聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 03月 27日 (月)

ルカの福音書 8:1-15(15)
良い地

イエス様が町々を巡り、神の国を説いていると、大勢の人の群れが集まり、方々の町からも人々がみもとにやって来ました。イエス様は、たとえを用いて話されました。

種を蒔く人が種を蒔くと、ある種は道端に落ち、空の鳥が食べてしまい、別の種は岩の上に落ち、生長したものの、水分がなく枯れてしまいました。また、別の種は、茨の真ん中に落ち、いっしょに生え出た茨がふさいでしまいました。また、別の種は良い地に落ち、百倍の実を結びました。このたとえで、種は、神のことばのことです。また、四つの土地は、御言葉を聞く人々のことです。みことばは良い地に落ちれば、百倍の実を結びます。しかし、道端のような堅い心、岩地のように根を下ろせない心、茨の地のように日常生活の心配事で忙しい心であれば、伝えられたみことばは、決して実を結ぶことはありません。イエス様が話された四つの土地の中で実を結んだのは、良い地のみです。

実を結ぶ良い地とは、正しい、良い心でみことばを聞き、しっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる人のことです。良い地の人は、みことばを聞きながら、みことばの意味を考え、御言葉を悟れるように努力します。みことばを聞いた後は、それを心に大切に刻みます。このような正しく、良い心でみことばを聞き、守るとき、みことばは必ず実をならせます。みことばを種にたとえる話は、イエス様のみことばを私たちがどのような心で聞くかによって、百倍の実を結ぶ可能性があることを教えてくれています。人生において、百倍の実を結ぶことは、驚くような祝福ではないでしょうか。この祝福は、みことばを聞く時の私たちの心の姿勢だけにかかっているのです。みことばを大切にし、耐えれば、みことば自体の力が働き、私たちの中に実を結びます。



祈り:主よ、私が謙遜に御言葉を受け入れることができず、聞き従うこともしてこなかったことを悔い改めます。私は御言葉を深く受け入れ、聞き従います。

一言:聞いて守り、忍耐で実を結べ



2023年 03月 28日 (火)

ルカの福音書 8:16-21(21)
イエス様の家族

あかりをつけるのは、暗いところを明るくさせるためです。ですから、あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりせず、燭台の上に置きます。家に入って来る人々に、その光が見えるためです。あかりのもとで全てがあらわになります。ですから、イエス様は聞き方に注意しなさいと言われます。みことばを注意してじっくりと聞く人は、さらに与えられ、そうでない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。

 みことばを注意して聞くと、何が与えられるのでしょうか。神の国についての真理を悟ります。神の国の恵みと祝福を受けます。それだけでなく、イエス様の家族になる特権も受けます。イエス様が教えておられるところに、イエス様の母と兄弟たちが来ました。しかし、群衆のためにそばに近寄れませんでした。それでイエス様に、母上と兄弟方が、お会いしたいと外に立っておられるという知らせがありました。これにイエス様は、神のことばを聞いて行う人が母であり、兄弟であると答えられました。イエス様のみことばを聞いて行う人は、イエス様の家族だということです。そして、神の国を相続する者となるのです。このイエス様の家族になる特権は、血筋ではありません。みことばを聞く姿勢によるものです。注意して神のみことばを聞く人は、みことば通りに歩もうと努力します。そのような人こそ、この世だけではなく、神の国においてもイエス様の家族となる特権を受けるのです。



祈り:主よ、私が霊的な家族観を持てず、血縁に縛られ、主を悲しませた罪を悔い改めます。私がどんな状況の中でも、絶望せずに、さらに強い信仰を持つことができるように助けてください。

一言:霊的な家族が本当の家族



2023年 03月 29日 (水)

ルカの福音書 8:22-25(25)
あなたがたの信仰はどこにあるのですか

イエス様は、「湖の向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに言われました。イエス様と弟子たちが舟に乗り、美しいガリラヤ湖を渡っている間に、イエス様はぐっすり眠り始められました。ところが、突風が湖に吹きおろして来ました。突風はイエス様と弟子たちの乗った舟を今にも沈めそうな勢いでした。荒れ狂う突風と舟に被った水を見て、弟子たちは死の恐怖に取りつかれました。弟子たちはイエス様を起こして言いました。「先生、先生。私たちは死んでしまいます。(24a)」弟子たちが悲鳴をあげたので、起こされたイエス様は起き上がり、風と荒波を叱りつけられました。すると、さっきまでの激しい風と荒波が、うそのように静まり、凪になりました。イエス様は突風を静められると、弟子たちにこう言われました。「あなたがたの信仰はどこにあるのですか(25)。」イエス様が弟子たちの信仰を尋ねられたのは、それまであったはずの信仰が、今はなくなっているからです。弟子たちは、突風のせいで信仰を失ってしまいました。しかし、風と荒波を叱りつけられたイエス様を見て、弟子たちは新たに信仰を持つようになりました。イエス様が先生であるだけでなく、風と荒波も治める方であることを信じたのです。

 突風は、私たちの信仰を失わせることがあります。突風は、私たちを恐れに巻き込むこともあります。しかし、イエス様と共にする航海は、決して死で終わることはありません。むしろ、風と荒波を叱りつけ、静められるイエス様を体験する機会です。突風の前で自分自身の弱さを知り、謙遜にイエス様に頼る信仰を学ぶことができます。そして、「向こう岸へ渡ろう」とイエスさまが召して下さったのなら、最後まで責任もって連れて行ってくださる方であることも知るようになります。



祈り:主よ、突風に気を取られてしまって、イエス様の権威と力を忘れていたことを悔い改めます。権威あるイエス様がともにおられるなら、イエス様の言われたとおりに、必ず向こう岸に渡れると信じます。

一言:イエス様のことばで、突風は静まる



2023年 03月 30日 (木)

ルカの福音書 8:26-39(39)
神があなたにしてくださったことを話しなさい

イエス様がゲラサ人の地に着いたとき、ひとりの悪霊につかれた人に会いました。彼はイエス様を見るや、叫び声をあげ、御前にひれ伏しました。これは助けを求める心の現れです。しかし同時に、自分を苦しめないでほしいと反発もしていました。なぜこのように分裂しているのでしょうか。それは、イエス様がすでにこの男の中にいる汚れた霊に、この人から出て行くように命じられたからでした。人々は、彼がなぜ反抗的で、立てつき、反社会的であるのかを理解できませんでした。鎖と足かせでつなぎ留めておくことしかできませんでした。しかし、イエス様は彼の問題を、正確に判断され、尋ねられました。「何という名か。」彼の中に宿っている闇の勢力を光の下にさらけ出し、真の名前を見つけ出そうとされました。彼は、レギオン(大勢)だと答えました。彼の中に汚れた霊が大勢いて、彼を操り、破滅させていたのです。

 悪霊どもはイエス様の力に屈し、出て行く代わりに豚に入ることを願いました。イエス様が許されると、悪霊どもは豚に入り、豚の群れはいきなり崖を下って湖に入り、おぼれで死んでしまいました。悪霊の去った男は着物を着て、正気に返って、イエス様の前に座っていました。本当の自分の名前を取り戻したのです。一方で、町の人々は、これでは養豚産業が立ち行かなくなることを恐れて、イエス様に出て行ってほしいと願いました。彼らは物質的な利益に目がおぼれ、メシアを排斥してしまいました。悪霊が去ったその人は、イエス様のお供をしたいとしきりに願いましたが、イエス様は彼をゲラサのみわざに用いるよう派遣されました。神様があなたにどんなに大きなことをしてくださったのか、神の救いの恵みを話して聞かせなさい、と命じられました。



祈り:主よ、宣教とは、神さまが私にしてくださったことを伝えることから始まるのだと学びます。主が私のためにしてくださったことを、人々に話して聞かせる者となるように助けて下さい。

一言:イエスさまが私にしてくださったこと



2023年 03月 31日 (金)

ルカの福音書 8:40-48(44)
衣のふさに触れ

イエス様が帰って来られると、会堂司のヤイロがイエス様の足もとにひれ伏して、自分の家に来ていただきたいと懇願しました。彼の十二歳ぐらいの一人娘が、死にかけていたためでした。それでイエス様が出かけられると、群衆は押し迫ってついて来ました。その群衆の中には、十二年の間、長血をわずらい、だれにも直してもらえなかった女の人がいました。律法では、長血をわずらうことは、汚れた病とみなされ、疾患者が触れるものすべてが汚れると思われていました。女は誰とも会えず、寂しさと孤独の中で生きるしかありませんでした。命ともいうべき血が、常に体外に出ていくため、力もありませんでした。女はあらゆる困難を乗り越え、イエス様の衣のふさに触れたのです。彼女の行動は、イエス様の衣のふさに触れさえすれば、病も直るという信仰に基づいていました。彼女が信仰の通りに着物のふさに触れると、ただちに出血が止まりました。

 イエス様は自分から力が出て行くのを感じて、足を止めて、触った人を探し始めました。彼女は震えながら進み出て、すべての民の前で、いやされた次第を話しました。イエス様は憐れみを込め、「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と女の信仰を祝福されました。もし彼女に信仰がなければ、自身を悲観的に思い、暗い気持ちのまま、何も出来ずに死を迎えていたかもしれません。しかし、彼女は信仰によって障害を乗り越え、信仰によってイエス様の衣のふさに触れたのです。信仰は、死者を彷彿させるようなこの女をよみがえらせ、新しいいのちを与え、美しい女性として生まれ変わらせました。信仰は、主の能力と恵みと祝福を重ね合わせてゆく道です。そして、イエス様は、彼女にまことの平安を与えてくださいました。



祈り:主よ、私の恥ずかしい持病を癒し、死んだ者のようになっていた私を御言葉の力で生かしてくださり感謝します。私が自意識と恐れを克服し、大胆な信仰を持つことができるように助けてください。

一言:主に期待する信仰



2023年 05月 21日 (日)

ルカの福音書8:49-56(50)
恐れないで、ただ信じなさい

イエス様が長血をわずらった女とまだ話しておられたとき、ヤイロは死にかけている自分の娘を思って心配と焦りでいっぱいでした。その時でした。会堂司の家から人が来て言いました。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」その瞬間、目の前が真っ暗になり、恐れが襲ってきました。イエス様だけを頼りにここまでやって来たのですが、もうすべてが終わってしまったという絶望感に覆われました。信仰とは、恐れと絶望感の侵入を防ぐ堤防のようなものです。信仰の堤防が崩れてしまったとき、恐れと絶望感が押し寄せてきます。ヤイロはそのまま座り込むしかありませんでした。しかし、イエス様は何と言われましたか。「恐れないで、ただ信じなさい。」ヤイロに信仰を保つようにと言われたのです。たとえ状況が悪化しても、今まで守ってきた信仰をしっかり保ちなさいという励ましのことばでした。「そうすれば、娘は救われます。」と約束してくださいました。

ヤイロはこのイエス様の御言葉によって、信仰を取り戻し、力と勇気を再び出して起き上がりました。そしてイエス様と一緒に家に向かいました。イエス様はその家に入られましたが、人々はみな、娘のために泣き悲しんでいました。しかし、イエス様はこう言われました。「泣かなくてよい。死んだのではなく。眠っているのです。」人々は娘が死んだことを知っていたので、イエス様をあざ笑いました。しかしイエス様は、娘の手を取って、叫んで言われました。「子よ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がりました。イエス様は死んだ娘を生き返らせました。イエス様は死んだ者をも起き上がらせる復活といのちの主です。このイエス様のうちにとどまる時、死んだ者たちが生き返ります。



祈り:主よ、目に見える状況にすぐ反応し、恐れてしまう私をあわれんで下さい。主の助けを信じ、待ち望むように助けて下さい。

一言:ただ信じなさい


<<(1)    前のページ(7)    8    次のページ(9)    (24)>>

聖書別日ごとの糧