聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 09月 19日 (火)

ルカの福音書17:1-10(4)
赦しなさい

 イエス様は言われます。「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」一日に七回赦すことは、どれだけ難しいことでしょうか。使徒たちは、一日に七回赦すには大きな信仰が必要だ、と考えました。ところがイエス様は、からし種ほどの信仰があれば、そのようにできる、と言われます。兄弟を赦すことができないのは、信仰の問題ではなく、赦すのを嫌う心の問題です。私たちにはからし種ほどの信仰があるのですから、赦したくない心を悔い改めて、赦さなければなりません。

一日に七回兄弟を赦すことは、確かに難しいことです。ですので、兄弟を赦した時、自分がまるで偉大なことをしたかのように感じてしまい、自分を誇ろうとしてしまいます。しかし、イエス様は「同じようにあなたがたも。自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」と言われます。この御言葉から考えると、赦すことはクリスチャンの当然の義務であることが分かります。それで兄弟を赦した後には、何らかの報いを求めるのではなく、赦すことができたことに感謝しましょう。



祈り:主よ、赦すことは不可能だと思っていたことを悔い改めます。主が私にからし種ほどの信仰をくださったので、一日に七回でも兄弟を赦します。赦した後には感謝します。

一言:一日七回赦す



2023年 09月 20日 (水)

ルカの福音書17:11-19(17)
感謝する者と感謝しない者

ツァラトに冒された十人の人たちは、イエス様の御言葉に聞き従って祭司のところに行きましたが、その途上で、みな癒されました(14)。その中で、ただ一人、サマリア人だけが行った道を引き返して来て、イエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。彼は、受けた恵みに感謝する成熟した人でした。彼は、自分はイエス様の恵みと助けを受ける資格がない者だと思いました。自分のような惨めな者をいやしてくださったイエス様の恵みに感謝しました。イエス様はこのサマリア人の信仰を認め、彼に救いを宣言しました。これは、身体が癒されること以上の大きな霊的祝福です。

サマリア人以外の九人は、そのまま帰ってしまいました。彼らに対してイエス様は非常に淋しく思われました。「十人きよめられたのではなかったのか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」感謝することは神様に栄光をささげることなので、大変重要なことです。九人は受けた恵みを当然のように思いました。自分たちがどのようにして癒されるようになったのかを忘れてしまい、自分たちにはそれほどの価値があるとさえ思いました。そのような彼らは、イエス様を悲しませました。イエス様は私たちが頂いた御恵みを覚え、イエス様に戻って来て、感謝し、神様に栄光を帰すことを願っておられます。イエス様は感謝する信仰を祝福してくださいます。



祈り:主よ、私は、表面的な癒しでなく、内側から完全に良くなること、そしてイエス様を主として、救い主として知ることを望みます。イエス様のみわざと恵みに心から感謝しながら、イエス様のもとに引き返す者であるように助けてください。

一言:受けた恵みに感謝せよ



2023年 09月 21日 (木)

ルカの福音書17:20-37(21)
神の国はあなたがたのただ中にあるのです

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかとイエス様に訪ねました。彼らはイエス様が話された神の国についての教えを聞いて、神の国を見たくなったのでしょう。イエス様は神の国が近づいたと教えられましたが、彼らの目には、ロ-マ帝国の圧政と不義な世しか見えませんでした。彼らはこのような世に、神の国がいつ来るのかを知りたがったのです。イエス様は、神の国は見える形で来るものではないと言われました。神の国は「あなたがたのただ中にあるのです。」(21)と言われました。この御言葉の意味は何でしょうか。神の国が目に見える形で来るのではなく、イエス様を神の御子キリストとして受け入れた人たちの心の中に来るものであると言われたのです。イエス様を自分の王として受け入れ、イエス様の御言葉に聞き従う人たちの心の中に、神の国は来るのです。そのような人たちが集まる共同体に神の国が来ます。日々イエス様に治められている人は、どんな苦しい状況に直面しても神の国を味わいながら生きていきます。

イエス様は来るべき神の国を教えておられます。これから弟子たちは迫害のことで、「人の子の日」すなわち、主が悪者たちを裁かれるその日を待ち望むようになります。そのとき、人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言い誘惑します。しかし、イエス様は人の子の日に、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るように来られます。ですので、誘惑する者の言うことを聞く必要はありません。ノアの日とロトの日に起こった裁きの共通点は、人々が全く予想できなかった日に起きたことです。私たちはロトの妻のことを思い出すべきです。いつ起こるかわからないイエス様の再臨の日を準備しないで、この世のことに心を奪われるなら、来るべきその日の裁きを避けられません。私たちは、私たちのただ中に神の国があるのか調べて、来るべき神の国を待ち望む生活をしなければなりません。



祈り:主よ、私が世のことだけに心を向けていたことを悔い改めます。御国を私のただ中に築いて下さり感謝します。今日も、あなたに治められている者として平安と真理の中を歩めますように。

一言:神の国は私のただ中に


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