聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 07月 27日 (木)

ルカの福音書14:1-6(5)
安息日に病気を直すことは正しいこと

 ある安息日に、イエス様はパリサイ派のある指導者の家に招かれました。彼らは安息日の律法によってイエス様を訴える口実を見つけようとしました。これで三回目です。安息日の律法解釈に関しては、一歩も引き下がろうとしませんでした。ところが、イエス様も妥協しませんでした。そこに水腫をわずらっている人がいました。今度は、その人を治す前に、律法の専門家、パリサイ派の人々に言われました。「安息日に癒すのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」本来であれば、「律法にかなっていない」と答えるはずの彼らは、黙っていました。それは、彼らの考えていることが間違っていたことを言い表しています。

イエス様はその人を抱いていやし、帰されました。それから、彼らに、「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」と問いました。パリサイ人も自分の息子や牛が井戸に落ちた時には、安息日であっても、すぐに引き上げていました。ですから、彼らはイエス様の質問に黙ってしまいました。決まりや伝統よりも優先しなければならないのは、人に対する愛です。



祈り:主よ、御言葉を通して律法の本質は私たちが隣人愛を持つことであることを教えてくださり、感謝いたします。主が愛されたように、私たちも隣人を愛することができるように助けてください。

一言:すぐに引き上げてやらないでしょうか



2023年 07月 28日 (金)

ルカの福音書14:7-14(14)
復活のときに、お返しを受けるのです

 招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づかれたイエス様は、招かれたときには、上座にすわならないようにと話されました。イエス様は「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と言われました。そもそも、パリサイ派の指導者がイエス様を招待したのは、イエス様をもてなし、話を聞きながら人々がイエス様から学べるようにするためではありませんでした。むしろ、自分たちの話をイエス様に聞かせ、人々の前で恥をかかせ、やり込めようとしていたのです。イエス様よりも自分達を高く評価し、自分達の正しさをアピールしようとしました。

イエス様は、また、食事に人を招く時には、友人、兄弟、親戚、金持ちではなく、むしろ、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招くようにと言われました。人々は見返りをすぐに求めがちですが、イエス様は、義人の復活のときに、お返しを受けられないことを恐れるようにと言われます。

人々は、自分を高くしようといつも競争心と妬みを持ち、低くなることを恐れています。しかし、末席を選ぶ人の心には平安があります。末席を選ぶ時には、再び上座に着くことを期待しないほうが良いです。なぜなら、そのような望みを持って末席を選ぶなら、それは謙遜なふりをしているだけであって、心にも平安がないからです。私たちは神の国の報いを期待しなければなりません。この世で高くされ、報いを受けてしまうなら、神の国で受ける報いはありません。神の国で高くされ、報われることの方が、はるかに良いことです。



祈り:主よ、天の御国において私たちに大きな報いを用意してくださったことを感謝いたします。この世で低くなることを恐れず、主が与えてくださる報いにふさわしく歩むことができるように助けてください。

一言:復活のときお返しを受ける



2023年 07月 29日 (土)

ルカの福音書14:15-24(17)
もう用意ができましたから

 イエス様とともに食卓に着いていた客のひとりが、「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう。」とイエス様に言いました。すると、イエス様は神の国の宴会について言われました。その宴会は盛大な宴会です。ところが、招いた人々は、畑や五くびきの牛を買ったので、また、結婚したので、行くことができないと言いました。畑と牛と結婚は、この世の所有と仕事と快楽が与える幸福と楽しみを意味します。彼らは、しばらくの間の幸福に酔って、神の国への招きを拒みました。すると、怒った主人は、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちを連れて来るように言いました。それでも、まだ席がありました。主人は言いました。「街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。」

神の国の宴会には、この世が与えてくれる幸福や楽しみとは比べものにならない程の価値があります。にもかかわらず、人々はつかの間のこの世の幸福や楽しみに酔っています。特に金持ちやこの世で成功した人ほど、そうです。人々は霊的に無知なため、神の国の価値を知りません。神の国の価値を知り、自ら進んで神様の御前に出て行く人は少ないのです。ですから、無理にでも連れて来なければなりません。宴会に人々を招くしもべたちの労苦が、更に必要となっている時代です。霊的に無知な人々を無理にでも連れて来る信仰によって、一人でも多くの人々を神の国に招くことができるように祈ります。



祈り:主よ、神の国の宴会を私たちに用意してくださり、またその存在を証してくださり、心から感謝いたします。この恵みがすべての人々に与えられていることを、主の愛を示すことで力強く証するように助けてください。

一言:無理にでも人々を連れて来なさい



2023年 07月 30日 (日)

ルカの福音書14:25-35(26)
自分のいのちまでも憎まないなら

 大ぜいの群衆が、イエス様といっしょに歩いていました。そんな時は、人々の反応を気にして、人々が好みそうな発言をしやすくなるものです。しかし、イエス様は自分の人気には構わず、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらには自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることはできません。」と大変厳しい言葉を言われました。また、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」とも言われました。

ここでの「憎む」とは、感情的に「嫌う」という意味ではありません。家族というのは、世に存在するものの中で、最も愛しやすい存在です。ですから、何も意識せずに暮らしていると、イエス様への愛と、家族への愛が、同じくらい、下手すると、気が付かないうちに、家族をもっと愛する生活をするようになってしまいます。ですので、イエス様よりも家族をもっと大事にするならば、イエス様についていけなくなる、という優先順位の問題について話されたのです。では、どうしたら、イエス様を一番に出来るのでしょうか。イエス様は、次のように話されました。塔を築こうとする時には、まず座って、建築費用を計算して準備しなければ、基礎を築くだけで終わってしまい、あざ笑われます。戦いを交えようとする時には、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つか、講和を求めるか、まず座って、考えなければなりません。「まず、座って」(28、31)、よく考える、それが秘訣です。御言葉を通して見えてくる自分の本当の姿や、心奥深くにあるものについて、意識して考えなければなりません。そうする中で、イエス様の前で自分が捨てるべきものが何であるのかが分かってきます。捨てるべきものを捨てる信仰が湧いてきます。イエス様のために自分の十字架を負ってイエス様について行くようになります。



祈り:主よ、あなたについてゆく弟子は、優先順位を間違ってはならないことを学びます。まず座って、自分の優先順位を点検したいと思います。イエス様以上に愛しているものがあれば、どうか教えて下さい。

一言:まず、座って


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