやり直せるように助けられました。罪赦された人はイエス様を愛し、他の罪人を受け入れるのです。



祈り:主よ、私もシモンのように自分の罪に鈍感であったことを認めざるをえません。自分がどれだけ主の前で罪ある者であるかを、より深く悟れるように助けてください。そして、罪の赦しの恵み、喜びを深く知る者に変えてください。

一言:多く赦された者は多く愛する


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