聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2024]

2024年 01月 12日 (金)

ヨハネの福音書4:1-15(14)
決して渇くことがありません

 イエス様は、サマリアのスカルという町の井戸の傍らで一人の女に出会いました。当時、ユダヤ人たちはサマリア人との付き合いを避けていました。しかし、イエス様はこのサマリア人の女を無視するどころか、「私に水を飲ませて下さい」とご自分から願い出られました。イエス様がこのようなお願いをした理由は、この女に神様の賜物、即ち生ける水を与えようとされたからです。イエス様は女の渇きを理解しておられ、その渇きを解決しようとされました。ところが、女はイエス様が与えようとする生ける水を井戸の水と同じようにしか考えられませんでした。イエス様はヤコブの井戸水を飲む者はだれでもまた渇きますが、イエス様が与えて下さる水は永遠に渇くことがないと言われました。イエス様が与えて下さる水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るからです。

 人々はそれぞれこの世で自分の渇きを解決出来る水を探して努力します。しかし、この世で得られる水は飲んでもまた渇きます。この世で得られる水には限界があります。イエス様が与えて下さる水、即ち生ける水は、一度飲めばその人のうちから絶えず湧き出る泉になり、渇くことがありません。人から与えられる愛、承認、称賛、富、力などはすぐに渇くものです。しかし、イエス様が与えて下さる愛、承認、称賛は、決して渇くことがありません。イエス様が与えて下さる水とは、究極的には聖霊を指します。イエス様が与えて下さる聖霊を受ける時、渇きで苦しむことがなくなります。



祈り:主よ、私がヤコブの井戸のかたわらをさ迷わずに、イエス様に出て行き、永遠のいのちの泉の水を飲むように、助けて下さい。

一言:永遠のいのちへの水



2024年 01月 13日 (土)

ヨハネの福音書4:16-30(24)
御霊と真理によって礼拝しなければ

 女はイエス様の御言葉を聞いて、これ以上渇かない水を飲みたくなりました。すると、イエス様は女に夫を呼んでくるように言われました。女にとって夫の問題は隠しておきたい心の痛みでした。なので、女は「私には夫はありません。」と、答えました。ところが、イエス様は女のことをよく理解し彼女の発言を認めた上で、今、女と一緒にいる者も真の夫ではないと言われました。自分の生き方を全て知っておられるイエス様に女は驚き、イエス様を預言者として認め、日ごろ知りたかった礼拝の問題について聞きました。これを見ると、女は普段から、神様に正しく礼拝を捧げたいと願っていたことが分かります。ユダヤ人たちはエルサレム神殿で礼拝を捧げるべきだと主張していましたが、サマリア人たちはゲリジム山で礼拝を捧げなければならないと教えられていました。

 イエス様は、どこで礼拝を捧げるかではなく、礼拝を行う態度こそが重要であると証しされました。神様は霊と真理によって礼拝を捧げる人を求めておられると言われました。女はメシアが来られ、全てのことを教えて下さると言いました。すると、イエス様はご自身がまさにキリスト即ちメシアであると答えました。この出会いにより、女性は信仰を深め、自分の問題から逃げずに真実と向き合うようになりました。そしてそれまで自分の罪ゆえに人とのかかわりを避けていた彼女は、自分から人々にイエス様のことをメシアとして紹介するようになりました。イエス様は私たちに神様がどんな方であるかを示し、自分本位に礼拝するのではなく、神様が喜ばれる礼拝こそが大事であることを教えて下さいました。イエス様のうちに留まる時、私たちは神様に喜ばれる礼拝者になれるのです。



祈り:私が形式に翻弄されて最も大事にするべきことに対して鈍感になっていたことを悔い改めます。御霊と真理による交わりを通して,主が喜ばれる真の礼拝をささげるように助けてください。

一言:御霊と真理によって



2024年 01月 14日 (日)

ヨハネの福音書4:31-42(36)
蒔く者と刈る者

 サマリアの女がイエス様をキリストとして受け入れました。主の御心を行い、そのわざを成し遂げること、すなわち人がイエス様を信じ、いのちを得ることがご自分の食物だと、イエス様は言われました。そして弟子たちに「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」と言われました。弟子たちが見ると、畑はまだ刈り入れ時ではありませんでした。また、サマリアの地は実を刈り入れる場所では無いように思われます。ところが、イエス様はサマリアの地は色づいて刈り入れるばかりになっているとおっしゃいました。これは、サマリアの女一人が生まれ変わり、多くのサマリア人たちが女の話を聞き、イエス様に出会うために出て来るようになったからです。サマリア人たちは、イエス様の御言葉を聞くために、二日間滞在してほしいと願いました。彼らはイエス様の御言葉を聞いて、イエス様がこの世の救い主であることを信じるようになりました。

 サマリアの地がこのように刈り入れるばかりの畑になったのは、そこに種を蒔く人たちがいたからです。エリヤ、エリシャ、アモスをはじめ多くの預言者たちがサマリア、かつての北イスラエルの地で神様の御言葉を宣べ伝えました。このように多くの預言者が種を蒔きました。その種が成長し、芽が出て、花が咲き、実を結び、刈り入れるばかりになっていました。イエス様は、弟子たちがその実を刈り入れる人々になることを願い、収穫の大切さを伝えました。収穫があると、蒔く者と刈る者が一緒に喜びます。撒かれた種とそれを育てた労苦の価値が明らかになります。永遠に至る実を刈る人は、種を蒔く人がいたということを覚えるべきです。そうするなら、蒔く人の労苦に感謝出来るようになります。また自分が今は実を結べないでいるとしても、将来刈るようになることを考え、喜ぶ心で蒔くことができるからです。



祈り:主よ、私たちに御言葉を植えてくださり、救い、守り、様々な賜物を与え、育ててく下さり感謝いたします。今度は私たちが種を蒔く者、収穫する者となるように助けてください。

一言:一緒に楽しみましょう



2024年 01月 15日 (月)

ヨハネの福音書4:43-54(50)
行きなさい。あなたの息子は治ります

 イエス様はサマリアを去ってガリラヤに行かれ、預言者が故郷で尊ばれないことを証言しました。ガリラヤに入ったとき、ガリラヤ人はイエス様を歓迎しました。これは、祭りでイエス様がエルサレムでなさった全てのことを見ていたからです。

 イエス様は故郷ナザレではなく、水をぶどう酒にされたガリラヤのカナに行かれました。イエス様がガリラヤのカナに着いた時、王室の役人が病気で死にかけた息子を治して欲しいと求めました。イエス様は冷たく拒絶されました。役人は落胆して、心が傷ついてそのまま帰ることも出来ました。しかし役人はあきらめませんでした。最後までイエス様に恵みを求めました。それでイエス様は命じられました。「行きなさい。あなたの息子は治ります。」この御言葉だけを信じて帰って行くことは、容易なことではありません。何かしるしでも見せて欲しいという思いが生じます。しかし王室の役人は、イエス様が言われた御言葉を単純に信じて帰って行きました。そして彼が帰って行く途中、しもべたちが迎えに来て、子どもたちが治ったと知らせました。その時刻を尋ねると、イエス様が言われた時刻と同じでした。この事を通して、役人とその家はみなイエス様を信じました。御言葉だけを単純に信じ、聞き従う信仰が、死んで行くいのちを生かします。私たちに御言葉を信じる信仰があれば、まだ主を知らない兄弟姉妹たちのたましいを生かすことができます。



祈り:全ての試練が私たちの信仰を成長させ、より豊かな実を結ぶために与えられていることを信じます。主において不可能なことはありません。今日も主の働き手として御言葉を信じ、実際に行動をする中で主のいのちのみわざを体験するように助けてください。

一言:御言葉を信じて行くと


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