聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[etc]

2020年 11月 15日 (日)

ルカの福音書17:11-19(17) <収穫感謝特集2>
九人はどこにいるのか

 11節を見ると、イエス様がエルサレムに上られる途中、サマリアとガリラヤの境を通られたのが分かります。そこはサマリア地域とガリラヤ地域の境界で、どの地域にも属さない中間地帯でした。イエス様がある村に入ると、ツァラアトに冒された十人がイエス様の前に出てきました。彼らはどんな病も直してくださるイエス様が近くを通られると聞いて、急いでやって来ました。ところが、不潔なツァラアトに冒されていたことから、イエス様に近づけないでいました。ただ遠く離れたところに立ったまま、「私たちをあわれんでください」と声を張り上げました。
 その時、イエス様は彼らを見て、祭司に行って見せるようにと言われました。彼らがイエス様の御言葉に聞き従って行ったとき、途中で清められました。ツァラアトが癒されたのを見て、彼らは非常に喜び、歓呼の声をあげました。ところが、大声で神様をほめたたえながら引き返してイエス様の足元にひれ伏して感謝したのは、そのうちの一人だけでした。その人は、ユダヤ人たちが異邦人だと言って蔑視していたサマリア人でした。イエス様は彼を見て「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。」と言われました。そして神様に栄光を帰すサマリア人の信仰を認め、救いを宣言しました。イエス様は、私たちが受けた恵みを覚えてイエス様に戻って感謝し、神様に栄光を帰すことを願っておられます。イエス様は感謝する信仰を祝福されます。


適用:感謝しない九人ですか

一言:感謝するサマリア人になりましょう



2020年 12月 21日 (月)

ルカの福音書1:5-25(13)       <生誕特集1>
あなたの願いが聞き入れられたのです

 ザカリヤとエリサベツは、神様の御前に正しい人でした。彼らは、神様のすべての命令と掟を落ち度なく行っていました。ところが、彼らには子がいなく、二人ともすでに年を取っていました。それは、エリサベツが不妊だったからでした。正しく生きていたのですが、子がいないことは、大きな心の傷となっていました。神様が彼らの祈りを聞かれなかったかのように見えました。しかし、ザカリヤが神殿に入って香を焚いていた時、神様は御使いを遣わしてザカリヤの願いが聞き入れられたと言ってくださいました。「願いが聞き入れられた」ということは、神様が今までザカリヤの祈りを聞いておられた、ということです。そして、神様は、時になると、男の子をくださると言われました。ザカリヤに生まれる子供によって、ザカリヤだけではなく、多くの人も喜ぶ、と御使いは言ってくれました。これは、生まれる子がぶどう酒や強い酒を決して飲まず、母の胎にいる時から、聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを神様に立ち返らせるからです。その子が神様の御前に大いなるものになるからです。

神様は、子供がいない状況の中でも、自暴自棄になることなく、祈りながら主の御言葉通りに正しく生きていたザカリヤの祈りを聞いてくださいました。ザカリヤは、自分は年をとっているので、子供を産むことは、もう無理だと考えていました。しかし、御使いは、時になると、神様の御言葉が成し遂げられると言いました。神様は、義人の祈りを聞いておられます。そして、神様の時に、必ず答えてくださいます。ですから、自分が願う時に祈りが答えられなかったと気落ちしたり、絶望したりする必要はありません。祈りの答えが遅れる時には、もっと大きな善なる神様の御心があるのです。神様は、義人の祈りを聞いておられ、祈りの人を通して、ご自分の計画を成し遂げて行かれます。



適用:どんな状況の中でも私たちが祈ることが出来る理由は何ですか

一言:神様が私たちの祈りを聞いておられるから



2020年 12月 22日 (火)

ルカの福音書1:26-38(28)     <生誕特集2>
恵まれた方、マリア

御使いガブリエルは、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに尋ねて来ました。彼女は、ダビデの家系のヨセフという青年のいいなずけでした。御使いは、マリアに、神様から恵まれたことと神様が彼女とともにおられることとを言ってくれました。突然の御使いの言葉に、マリアはひどく戸惑いました。自分のような田舎者の処女に、神様が恵みを施されることは、考えたことがありませんでした。このようなマリアに臨まれた恵みは、大いなる方でヤコブの家を治める、いと高き方、神様の御子を産むことでした。神様が世を救うために計画された御業に用いられる恵みでした。ところが、この恵みは、婚約者であるヨセフからの誤解と、人々からの非難を浴びる可能性がありました。石打ちにされて殺される可能性さえあり得ました。結婚を前にした処女の素朴な夢を、諦めなければなりませんでした。しかし、御使いの言葉を聞いたマリアは、自分が主のはしためであるので、主の御言葉のとおり、この身になりますように、と答えました。マリアは、自分の夢が壊れて人々から非難されることになったとしても、神様がくださった恵みを担おうとしました。これはマリアが、自分は神様のはしためであるという事実を認識したからでした。神様のはしためとして、神様の御心に聞き従おうとしたのです。

神様の御前で、自分が神様の僕である、という事実を認識している人は、神様の恵みを担うことが出来ます。神様が成し遂げようとしておられる御業に、貴く用いられます。いと高き神様の御子を産み、神様の御業に用いられることは、本当に大きな恵みです。このイエス様を受け入れ、神様がなされる命の救いの御業に用いられることも、私たちに臨まれた大きな恵みです。



適用:どのようにして神様の恵みを担うことが出来ますか

一言:神様の僕としての自己認識を持つことです



2020年 12月 23日 (水)

ルカの福音書1:39-66(48)      <生誕特集3>
卑しいはしために、目を留めてくださった神様

 マリアは、親類のエリサベツを尋ねて行きました。御使いの言葉を確認したかったのでしょう。エリサベツは、マリアを見て、聖霊に満たされて大声で叫びました。マリアが女の中で最も祝福された方であり、胎の実も祝福されていると言ってくれました。エリサベツの言葉を聞いたマリアは、神様をほめ讃えました。マリアがこのように喜びながら神様を誉めたたえたのは、これらすべてのことを通して神様を知るようになったからです。また、自分が本当に幸いな女である事実を悟ったからです。マリアが出会った神様は、卑しい者に目を留めてくださった方です。卑しい者は、低い地位にいる人です。そして、周囲からの関心を受けることがほとんど無く、むしろ無視されやすい人です。しかし、神様は、卑しい者に関心を持って目を留めてくださる方です。「目を留めてくださる」(48)とは、好意をもって見る、心を留めて見る、という意味です。神様は卑しい女性マリアを顧みてくださって、神様の御子であり、王であるイエス様を産み育てる恵みを与えてくださいました。神様が卑しい者に目を留めてくださるのは、彼らを哀れまれるからです。また、卑しい者には、神様以外に頼れる存在がいないからです。ですから、卑しい状況の中で神様の助けを求める者たちは、神様から目を留めていただく体験をすることが出来ます。反面、神様は心の思いの高ぶる者を追い散らされ、権力のある者を引き下ろされる方です。なぜなら、高慢な人は神様を認めず、むしろ敵対するからです。卑しい者を顧みてくださる神様がおられるので、低められた状況の中でも、希望を持つことが出来ます。卑しい状況の中でも神様を待ち望み、助けを求める人は、神様の恵みを体験することが出来ます。



適用:私たちの神様はどんな方ですか

一言:卑しい者に恵みを施して下さる方



2020年 12月 24日 (木)

ルカの福音書1:67-80(69,78)   <生誕特集4>
救いの角、曙の光

 ザカリヤが息子の名前を「ヨハネ」とつけた時、彼の口が開かれ、彼の舌が解かれ、ものが言えるようになりました。彼は、子供が生まれるまでものが言えませんでしたが、その間、神様のことをたくさん考えたことでしょう。それで、口が開かれるやいなや聖霊に満たされ、神様をほめたたえました。彼がほめたたえた神様は、イスラエルを顧みて、贖いを成された方です。ザカリヤは子供が生まれた喜びよりも、神様がイスラエルの民を救おうとされることを悟った喜びで、主をほめたたえました。神様は、ファラオの手からイスラエルの民を救い出してくださったように、その民を敵の手から救い出してくださいます。神様は、そのために、救いの角をそのしもべダビデの家に立てられました。救いの角は、ダビデの子孫として来られるイエス様を指します。イエス様は、力強い角としてその民の敵であるサタンを退けます。サタンよりもっと力強いものとなって、その民を救い出してくださいます。イエス様は、罪の赦しによってその民を罪から救って下さいます。それで、敬虔に、正しく、恐れなく神様に仕えるようにしてくださいます。

 また、イエス様は曙の光となって暗闇と死の影に住んでいる者たちを照らしてくださいます。この「曙の光が、いと高き所から訪れる」(78)とは、神様から来られた、という意味です。曙の光が、いと高き所から訪れてくださることによって、人々の心にある暗闇が退き、死の影に住んでいた人々が照らされます。曙の光となられるイエス様が来られると、暗闇の中に住んでいた人々が平和の道に歩むことが出来るようになります。世に来られたイエス様は、敵の勢力を退ける救いの角であり、その民に大きな光を照らす曙の光となられます。



適用:私たちはどのようにして神様を賛美することが出来ますか

一言:救いの角,曙の光であるイエス様を下さった神様の恵みに



2020年 12月 25日 (金)

ルカの福音書2:1-14(10)     <生誕特集5>
大きな喜びを告げ知らせる

 月が満ちたマリアがベツレヘムまで行ったのは、皇帝アウグストゥスが全世界の住民登録をせよとの勅令を出したからでした。世界をローマ皇帝が治めているかのように見えましたが、神様は、アウグストゥス皇帝の住民登録の勅令を用いて、イエス様がダビデの町で生まれるようにされました。イエス様がお生まれになった時、御使いたちが、羊の群れの夜番をしながら野宿していた羊飼いたちに現れて、民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせてくれました。それは、ダビデの町ベツレヘムで救い主がお生まれになったということでした。主キリストがお生まれになったことが、なぜ民全体に与えられる、大きな喜びの知らせなのでしょうか。それは、すべての人に救い主が必要だからです。マリアを通して生まれるキリストは、すべての人を罪と死から救って下さる方です。すべての人が罪人であり、ローマ帝国を統治するアウグストゥスだけでなく、羊の群れを守っていた羊飼いたちまでも、すべての人が、この救いを必要としているのです。自ら解決できない人生の根本問題である罪と死から私たちを救って下さるキリストが来られたことは、大きな喜びです。ところが、このキリストは、王宮ではなく、動物達がいる所で布にくるまって飼い葉おけに寝かされていました。御使いは、これがキリストのしるしであると言いました。これは、飼い葉おけに寝ておられるみどりごイエス様が、キリストであるということの証拠です。世の救い主がこのように低くてみすぼらしい飼い葉おけに寝ておられることによって、どんな人でもキリストに出て行くことが出来ます。キリストが世に来られたことで、神様には栄光があり、人々には平和が与えられます。私のために神様の御子が救い主として来られた、という事実は、全ての民にとって大きな喜びの知らせなのです。



適用:大きな喜びの知らせは何ですか

一言:私のためのキリストがこの世に来られました


<<(1)    前のページ(10)    11    次のページ(12)    (14)>>

聖書別日ごとの糧