聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 05月 28日 (日)

ルカの福音書10:1-16(2)
収穫のために働き手を送ってください

 イエス様は、別に七十二人の弟子を定め、ご自分が行くつもりであった全ての町や村にお遣わしになりました。羊飼いのいない多くの民に仕えるには、七十二人であっても、足りません。「収穫は多いが、働き手が少ない」のです。働き手が少ないと、絶望しやすくなります。しかし、イエス様は、収穫の主である神様に「収穫のために働き手を送ってください」と祈るように言われました。働き手を遣わして用いられる方は、神様だからです。

 イエス様は、七十二人を遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものであると言われました。これがイエス様の率直な心境でした。それほど弟子たちは弱くて足りない者達でした。そうでありながらも、財布も旅行袋も持たず、靴も履かずに行きないさいと言われました。それは、ただ神である主だけに頼るようにさせるためでした。また、道でだれにもあいさつをしてはいけないとも言われました。なぜなら、あいさつをしているうちに、人間的な観点のみで話すようになり、伝道という本来の目的を失ってしまうからです。また、どの家に泊まっても、平安を告げ、親しく交わり、そこにいる病人を癒し、神の国を宣べ伝えるべきです。しかし、もし人々が彼らを受け入れないならば、そのことに囚われずに、町のちりをぬぐい捨て、また次の町に進んで行けば良いのです。

 当時、福音を聞いても悔い改めなかった代表的な町は、コラジン、ベツサイダ、カペナウムでした。これらの町は、旧約時代に神のさばきの対象となったソドム、ツロとシドンよりも、更に厳しい裁きを受けるのです。なぜなら、どの町よりもイエス様について聞き、なされた御業について知っていたにもかかわらず、拒んだからです。弟子たちが伝える福音の御言葉は、神様からの御言葉です。人々が弟子たちを受け入れないことは、イエス様を受け入れないことであり、父なる神様を受け入れないことです。弟子たちは、自分が神様の特命全権大使であることをしっかり認識し、大胆に福音を宣べ伝えなければなりません。



祈り:主よ、収穫できるものが少ないのではなく、働き手が少ないのだと学びます。私が人々に平安を告げ、親しく交わり、病人をいやす良き働き手となるように助けて下さい。

一言:私は主のための働き手



2023年 05月 29日 (月)

ルカの福音書10:17-24(20)
名が天に書き記されていることを喜びなさい

 七十二人は、伝道旅行から喜んで帰って来ました。彼らは主の御名を使うと、悪霊どもでさえ服従するという大きな権威を体験しました。イエス様は彼らを激励しながらも、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって喜んでないで、ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさいと言われました。悪霊どもが服従することは、確かに大きな出来事です。しかし、私たちの名が天に書き記されることこそ、もっと喜ぶべきことなのです。私たちの名が天に書き記され、私たちの存在と人格がイエス様に似ていくことほど、驚くべき素晴らしいことはありません。

 ちょうどこのとき、イエス様は弟子たちのことで、聖霊によって喜びにあふれ、感謝の祈りを捧げられました。父なる神様は、賢い者や知恵のある者には福音の奥義を隠し、幼子たちのように心の貧しい者たちには現してくださいます。そのような者に、聖霊によって父なる神様を知らせます。イエス様は弟子たちのほうに向いて、ひそかに言われました。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いです。」と言われます。なぜなら、多くの預言者や王たちが弟子たちの見ていることを見たいと願ったのに、見られなかったからです。しかし、弟子たちは自分たちの目でキリストを見、メシアから直接神の御言葉を聞いているのです。彼らがこの世でもっとも幸いな者なのです。霊的な目が開け、主を見て、主の御言葉が聞けることは、大きな祝福なのです。



祈り:主よ、イエス様を通して私に霊的な権威と恵みを与えてくださり、感謝いたします。またそれ以上に、私の名が天に書き記されていることを感謝いたします。

一言:天では私の名は知られています



2023年 05月 30日 (火)

ルカの福音書10:25-37(36)
だれが、強盗に襲われた者の隣人になりますか

 イエス様を試みようとして、何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるのかと聞く律法の専門家に、律法には何と書いてありますか、と主は聞き返されました。専門家はそれに答えた上で、自分の正しさを示そうと、「では、私の隣人とはだれですか」と聞きました。するとイエス様は、あるたとえ話をされました。ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われました。強盗たちは、その人の着物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにして立ち去りました。そこに、たまたま、祭司が一人、その道を下って来ましたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行ってしまい、レビ人も祭司と同じようにしました。ところが、あるサマリア人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやりました。彼は時間とお金と心を尽くして強盗に襲われた者を助けたのです。次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して介抱してあげてください、もっと費用がかかったら、帰りに払いますと言いました。イエス様はこの例えを話されてから、律法の専門家に、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うかと聞かれました。彼は、あわれみ深い行いをした人だと答えました。今まで彼は、隣人とは、自分の周りにいる人だと思っていたでしょう。ところが、イエス様の例えの御言葉を聞きながら、強盗に襲われた者こそ、自分があわれみ深い行いをすべき隣人であることを悟りました。

世の中には、罪と強盗のようなサタンに襲われ、血を流し死んでいく魂の人々が多くいます。だれも彼らの心の傷と痛みを顧みてくれません。何のつながりもなくとも、彼らをあわれみ、近寄って聖霊の油で痛みをいやし、御言葉のぶどう酒で彼らの傷を顧み、仕える人こそ、まことの隣人です。まことの隣人になるためには犠牲が必要です。主は私たちがまことの隣人になることを願っておられます。



祈り:心に傷と痛みを負った私をあわれみ、助け、隣人となって下さった主に感謝します。主が私にして下さったように、私も傷ついた兄弟姉妹たちの隣人となるように助けてください。

一言:隣人になる



2023年 05月 31日 (水)

ルカの福音書10:38-42(42)
その良いほうを選びました

マルタはイエス様が来られると、食事の準備を始めました。それはイエス様のご一行に仕えるのに必要なことです。ところがマリアは全く手伝う考えをせずに、イエス様の足もとに座って御言葉に聞き入っていました。そこでマルタはイエス様に不平を言いました(40)。多くのことで心が落ち着かずにいたマルタはイエス様をお迎えした喜びを忘れてしまい、心配しました。比較意識によって不平をもらし、神経質になっていました。

 イエス様はこう答えられました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。(41,42)」イエス様は、私たちが多くのことで思い煩うことを望んではいません。イエス様は、必要なことは、一つだけだと言われました。沢山のことをすることが悪いことなのではありません。しかし、いろいろなことをすることで、気が落ち着かず、思い煩うのは、良くないことです。たましいへ悪い影響を及ぼしてしまいます。そんな時こそ、いろいろなことをしようとせず、一つのことに集中するほうが良いのです。イエス様は、マリアが必要な一つのこと、いや、一つの良いほうを選んだと言われました。忙しく動き回る前に、マリアのように、まず主の足もとにすわって、みことばを聞くことが良いほうなのです。みことばを聞き、力を得た後に、主の御わざに励むべきです。みことばを聞かずに、先にいろいろなことをするなら、感謝の心を失い、不満を漏らすようになります。みことばを聞いた後に、やるべきことをやる、それをイエス様は喜ばれます。



祈り:主よ、私が主の御言葉を聞くことより、多くの現実的なことに心を忙しくさせ、不平が多かったことを悔い改めます。この時間、マリアのように、静かに主の足もとで御言葉を聞きます。

一言:必要なことは一つだけ


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