聖書別日ごとの糧   >>   使徒の働き[2019]

2019年 02月 03日 (日)

使徒の働き2:1-13(4)
          聖霊に満たされ

 仕事をする時には必ずその仕事に相応しい能力が必要です。地の果てにまで主イエスの証人となる弟子たちにとっても同様です。弟子たちの多くはガリラヤの田舎の出身で、主の証人として必要な能力や実力が足りなかったはずです。もしかしたら、外国語が大きな壁となっていたかもしれません。当時の先進国であったギリシャの人たちを相手に証人となるには、力不足でした。しかし、そんな弟子たちに、イエス様は聖霊のバプテスマを約束してくださいました(使徒1:5)。弟子たちはその聖霊の力によって、地の果てにまで主の証人となることができるのです(使徒1:8)。
 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていると、突然、天から聖霊が臨まれました。まるで炎のような分かれた舌が現れて、弟子たちひとりひとりの上にとどまりました。聖霊様は弟子たちひとりひとりに人格的に臨まれました。弟子たちはみな、聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだしました。その時、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいました。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きました。人々はみな、驚き惑って、互いに「いったいこれはどうしたことか」と言いました。しかし、弟子たちが「甘いぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者たちもいました。これはまさに聖霊に満たされた結果です。聖霊が弟子たちの上に臨まれる時、彼らはめいめいの外国語が話せるようになったのです。
 主イエスの証人になるためには、人間的な能力や経験ではなく、聖霊の力が必要です。聖霊に満たされる時、私たちは十二分に使命を全うすることが出来ます。私たちが悔い改めて主イエスを信じるなら、主は私たちに聖霊様を賜物として送って下さるのです(使徒2:38)。また、御言葉と祈りに集中して聖霊様に従う生活に専念する時、聖霊様も私たちと共にいてくださるのです。主イエスの証人の人生は、自分一人で担うのではありません。聖霊に満たされる時、私たちはどんな苦難も乗り越えて主の証人の人生を歩むことが出来るのです。


適用: イエス様の証人の人生を生きるための必須要素は何でしょうか

一言:聖霊充満



2019年 02月 04日 (月)

使徒の働き2:14-21(17)
青年は幻を見る

 聖霊様が臨まれて、弟子たちが外国語を話し出すと、甘いぶどう酒に酔っているだけだとからかう人たちが出ました。それに対してペテロは、そうではなく、神様の霊、即ち、聖霊が臨まれた結果であると、預言者ヨエルのことばに基づいて説明しました。
 預言者ヨエルは終わりの日に注がれる神様の霊について預言しました。神様の霊が注がれると、息子や娘が預言をするようになります。ここで「預言」というのは、隠れされている神様の真理を明らかにするという意味です。聖霊が臨まれると、幼い者たちも神様の秘密を知って話すようになります。また、青年は幻を見ます。「幻」とは未来のビジョンを意味します。神様が私たちの目を開き見せてくださる遠大な計画のことです。それから老人は夢を見ます。普通、年と取ってゆくにつれて夢がなくなって行きます。 過去の思い出の中に生きながら、人生の虚無感に苦しむ場合も少なくありません。しかし、聖霊が臨まれると、老人も夢を見て未来について話すようになるというのです。体は老いてゆきますが、魂は希望と活力に満ちた青春のままです。神様は終わりの日に聖霊の恵みを?若男女、そして身分の上下を問わず誰にでも注いでくださいます。
 弟子たちは、まだ若かったにもかかわらず、人生のビジョンがなく、何のために生きるのか、人生の目的は何なのか、はっきりしていませんでした。しかし、聖霊が臨まれた時、彼らはビジョンある人に生まれ変わり、地の果てにまで主イエスの証人として生き、世界が福音化される幻を見るようになりました。
 この世には、夢を持たない老人のような生活をしている若者も少なくありません。体は大きく丈夫であっても、人生のビジョンがない人は無気力です。神様から与えられた夢がない人は、常に目先のことしか考えません。どうしたら良い所に就職し、良い生活ができるか、利己的なことしか考えません。しかし、 聖霊に満たされると、老人のような人でも夢を見、ビジョンに満ちた人生を生きられます。鷲のように翼を張って世界を飛び回る主の若い証人となります。聖霊様がこのような大きい御業をなしてくださるのです。ハレルヤ!!!


適用 : 幻を見、夢を見たいですか

一言 : 聖霊が 臨まれると



2019年 02月 05日 (火)

使徒の働き2:22-36(36)
神様が主ともキリストともされました

 ペテロは、どうしてイエス様が主ともキリストともされたのかについて、詩篇の御言葉を引用しながら証明してみせます。神様はナザレ人イエスによって、力あるわざと不思議としるしとを行われました。「それらのことによって、神はあなたがたに、この方の証しをされるのです。」とパウロは言って、主がメシヤであられることを証言しています。イスラエル人は主イエス・キリストを不法な者の手によって十字架につけて殺しましたが、イエス様は死で終わりませんでした。神様はこの方(主イエス)を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました(24)。それは、ダビデが詩篇で話したように、神様がご自分の聖者をハデスに捨てて置かず、朽ち果てるのをお許しにならなかったからでした(27)。
 弟子たちは主イエス・キリストの復活の証人です。弟子たちは復活された主イエスと再び出会い、主の傷付いた手と足も見て、触ったりもしました。主は彼らと40日もの間、ともにいてくださいました。その後、父なる神様は復活された御子イエスをご自分の右に上げられました。そのイエス様が、御父から約束された聖霊を受けて弟子たちにその聖霊をお注ぎになったのです(33)。
 ペテロは最後に、イエス様が主ともキリストともなられたことを大胆に宣布しました。十字架の出来事がまるで昨日のことのように思えて、イエスの死んだ姿がまだ心に生々しく残っていたイスラエル人にとっては、この宣布は、大きなショックだったに違いありません。
 イエスを主ともキリストともされたお方はだれでしょうか。それは神様です。神様は罪の中で滅びるしかなかった私たちのために御子イエスをこの世に送り出されました。また定めた通りに十字架で死なせ、それからまたよみかえらせました。人々の中には、神様が主ともキリストともされたこのイエスを否認する人もいます。また、イエスの追従者たちが巧みに作った作り話だとも言う人もいるでしょう。しかし、イエス様を主ともキリストともされたのは神様です。ですから、これは絶対的な真理なのです。イエス様を主としてキリストとして信じて告白する者はだれでも救われるのです。


適用 : 誰がイエス様をキリストにされましたか

一言 : 神様がなさった



2019年 02月 06日 (水)

使徒の働き2:37-47(38)
キリストの名によって (I)

 聖霊に満たされたペテロは、ユダヤ人が拒絶し、殺した主イエスを神様が主ともキリストともされたと証ししました。人はだれでも、神様が主ともキリストともされたこのイエスを信じ、その名を呼べば救われます。パウロは彼らにこう言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」(38)、「この曲がった時代から救われなさい」(40)。
 41-47節には主イエス・キリストを信じて救われた人たちが記されています。41節を見ると、パウロのことばを受け入れた者たちはバプテスマを受けました。何とその日だけで三千人ほどが弟子に加えられました。これはまさに聖霊が起こした奇跡です。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りもしていました(42)。聖霊を賜物として受けた信者たちは、いっしょにいて、いっさいの物を共有していました。また、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じてみなに分配し、喜びと真心を持って食事をともにし、神様を賛美したのです。そして、彼ら信者たちはすべての民に好意をもたれ、主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださったのです。 
 人がイエス様の名を呼ぶ時、救いを得ます。暗闇から救い出されます。何よりも罪による死の力から完全に解放されます。暗闇と死の陰に座っていた人が光を得て、平和の道に導かれます。これが、イエス様が主の主であられ、真のキリストであられることの確かな証拠なのです。
 イエス様はもう肉体ではこの世にはおられません。しかし、主は今も私たちの間に住まわれます(ヨハネ1:14)。主の御名には救いをもたらす力があります。主イエスは十字架につけられて死なれましたが、死者の中から三日目によみがえり、今なお生きておられます。ですから、主の御名を呼ぶなら、今、この瞬間にも働いて下さるのです。イエス様は今も生きておられます。そのイエス様の御名は主イエス・キリストです。


適用 : イエス・キリストの名によって何を得ましたか

一言: 罪の赦し


<<(1)    前のページ(1)    2    次のページ(3)    (28)>>

聖書別日ごとの糧