聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 07月 13日 (木)

ルカの福音書11:1-13(2)
祈るときには、こう言いなさい

イエス様はある場所で、祈りについて教えてくださいました。まず、「父よ」と言い、私たちが神様に対して、その子どもとして祈るのだと教えてくださいました。子どもというのは、遠慮なく、何でもお父さんに相談し、願いを聞いてもらえます。お父さんは保護者であり、供給者であるからです。神様はそういう父のような存在です。イエス様が教えてくださった第一の祈り課題は「御名が聖なるものとされますように」です。これは、人々が神様を神様として認め、ふさわしく尊厳と栄光を帰すという意味です。第二に、「御国が来ますように」です。 私たちの心の中に、またこの世界にも御国(神の支配する国)が来るように祈らなければなりません。第三に「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください」です。日ごとの糧は私たちの努力によって得られると思いがちです。しかし、日ごとの糧のためにも神様に祈らなければなりません。次に「私たちの罪をお赦しください」と祈るべきです。最後に「私たちを試みにあわせないでください」と祈るべきです。私たちはいつでも試みにあうような弱い存在です。だからこそ神様に頼って祈らなければなりません。

 イエス様は、真夜中に友達のところに行ってパンをしつこくねだる例え話をされました。これは、私たちがあきらめることなく、あくまで頼み続ける祈りをすることを教えるためです。イエス様は、求め、捜し、たたく積極的な祈りをすることを、私たちに願っておられます。悪い者であっても自分の子どもには良いものを与えます。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊様を与えてくださいます。聖霊様は、すべての祝福の源です。



祈り:主よ、自分の弱さを認め、聖なる神様に頼って祈る日々が送れるよう助けてください。また、粘り強く祈る時、完全なる天の父である神様が私たちのふさわしい時に良いものを与えてくださることを信じます。

一言:こう言いなさい



2023年 07月 14日 (金)

ルカの福音書11:14-28(20)
神の国が来ているのです

 イエス様が口をきけなくする悪霊を追い出しておられるのを見て、群衆は驚きました。しかし、彼らのうちには「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言う者や、イエス様を試みようとして、天からのしるしを要求する者もいました。彼らは、根本的にイエス様を認めたくなく、イエス様を信じてもいなかったのです。

 彼らの心を見抜いていたイエス様は、内輪もめすると、国も家もつぶれてしまうので、サタンは絶対にそんなことをするはずがないと言われました。ですから、イエス様がベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているということは、話になりません。イエス様は神の指によって悪霊どもを追い出しておられます。そして悪霊が追い出された心は、神様が治められます。人の幸せも不幸も、誰によってその心が治められているかにかかっています。一度汚れた霊が出て行ったからといって、油断してはいけません。汚れた霊が、更にもっと悪い霊を連れて来て入り込み、住み着いてしまうなら、その人の後の状態は、はじめよりもさらに悪くなるからです。 

 イエス様がこれらのことを話しておられると、ある女が「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです。」と声をあげて言いました。しかし、イエス様は「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」と言われました。地上での最高の幸いは、神様のみことばを聞いてそれを守ることです。神様のみことばを聞いてそれを守る時に、私たちは心に臨まれている神の国を固く守ることができます。



祈り:イエス様、どうか私の心の主として私を治めてください。私の心にあなたの御国がありますように。私が御言葉を聞き、固く守りながら、王なる主の治めによる平安と喜びを味わう生活が出来ますように祈ります。

一言:神の国は来ています



2023年 07月 15日 (土)

ルカの福音書11:29-36(35)
自分のうちの光が闇にならないように

 イエス様は「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。」と言われました。ヨナのしるしとは、三日三晩、魚の腹の中に閉じ込められた後に、ヨナが腹の中から生きて出てきた出来事のことです。これはイエス様の十字架と復活を表しています。魚の腹から出て来たヨナが、さばきのメッセージを伝えると、ニネベの人々は悔い改めて神の言葉を受け入れ、救われました。イエス様の御言葉を聞いた人々も、悔い改めてイエス様の御言葉を受け入れるならば、救われ、人生が変わります。十字架と復活だけが人を救い、人の生き方を変えることができます。人々の求める癒しや奇跡などのしるしは、人を救うことはできません。

 人が明かりをともすのは、暗いところを明るくするためです。それで明かりを隠さずに、光が一番よくあたるように置きます。私たちのからだの明かりは、目です。目が健やかなら、世のことや人の人生のことを正しく見ることができます。目が悪いとからだも暗くなるので、私たちの心も生活も暗くなります。ですから、自分の心が明るいのか暗いのかを、よく見分けなければなりません。心が暗いとすれば、それは目が悪いということです。では、どうすれば目が明るくなるのでしょうか。イエス様の御言葉を聞いて悔い改める人は、目が明るくなって心も明るくなります。しかし、イエス様が行われるしるしばかりを求める人は、心とからだが暗くなってしまいます。私たちは、イエス様の御言葉を聞いて悔い改める生活に励み、自分のうちの光が闇にならないように、気をつけましょう。            



祈り:イエス様のしるしばかりに目を向け、落ち込んでしまう時がありました。イエス様の御言葉を聞いて、悔い改めるように助けてください。私の内側のひかりが保たれるように祈ります。

一言:光り輝く人生



2023年 07月 16日 (日)

ルカの福音書11:37-54(41)
内にあるものを施しに用いなさい

 一人のパリサイ人が、イエス様を食事に招きました。そのパリサイ人は、イエス様が食事の前に、きよめの洗いをなさらないのを見て、驚きました。すると、イエス様は言われました。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強欲と邪悪で満ちています。愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。」パリサイ人は、律法を厳格に守り、祈り、断食、礼拝、献金をまじめにすれば、自分たちの内側の信仰ときよさが守られる、と考えました。ところが、イエス様から見ると、彼らの内側は、むしろ強欲と邪悪で満ちていました。

では、パリサイ人たちは、どのようにすれば、心がきよめられるのでしょうか。イエス様は彼らに向かって言いました。「内にあるものを施しに用いなさい。」パリサイ人たちは、律法を守ることに一生懸命でしたが、全ては、自分自身を建て上げるためでした。牧者の心情がなく、他人には、一切関心がありませんでした。イエス様は、そんな彼らに、自分の時間やエネルギー、財を、困っている人、様々な事情で悩んでいる人たちを助け、施すために用いるように命じられました。自分の都合によってはなく、相手の必要性に沿って助け、与える。そんな他者との謙遜な交わりを通して、自分が他者に優った者ではないことが分かるようになります。いっさいが、きよいのだと分かるようになります。人のきよさは、人の努力やまじめさによって得られるものではなく、神さまが与えるものです。

 律法の専門家は、人々には負いきれない律法を教えましたが、それらを自分たちは守りませんでした。彼らは、命を生かす律法をもって人々を殺していました。公義(神の正しさ)と神の愛を抜きにした信仰生活は、周囲の人を傷つけ、つまずかせます。主が求め、喜ばれることは、私たちがただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって主とともに歩むことです。(ミカ書6:8)



祈り:私たちは目に見える外見ばかりに注目してしまう弱さがあることを認めます。私たちが外側だけのクリスチャンにならないよう、内側からきよい生活が送ることができるように祈ります。

一言:貪欲を悔い改めて施しをする生活


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