聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 05月 22日 (月)

ルカの福音書9:1-9(6)
いたる所で福音を宣べ伝え

 今までは、弟子たちはイエス様の後ろについていくのみでした。しかし、ここで、イエス様は弟子たちを世に遣わされます。イエス様が行われてきたみわざを、自分達で行なうようにされました。現場学習の実施です。イエス様は弟子たちに何をお授けになりましたか。すべての悪霊を追い出し、病気を治すための力と権威とをお授けになりました。福音の働き手にとって、もっとも必要なものは、霊的能力と権威です。

 イエス様は、旅には何も持って行かないようにと命じられました。杖も、袋も、パンも、金も、下着も、どれも旅行の必需品です。それにも関わらずイエス様はこれらを持って行かないように言われたのです。それは、ただ生きておられる神様だけに頼るようにするためでした。また、どの家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさいとイエス様は言われました。これは、食べる問題、寝る場所の問題に気を取られずに、ただ使命を果たすことだけに集中しなさいという意味です。福音を受け入れない者については、どんな姿勢を持つべきでしょうか。「足のちりを払い落とす」、つまり、やることはやったので、後は主にお任せする、ということです。悔しい思いをしたり、意地悪い考えを持ったりせずに、ただ主に委ねてまた次に向かって出かけるのです。

 弟子たちは出かけて行って、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直しました。ユダヤ全域に同時多発的に、素晴らしい聖霊のみわざが起こりました。領主ヘロデは、これらの出来事を聞いて、ひどく当惑しました。彼は自分が首をはねたヨハネがよみがえったのではないかと恐れました。弟子たちの伝道の働きは、ヘロデ宮廷を震撼させるほどの大きな社会的波紋を呼び起こしました。



祈り:この私をも、福音の働き手としてこの世に遣わしてくださったことを感謝します。私に与えられた場所で、神様の恵みと愛を証しし、この世界に対して良い働きを行えるように助けてください。

一言:いたる所で



2023年 05月 23日 (火)

ルカの福音書9:10-17(16)
五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げ

 使徒たちは帰ってきて、自分たちのして来たことを報告しました。イエス様は彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれました。ところが、どうやって知ったのか、多くの群衆がイエス様について来ました。使徒たちは、せっかくの休暇を、群衆たちのせいで台無しにされたと思ったことでしょう。しかし、イエス様は群衆を喜んで迎え、神の国のことを話し、いやしの必要な人たちを治されました。そのうち、日も暮れ始めたので、使徒たちがみもとに来て、群衆を解散させ、食べに行かせるようにイエス様に提案しました。

 そのとき、イエス様は何と言われましたか。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちの状況をよく知っておられるイエス様がこのように命じられた理由は何でしょうか。それは、彼らを牧者として訓練するためでした。牧者はどんな状況の中でも責任をもって、羊たちを食べさせる者です。私たちは、自分のことを先に考えてしまうことがよくあります。現在の自分の状況や都合からして、羊たちを食べさせることは到底無理だと考える時があります。しかし、主は、私たちがどんな状況に置かれていたとしても、羊たちを食べさせる牧者になることを願っておられます。

 弟子たちには五つのパンと二匹の魚しかありませんでした。ところが、イエス様はそれを取り、天を見上げて、神をほめたたえ、裂いて群衆に配って食べさせました。五つのパンと二匹の魚で、男だけでも五千人を食べさせる奇跡が起こりました。羊たちに対する責任感と、生きておられる神様に対する信仰をもって、五つのパンと二匹の魚を捧げるとき、神様は私たちを用いて、この時代の兄弟姉妹たちを食べさせるみわざを行なわれます。



祈り:主よ、私には少ない持ち物しかありません。でも、主にそれを預けるならこの世に対して大きな働きがあることを信じます。イエス様がされたように、私も羊を養い、喜びを得ることができるように助けて下さい。

一言:みな、食べて満腹した



2023年 05月 24日 (水)

ルカの福音書9:18-27(20)
あなたがたは、わたしをだれだと言いますか

 イエス様が一人で祈っておられた時、一緒にいた弟子たちに、人々はご自分のことを誰だと言っているのかを尋ねました。また、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と聞かれました。ほかの人々のイエス様に対する意見はさておき、弟子たちの個人的な信仰告白をイエス様は促されました。イエス様をどのような方として考えるかが、生死の分かれ道となるからです。

ペテロが答えて言いました。「神のキリストです。」つまり、神様が約束してくださり、神の時になって、神様が送ってくださったキリストであるという意味です。彼はイエス様がどんな方であるかを正確に知っていました。そして、それを口で告白しました。人々は、心で信じるだけで良いのではないか、別に口に出して信仰を告白する必要はないのではないかと思ったりします。しかし、信仰告白は決断の表れです。信仰告白することで、私たちはイエス様と揺るぎない絶対的な関係性を結ぶことができます。

 イエス様は、ご自分が必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、そして三日目によみがえると言われました。イエス様は、なぜこのような道を行くべきなのでしょうか。人間の根本問題が、神様から離れてしまった罪の問題であるからです。神の御子イエス様は、人間の罪の問題を解決するためにこの世に来られました。そして、解決して下さいました。そんなイエス様について行きたいと思うなら、私たちは自分を捨て、日々自分の十字架を負う必要があります。このような生き方は、自分のいのちを失うように見えて、実は、イエス様しか与えることの出来ない喜びと知恵、平安、御霊の実を得させてくれるのです。



祈り:イエス様は神のキリストであり、私の救い主です。イエス様の十字架の贖いによって、私は救われ、完全に新しいものに変えられました。イエス様のこの深い愛に応える心で、今日も主に従っていけますように。

一言:神のキリストが私の主



2023年 05月 25日 (木)

ルカの福音書9:28-43a(35)
彼の言うことを聞け

イエス様がペテロとヨハネとヤコブとを連れて、山に登られ、祈られたときでした。イエス様の御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝きました。しかも、モーセとエリヤが現われ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期について一緒に話していました。弟子たちは眠くてたまりませんでしたが、はっきり目が覚めると、イエス様の栄光と、イエス様と一緒に立っている二人の人を見ました。苦難と様々な問題が山積みの山の下の世界よりも、栄光の姿のイエス様と尊敬するモーセとエリヤがいるこの場所にいるほうが、よっぽど良かったのでしょう。それで、三人のために三つの幕屋を造って、すばらしいこの場所に居続けたいと考えました。しかし、弟子たちが、イエス様をモーセとエリヤと同等に扱ったので、父なる神さまは言われました。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」。モーセもエリヤも偉大な信仰の先輩ではありますが、彼らも私たちと同様に、イエス様の救いを必要とする被造物でしかありません。私たちが主として礼拝し、聞くべきは、神さまから選ばれた御子、主イエス様だけです。私たちの救い、成長、永遠のいのちは、イエス様の言われることを聞くことから始まります。

 山から下りて来たとき、山の下にいた弟子たちは子供にとりついた悪霊を追い出すことができないでいました。イエス様は、不信仰な、曲がった今の世だとお叱りになってから、その子をいやしてくださいました。信仰とは、経験や目に見える事柄より、ただイエス様の御名による権威を信じることです。弟子たちが不信仰だったのは、イエス様の御言葉を聞いても信じないで、自分の過去の経験に頼ったからでした。日々、イエス様の御声を聞き入れ、イエス様の御名による権威に頼るとき、悪霊を追い出し、人をいやすことができます。



祈り:主よ、選ばれた御子イエス様をこの世に与えてくださったことを感謝します。様々な思想や教えにあふれる社会の中でも、私がイエス様の御言葉に頼って、従うことができるように助けてください。

一言:イエス様の御言葉



2023年 05月 26日 (金)

ルカの福音書9:43-56(48)
一番小さい者が一番偉いのです

 悪霊に取りつかれていた子をいやされたイエス様に、人々は驚いていました。その時、イエス様は弟子たちに、ご自分が、人々の手に渡されると言われました。しかし、彼らには、まだこのみことばが理解できませんでした。また、弟子たちはそのことばについて尋ねるのを恐れました。これは、弟子たちがイエス様を通して得たいと思っていた栄光だけに関心があったからです。そんな弟子たちの心は、だれが一番偉いかを議論する姿を通して表れました。イエス様は、偉くなりたいという弟子たちの思いに対しては、何も指摘されませんでした。しかし、偉くなるための方法については、弟子たちとは異なる考えをお持ちでした。

イエス様は一人の子どもをご自分のそばに立たせ、このような子どもをご自分の名のゆえに受け入れる人は、イエス様ご自身を受け入れることだと話されました。そして、「あなたがた皆の中で一番小さいものが、一番偉いのです。」と言われました。弟子たちの心は、立身出世や権威、名声という社会的評価を得ることに向いていましたが、イエス様は、偉くなるために目指す方向は、そちらではない、と教えようとされたのです。子どもというは、無視されやすい存在です。その意見が重んじられることは、ほとんどありません。重要な集マリア会議に呼ばれることもありません。しかし、そのような小さな存在に目を向け、受け入れ、仕えることを、イエス様は大きく偉大なことだと見なされました。霊的に幼く、弱い兄弟姉妹たちに仕える牧者の働きは、時には面倒に思われ、報いも少なく、あまり大きな働きをしていないように感じてしまうことがあります。しかし、これこそが、イエス様についてゆく偉大な生き方です。まことに偉大なことは、高い地位を得ることではなく、イエス様から学ぶことです。イエス様を学び、子どものようなひとりを受け入れる人こそ、イエス様に似た偉大な人です。



祈り:子どものような一人を受け入れ、仕えることは、主イエスさまに仕えているのと同じであることを学びます。私の小さな働きが、主の目には、大きく偉大なものであることを感謝します。

一言:世の価値観ではなく、主の価値観で



2023年 05月 27日 (土)

ルカの福音書9:57-62(60)
イエス様について行く姿勢

 イエス様が道を進んで行くと、ある人がイエス様のどこに行かれても、ついて行くと言いました。すると、イエス様はご自分についてこう言われました。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」イエス様は使命中心の生き方をされました。イエス様がこのように言われた理由は、彼が、イエス様について行く生き方に対し、甘い考えを持っていたからです。イエス様について行くためには、自分の理想通り、願い通りの生活にならないこともあります。自分なりの理想に基づいてついて行こうとするなら、自分の期待通りにならなかった時、失望するしかありません。

 イエス様は別の人に「わたしに従って来なさい。」と言われました。しかし、その人は、「まず行って、父を葬ることをお許しください」と答えました。また別の人は、「主よ、あなたに従います。ただ、まず家の者たちに、別れを告げることをお許しください」と言いました。父親を葬ることほど大事なことが、この世にあるでしょうか。また、当分の間家族と会えなくなると思ったら、別れの挨拶をしに行くのも、当然です。それにもかかわらず、イエス様は、死人たちに彼ら自身の死人たちを葬らせ、うしろを見ずに出て行って、神の国を言い広めるようにという厳しい言葉を返されました。彼らの共通点は、「まず」「ただ、まず」と、イエス様について行くことに、条件をつけたことです。収税人のレビがイエス様に「わたしについて来なさい」(マタイ9:9)と声をかけられた時、レビは即座に立ち上がってイエス様に従いました。その結果、彼の家は、人々をもてなし、主と交わり、和解をもたらす場所に変えられました。様々な問題や人間関係を解決してから主について行こうとするならば、いつまでたっても主について行くことはできません。主が私たちのうしろのことさえも、責任を持ってくださる方であることを信じて、うしろを見ずに主の召されに応答しましょう。



祈り:主よ、あなたが私を召されるときは、私のうしろのことさえにも責任をもって下さることを信じます。私が正しい優先順位を持って主に従っていけるように、助けてください。

一言:あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい


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