聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2023]

2023年 09月 30日 (土)

ルカの福音書20:1-18(2)
何の権威によって

宗教指導者たちと長老たちは、サンヘドリン議会や神殿を管理する大祭司の許可なしに神殿で教えるイエス様に対し、不満でした。彼らはイエス様が何の権威によってこれらのことをしているのか、またその権威を授けたのはだれなのかと言いました。このような彼らに、イエス様は、バプテスマのヨハネが誰の権威で活動していたのかと尋ねました。民がヨハネを預言者として認めたということは、彼にたとえ世の権威はなくても、神様から与えられた権威があったことを示しています。イエス様も同様です。民の間で起こった驚くべきことは、イエス様の権威がどこから来たのかを知らせてくれます。イエス様は神様が与えられた正当な権威を持って働かれた権威者なのです。

 事実、このような権威を持っていなかったのは、宗教指導者たちと長老たちでした。ぶどう園の農夫のたとえを通してこれを証明することが出来ます。ある人がぶどう園を造って農夫たちに貸して、外国に出かけました。ぶどう園を農夫たちが管理しますが、彼らはぶどう園の主人ではありません。後で税を納めさせようと主人がしもべを遣わしましたが、農夫たちは、これを拒んでしもべを打ちたたき、追い出しました。彼らは正当な権利によって行う主人に敵対しました。主人は、彼らの悪事を我慢して自分の全権を委任した息子を遣わしました。ところが、彼らは相続者である息子さえ殺してしまいました。このような彼らが殺され、ぶどう園が他の人たちに移るのは当然です。宗教指導者たちは、ぶどう園の農夫たちと同じです。彼らは、イスラエルというぶどう園を管理しながら主人である神様の権威を認めませんでした。主人の権威を携えて来られたイエス様を、将来殺すようにさえなります。このような彼らは、真の権威者から滅ぼされます。



祈り:真の権威者であられるイエス様の御名をほめたたえます。あなたの権威と力に守られていることを感謝致します。あなたの尊い御用のために、どうぞ私を用いて下さい。

一言:神が授けた権威



2023年 11月 11日 (土)

ルカの福音書20:19-26(25)
カエサルのもの、神のもの

律法学者たちと祭司長たちは、たとえ話を聞いて悔い改めるのではなく、逆にイエス様を捕らえようとしました。彼らは機会を伺い、回し者を送り、イエス様の言葉尻を捕らえようとしました。彼らはまず、イエス様が人を分け隔てず、真理に基づいて神の道を教える真の先生だとお世辞を言いました。その上で税金について真理に基づいて神の道を教えてほしいと質問をしました。彼らはローマ皇帝への納税が律法にてらしてどうかと質問しました。もし、税金を皇帝に捧げないようにとイエス様が発言したら、反逆者として、ローマ総督に告発するつもりだったのです。

イエス様は彼らの悪巧みを見抜いておられました。イエス様は、カエサルの肖像と銘が刻まれているデナリ銀貨一つを見せ、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と答えられました。この答えに、彼らは民の前でイエス様の言葉尻を捕らえることができず、その驚くべき御言葉の前に驚嘆して黙ってしまいました。カエサルのものはカエサルに返さなければなりません。カエサルのものとは、例えば納税などの義務です。神様の民は、世の政府や上から立てられた権威に従うべきです(ロマ13:1,6,7)。しかし、神様のものはカエサルも侵害することはできません。神様のものは命をかけて、神様に献げることが律法にかなうことです。イエス様はソロモンよりも知恵があり、その判断はさといです。このイエス様のもとに伺い尋ねるなら、曖昧さはなくなり、明確な方向を掴むことができます。



祈り:わたしが世のものも、神のものも手にしてお返しすることを間違っていないか、知恵を与えてください。あなたから与えられたものはあなただけに返すように、心を整えてください。

一言:カエサルに、神に



2023年 11月 12日 (日)

ルカの福音書20:27-44(38)
生きている者の神

サドカイ人は復活がないと主張しました。兄が妻を残して死に、弟がその兄の妻と結婚するも弟も死にを七回も繰り返した七人兄弟のケ-スを例にあげて、彼らはこう質問しました。「復活の際、彼女は彼らのうちのだれの妻になるのでしょうか。」厄介な問題が生じるのではないかと指摘しました。イエス様は彼らがこの世と、復活した後の次の世の違いを理解していないと指摘されました。この世には結婚関係が存在しますが、復活すると結婚関係はもはやありません。復活すると人はみ使いと同じ存在になりますが、み使いたちは結婚もせず、夫婦関係もありません。結婚しなくても、真の満足と喜びを味わいます。サドカイ人は宗教指導者でしたが霊の存在を信じず、復活も信じず、人は死ぬと存在が消滅すると考えていました。しかし、イエス様は、彼らが信じているモ-セ五書の出エジプト記の御言葉(3:15)をとおして、復活をあかしされました。神様はモ-セに、ご自身をアブラハム、イサク、ヤコブの神であると紹介されましたが、これはモ-セの時代にも、アブラハムは生きていて、イサクも生きていて、ヤコブも生きているということを意味します。神様の中にあって、すべての死んだ者が生きています。人々はキリストをただダビデの子としてしか認識していませんでした。しかし、実際には、ダビデの主であるということを、「主は、私の主に言われた」(詩篇110:1)の御言葉に基づき、説明されました。



祈り:私たちが信じているのは生きているものの神であることを学びます。わたしの信仰は生きている神様にかけるものであること、希望のない死んだ信仰ではないことを感謝して歩めるように祈ります。

一言:主は生きている者の神



2023年 11月 13日 (月)

ルカの福音書20:45-21:4(47)
より厳しい罰を受けるのです

人々がイエス様の御言葉を聞きに集まりました。この時、イエス様は弟子たちに言われました。長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好む律法学者たちの悪い影響を受けないようにと言われました。彼らは表面上、敬虔そうに振舞いますが、裏では未亡人のような社会的弱者から財産を搾取したりしました。その一方で人々には霊的に見えるようにと非常に長い祈りをしました。イエス様はこのような人たちは厳しい罰を受けるだろうと警告されました。

イエス様は、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられました。彼らはわざわざ聞こえるようにコインの音を響かせるように投げ入れました。その一方で、貧しいやもめが投げ入れたのはたったの2レプタ銅貨でした。イエス様はこれを見て、貧しいやもめはすべての人々、特に金持ちよりも多く入れたと言われました。他の人々はあり余る中から、人に見せつけるためだけの物質を入れました。しかし、そのやもめは貧しい中でも自分が持っている生活費全部を投じたのです。彼女はまるでツァレファテのやもめのように、自分の命を繋いでくれているもので神様に仕えました(Ⅰ列17:12-15)。主は、私たちの外見を見られません。むしろ私たちの内面を見ておられ、私たちの心を見られます。弟子たちは外見を大事にし、敬虔なふりをする宗教指導者達たちのようにならないように注意する必要があります。もしそんなパン種に染まっているなら、今まさにそのような要素を切り捨て、新たに生まれ変わった弟子生活をするべきです。



祈り:私の信仰生活が自分の益のため、人の目を意識したものにおのずとなっている、そんな心を悔い改めます。ただキリストに投じる信仰を携えるようにお助けください。

一言:より厳しい罰


<<(1)    前のページ(19)    20    次のページ(21)    (24)>>

聖書別日ごとの糧