聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 09月 26日 (火)

ルカの福音書19:1-10(10)
失われた者を捜して救うために来た

イエス様がエリコに入り、町の中を通っている時でした。取税人であり、金持ちであったザアカイが、イエス様がどんな方なのかを見ようとしました。しかし、背が低く、人が多くて見ることができないでいました。彼は あきらめずに先の方に走って行って、桑の木に登りました。イエス様がそこを通り過ぎようとしておられたからです。イエス様がそこに来た時、ザアカイを見上げながら、彼の名前を呼んでくださいました。初対面であるのに、イエス様は彼の名前を知っておられ、彼の名前を呼んでくださいました。驚くべきことでした。さらに驚くべきことは、彼の家に泊まると言われたことでした。ユダヤ社会では、罪人の家に泊まることは禁止されているからです。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様を迎え入れました。

ザアカイはイエス様から御言葉を聞き、イエス様と会話もしました。イエス様との出会いは、ザアカイの人生を驚くほど変化させました。彼は貪欲を悔い改めて財産の半分を貧しい人たちに分け与えると決断しました。誰かから脅し取った物があれば、四倍にして返すとも言いました。イエス様は「今日、救いがこの家に来ました」と宣言してくださいました。ザアカイは救いの恵みを受け、アブラハムの子孫になりました。

イエス様は、ご自分がこの世に来た目的について教えてくださいます。イエス様は失われた者を捜して救うためにこの世に来られました。「ザアカイ」とは「清潔な人」、「義人」という意味です。彼は本来、神様の懐の中にいなければなりませんでしたが、罪のために神様から遠く離れていました。彼は失われた者でした。しかし、イエス様は、このような彼を捜して救うためにこの世に来られました。イエス様は今も神様から遠く離れた、失われた者である罪人を捜して救われます。



祈り:主よ、私のような失われた罪人を捜しに来て下さり、感謝致します。あなたの恵みによって救われた、悔い改めた罪人として生きることができるように助けてください。

一言:救いがこの私にも来ました



2023年 09月 27日 (水)

ルカの福音書19:11-27(17)
ほんの小さなことにも忠実に

主人は十人のしもべたちにそれぞれ一ミナを預け、王位を受けに行きました。そして、王位を授かって帰って来てからしもべたちと決算をしました。最初のしもべと二番目のしもべは、それぞれ十ミナ、五ミナを残したので、主人は彼らに「おまえはほんの小さな事にも忠実だったから」と言いました。彼らは預かった一ミナが少ないと不平をこぼすことなく、忠実に用いました。多くのお金を持ったほかの家のしもべをうらやましく思ってお金と時間を無駄にしませんでした。一ミナを受け取ってそれで熱心に働いて、実を結びました。人生を成功させる秘訣は、神様が今くださっているその生活を受け入れ、熱心に生きることです。ルツ記に出てくるルツは、熱心に畑で落ち穂を拾うことで、最終的にはダビデの祖母になる祝福を得るようになりました(ルツ2:2,3)。

一方、三番目のしもべは一ミナをそっと布に包んで、しまっておきましたが、彼はその一ミナさえも奪われました(26)。彼は一ミナを軽んじ、それでは何もできないと考えました。彼の心は不平と不満で満ちていました。多くのものを持った人をうらやましく思い、嫉妬しました。そのような態度が一番良くありません。預けられた一ミナに感謝し、熱心に働かなければなりません。



祈り:主よ、私に与えられた一ミナを貴く思い、熱心に生きたいです。これまでの不平と不満を悔い改めます。あなたの愛を信頼し、恐れや計算なしにあなたの御国の御業のために商売することが出来るように助けてください。

一言:一ミナで熱心に商売しよう



2023年 09月 28日 (木)

ルカの福音書19:28-40(38)
祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に

イエス様はエルサレムに入城する前に入城式を準備されました。派手な見せ物を準備するのではなく、みすぼらしいろばの子一匹を用意されます。イエス様がろばに乗る理由は、謙遜で平和で貧しい民と共におられる羊飼いであられるからです。イエスさまには、すべてのものの所有主で、執行者であられる創造主の品性があります。

 イエスさまは二人の弟子を村に遣わして、誰も乗ったことのないろばの子を連れて来るように言われました。「どうして、ほどくのか」と尋ねられたら、「主がお入り用なのです」と答えるように言われます。二人の弟子が行ってみると、そこにろばの子が居て、持ち主たち(owner)にイエスさまに言われた通りに話すと、連れて来ることができました。たとえ、ろばの子に乗っても、イエス様は神様です。真の持ち主(owner)であられます。イエス様が使われるとすれば、差し出す必要があります。私の時間と若さも、大切に思うどんな所有物でも、あるいは子と家族さえも、主がお入り用であれば、ささげる必要があります。

イエス様を神様として受け入れている人々の心は、喜びにあふれました。彼らは大声で賛美しました。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。」パリサイ人たちはこの賛美が聞きたくありませんでした。それで、イエス様に弟子たちを叱るように言いました。そこでイエス様は言われます。「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」(40)。人が賛美をしなければ、言葉も話せない、命もない石に賛美する権利を奪われるでしょう。万物の所有者、王であられるイエス様を賛美することは、人間の特権であり、命のある限り続けるべきことです。



祈り:主よ、王であられる主の御名を賛美致します。私の心の中に入って来て下さり、愛と平和で治めてください。

一言:私たちの王イエス・キリスト



2023年 09月 29日 (金)

ルカの福音書19:41-48(41)
都をご覧になって泣かれたイエス様

イエス様はエルサレムをご覧になって泣かれました。エルサレムの荒廃を予言されたからです。エルサレムの人々は神様の平和に関する福音を知るべきでしたが、そうはありませんでした。彼らは平和のために来られたイエス様を退けました。その代価として、敵に包囲され、「一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま」残らないほどの裁きを受けることになります。

イエス様の排斥は神の宮の堕落から始まりました。神の宮は祈りの家です。神様の御声を聞いて、御心に従う場所です。彼らはこれを軽く考え、物質的、世俗的な活動に没頭する場にしました。彼らは自ら神様から遠ざかり、神様の御許から来られたイエス様を受け入れることができませんでした。イエス様は日々神殿で教え、神様の御心を話されましたが、祭司長たちと民の指導者たちは、イエス様を殺そうとしました。彼らにとって、イエス様は、目のとげのようでした。イエス様だけを取り除けば、すべてがうまく行って平和になると思いました。しかし、真の平和は、イエス様を受け入れることにあります。



祈り:父なる神様、物質と世俗の誘惑に弱い私をあわれんでください。私の心がいつでも主を歓迎する心であるように助けてください。

一言:イエス様なしには真の平和はありません


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